吐く息が白くなり、学園の各教室に火鉢が入る頃になっても利吉は半助のもと
に姿を現さなかった。
半助は、あえてその後の経過を誰かに問うことはしなかったし、どういう結果
が出たにせよそれを享受する覚悟はできていた。
利吉には、自分の幸せを、自分で選択する権利があるのだから。
たとえ別れることになっても、相手の幸せを願わずにいられないなど、こんな
ふうに誰かを大切に思ったことなどなかった。
それは、年下の若い恋人には理解できない感情なのかもしれない。
しかし、誰が、同性に、同じ男に、身体を開いて、その腕(かいな)に背中を
あずけて、弱点である喉を晒して、好きでもない人間に抱かれたりするものか。
手放したつもりの感情がどろどろと内側で渦を巻く。
かつては戦の中で捨ててしまった人間らしさを、皮肉なことにその恋人が思い
出させてくれたらしい。我ながら女々しいと、半助は苦笑混じりの日々を送って
いた。
そんなある日、半助は学園長に秘密裏に呼び出されたのだった。
そこには、学園長と山田伝蔵が深刻な表情で待っていた。
「利吉くんが狙われている?」
「そうじゃ」
半助の問いに学園長が答える。
「どういうことです。何か難しい仕事でも?」
「いや、そういうわけでもないのだが・・・」
「つまり、利吉くんの命そのものが標的になっていると」
「そう考えて間違いないと思う」
「とうことは・・・・まさか」
山田が口を開いた。
「そうだ、半助。動いているのはどうやら忍びではなく暗殺者集団。
どうやら毒と弓を扱うらしい、というところまではわかっている。
だが、なぜ利吉が狙われるのかは、調査中だがまだわからん」
「やっかいですね。見えないところから毒矢で狙われたら・・・・。
しかも、目的がわからないと手のうちようもない。
このことは利吉くんは?」
「伝えてある。だが・・・・」
山田は半助に向いて居住まいを正して言った。
「明後日から利吉は某城の密書を盗む依頼を受けている。暗殺者達もそれに乗
じて襲ってくると予想される。
あれは、確かに忍びとしてそこそこ名を馳せるようになった。しかし、己の
力を過信しておる。まだまだ 未熟なくせに、いや、未熟だからこそこちらの忠
告など聞き入れん。
半助、頼む。あれに手を貸してやって欲しい」
山田は床に手をついて深々と頭を下げた。
半助は、山田のこういうところをとても尊敬している。
上下に拘らず、できないことはできないと頭を下げる。本当の強さをこの同僚
は持っている。
「山田先生。顔を上げてください。
利吉くんも、そんなに簡単に手に掛かりはしないでしょうが、私もできる限
り彼の手助けをしたいと思います」
「すまない、半助」
山田は少し安心したように微笑んだ。
「あんな息子でも、今は特に大事なときでな」
ふたりのことを知る学園長が、一瞬気まずそうな表情をしたが半助は気付かぬ
ふりをした。
※ ※ ※ ※ ※ ※
半助と利吉は街道を北へと進んでいた。
利吉の受けた仕事は予定通りなんの問題もなく終わった。密書は利吉の懐にお
さまっている。
ふたりは必要なこと以外は全く口をきいていない。
半助は、任務に私情をはさむつもりは全くなかったし、何より利吉が命を狙わ
れている以上、一瞬たりとも気をぬくことができなかった。
一方、利吉はというと、大木に諭されたことが頭では理解できても、こだわり
を捨て去ることができないでいた。
そして、半助が手助けに現れたことがいっそう利吉の心をかたくなにした。
自分は一流の忍びなのだ、己の身くらい己が守る。
暗に、おまえは未熟だと言われたようで、くだらないと言われようと、プライ
ドを固持したかった。
「利吉くん、山道に入ったあたりが危ない。気を付けろ」
「わかっています」
かさかさと乾いた風が落ち葉をはこぶ音がする。
どこかで百舌鳥がきちきちと悲しげに啼いた。
振り仰げば白茶けた太陽の光が木々の間から射し込んでいる。
・・・・いち、に、さん・・・・気配は五人。
「来たぞ、利吉くん」
「ええ」
ひゅんっ、と弓が鳴る音がして、利吉と半助は藪の中に飛び込んだ。
極太の矢が樹の幹に突き刺さりビンビンと空気をふるわせて揺れていた。
「利吉くん、私が煙幕を張るから、その隙に君は走れ。学園までそう距離はな
い。いいな」
「・・・っ、逃げろと?」
「そうだ。敵の目的がわかるまで手の討ちようがない。今は身を守ることだけ
考えろ」
「冗談じゃないっ。敵に背を向けるなんていやです」
「利吉くん、忍者のつとめは、第一に依頼を果たすこと、そして、生きて帰る
ことだ」
「半助は、かまいませんからどうぞ逃げてください。はじめから私ひとりでも
なんとかなります。勝てない相手じゃありません」
「利吉くんっ」
半助の腕を振り払って、利吉が飛び出した。
「ちっ」
半助は舌打ちをする。
全く・・・誇り高くて、意地っ張りで、頑固で、わがままで、負けず嫌いで・
・・・なまじ力があるから、は組の生徒よりも質(たち)が悪い。
だけどね、利吉くん。困ったことに、そんな君が愛しくてたまらないんだ。
だから、たとえ君がこの先誰のものになろうとも、今、君を喪うわけにはいか
ないんだ。
半助は、地面を蹴った。
つづく