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ある晴れた日、伝蔵の一人息子、山田利吉が学園にやってきた。
「父上、土井先生、ご無沙汰しておりました」
「良く来たな、利吉」
「こんにちは、君が利吉くんか。山田先生から話は聞いてるよ」
「?土井先生?」
「あぁ、半助は記憶を無くしていてな」
利吉は驚いたように半助を見る。半助はため息混じりに微笑んだ。
「何とか思い出せないかといろいろ試しているんだけどね」
「そうですか…」
利吉は目を伏せ半助の運んで来た茶を飲んだ。
しばらく複雑そうに黙っていたが、近況を坦々と語りだした。
山田の妻が一向に帰ってこない伝蔵に腹を立てていること、利吉の縁談の話。
「ほお、縁談とな」
「笑い事ではありません。父上があまりに帰ってこないので、私にとばっちりが来るのですよ」
「とばっちりとはひどい言い草だの。妻を娶り子をなしてこそ一人前であろう」
「ですが…」
それでもぶつぶつ言っている利吉を伝蔵はいなすように見た。
利吉はちらりと半助を盗み見る。半助は父子のやり取りを楽しそうに聞いているようだった。
「それとも他にいい相手がいるのか?」
「えっ?!」
伝蔵に詰め寄られ言葉につまった利吉が助けを求めるように半助を見る。
半助はくすりと笑って会話に加わった。
「奥方も寂しいのですね。先生、今度の休みには帰ってあげてください」
「ああ、だが…」
「私は大丈夫です。ここで自習していますから」
一向に記憶が戻らない自分を心配し、休みの日も学園にとどまっていてくれている伝蔵にこれ以上わがままは言えまい。
伝蔵とて男盛りである、たまには妻と…考えると半助の心の奥がキリリと痛んだ。胸の内を押し殺し伝蔵に笑いかける。
心配するように自分を見る瞳。しばし視線が絡み合う。居心地が悪そうに2人を見ている利吉。
そんな利吉を救うように授業時間の開始を知らせる鐘が鳴った。
「おお、もうこんな時間か…次の授業が始まるわい」
「申しわけないです、せっかく利吉くんがいらしているのに」
教科の授業まで押し付けてしまって…と申し訳なさそうに言う半助の頭を伝蔵は手に持った出席簿でぽんぽんとたたいた。
半助が顔を上げると伝蔵は優しく笑いかけ利吉に向き直った。
「ゆっくりして行け」
「はい」
部屋を出て行く無駄のない動きについ見とれてしまう。そんな自分を複雑そうな顔で見ている利吉の視線を感じる。
ふいに利吉は半助の手を自分の頬に引き寄せた。その手のひらにちゅっと口づける。
「何を?」
「恋人である私を忘れてしまったんですか?」
「こ…恋人?!」
「はい、見合いを断ったのもあなたを愛しているからです」
半助は驚いたように利吉を見た。真摯に自分を見つめる瞳。整った顔立ち、父親ゆずりの鋭い眼は強い意思を秘めているようだ。
…私が利吉くんと…心の中で呟いてみても答えは出ない。パニックになりそうな自分を抑えるように深呼吸した。
意を決して利吉を見る。
「君ほどの器量ならいくらでも相手はいるだろう。君を思い出せない私のことなど忘れていい女性を見つけなさい」
「先生!私はあなたがいいんです。いえ、あなたでなければだめなんです」
「君はまだ若い、衆道などに身をやつさずに…」
半助の言葉を聞いていた利吉の顔色が変わった。半助を強く引き寄せ抱きしめる。
「忘れたのなら、思い出させてあげます」
わけが分からない顔をしている半助に利吉は口づけた。強引に歯列を割られ舌を絡め取られる。
繋がっている場所から全てを奪われるような激しい接吻に恐怖を感じ心が悲鳴をあげた。
…自分の想っているのは利吉ではない…
半助は身をよじると肘で利吉の鳩尾を打ち腕の拘束から逃れた。
「ぐぅっ」
「違う!」
言ってからはっとした。何が違うというのか、自分はこの男の恋人だったというに。
胸を押さえ咳き込みながらも自分を見る利吉のまっすぐな視線が突き刺さる。
利吉はふう…と苦しげに息を吐き呼吸を整えると半助の目を見つつ言った。
「あなたは記憶をなくしていても父しか見ていないんですね」
「なっ」
半助は襟元をおさえうつむき唇を噛んだ。はっきりと自覚してしまった想い。
否定しなくてはと思っても、言葉が喉の奥に引っ掛かって出て来ない。
そんな半助を見て利吉は立ち上がった。
「利…吉くん…?」
「ごめんなさい、帰ります」
利吉はそう呟くと部屋を出て行った。
何か言葉をかけなければ…好きだと言ってくれている男と受けられない自分。
利吉は子供のように泣き出しそうに見えた。
せめて彼をこれ以上傷つけない言葉を…何も言葉が出てこなかった。
「あれーもうお帰りですか?」
「ああ、次の仕事が入っていてね」
外から小松田と利吉の会話が聞こえる。部屋を出て行く利吉は泣いているように見えたのにさすが忍者、
感情を押し殺す術には長けている。
そう考えるといとも簡単に伝蔵への想いを悟られてしまった自分の不甲斐なさに腹が立った。
「おや?」
授業が終わり部屋に戻ると半助も利吉もいなかった。
伝蔵が「もしや2人は…」などとあらぬ妄想を巡らせている所に小松田が現れた。
「山田先生、土井先生は大丈夫でしょうか」
「半助がどうかしたか?」
「利吉さんが帰ってから少しして出かけて行ったんです、考えたいことがあるとか言って」
「うーむ」
「心配なんです。以前の先生には人を寄せ付けない緊張感があったんですが、最近はなんというか…」
それは伝蔵も感じていたことである。記憶をなくしてからの半助は所作事の一つ一つがどこか儚く感じられる。
元々男女問わず人気のあった半助である。
生徒からは頼れる兄貴分として、教師たちからは年のわりに忍術に長けていると畏怖を持って。
しかし最近では触れれば落ちなんとする香気が感じられ、上級生の中にもそういう目で見る輩がいるらしい。
最近の伝蔵が休みでも学園から離れられないのはそういうならず者から半助を守るためでもあった。
「土井先生のことだ、心配はいらんと思うが。私が探しに行って来よう」
「そうですか、ではこれにサインをお願いします」
「あ、ああ」
小松田は出門表に伝蔵のサインをもらうと嬉々として去って行った。
その後ろ姿を眺めながら、伝蔵は小さなため息をついた。
「さて、どこから探せばいいものか…」