初秋の風は、まだ幾分かの熱気をはらんで、それでもわずかに、訪れる季節を予感させる。
机の上の答案用紙の束を、飛ばされないように押さえながら、土井半助は今日幾度目かのため息をついた。
ため息をついたところで何も変わりはしない。
それならば、目の前にある仕事を片付けてしまおう。
墨をすり、筆にふくませたところで腕が止まる。負の思考に絡め取られて身動きができない自分に気がつき、そしてまた、ため息をつく。
その拍子に、筆の先からぽとりと墨が落ちて、答案用紙の上に黒いシミをひろげていった。
「あっ」
あたふたと、反故を探そうと机から離れた途端、風が答案用紙をめくりあげ四方にばらまいた。
「ああ〜〜〜っ」
みっともなく四つんばいのまま、部屋の中を這い回る。
ふと顔を上げた半助の目に、開け放たれた障子越しのぬけるような青空が映った。
邪気のないその青さは、今の自分をあざ笑っているようで、半助は少し泣きたくなった。
※ ※ ※ ※ ※ ※
話は少しさかのぼる。
今朝。7日ほどの休暇を終えて、山田伝蔵が学園に姿を現した。
実は、半助は、休暇明けのこの同僚に会うのを、いつも少なからず楽しみにしている。
もちろん態度には表れない程度に。
山田の休暇は、息子・・・利吉の帰宅に合わせて取られることが多い。
だから、休暇明けの山田からは、しばらく会えないでいる利吉の様子を聞くことができるのだ。
今朝も例に漏れず、山田は奥方からの差し入れの饅頭を差し出しながら、利吉が元気であること、うまく仕事をこなしていることなどを告げた。
そして、利吉から・・・と言って一冊の本を半助に手渡す。
それは、前々から半助が欲しいと思っていたものだった。
利吉は、仕事柄いろいろなところに旅をする。
そしてそのたびに半助の喜びそうなものを手に入れてくるのだ。
それは、書物であったり、土地の名産であったり、様々なのだが、どれも半助が何気なく話題にしたものだったりする。
半助自身でさえ忘れていたようなことまで、利吉はおぼえていてくれる。
そのことが半助にはたまらなく嬉しいのだ。
半助は、山田に手渡された本を愛おしげにそっと撫で、そう遠くないうちに現れるはずの利吉を想う。
山田の休暇が明けた後、母の言伝だの、父の忘れ物だの、何かと理由をつけて利吉は学園にやってくる。
そしてそれは、恋人たちのつかの間の逢瀬になる・・・はずだった。
「山田先生、ずいぶん嬉しそうですね」
「ほお、半助、わかるか」
いつになく機嫌のいい山田に半助は問いかける。
「孫がな、できるかもしれん。儂もじいさんか・・・」
「・・・・・孫・・・ですか」
何のことだ。孫とはどういう意味だ。子供の子供、利吉君の・・・子供。
思考が先に進むことを拒否している。
呆然としている半助の姿に苦笑いをして、山田は照れたように告げた。
「いやいや、これはちょっと気が早すぎましたな。
実は、利吉が見合いをしてな。どうやら町で見初められたらしい。
良い御店(おたな)の娘さんでなかなかかわいらしい子じゃった。
利吉にはもったいないような話だが、向こうさんが気に入ってくれたというのなら、
と思ってな。」
ものを言わなくなった半助の様子に、勝手に思い当たったのか、言い訳をするように山田が言った。
「いや、あんたもそろそろ嫁をもらわんといかんですな。
心当たりを当たってみましょう。」
ずいぶんと的外れな伝蔵の言葉に、苦笑する余裕もなかった。だが、
「いえ、私にはは組の子供たちがいますから・・・」
ようやくの思いで微笑んで告げた。
「利吉くん、うまくいくと・・・いい・・・ですね」
※ ※ ※ ※ ※ ※
心の奥底の思いを隠して、微笑むことができる・・・
そんな自分の特技を、これほどありがたいと、また疎ましいと思ったことはない。
そんなことは認めないと泣き叫べばよかったのか。
彼は自分のものだと怒りにまかせて告白するべきだったのか・・・そんなこと、できるわけがない。
「・・・仕方・・・ない・・・じゃないか・・・」
小さくそうつぶやいて、拾い集めた答案用紙の束をそっと抱きしめた。
「いつか、こんな日が来ると・・・わかっていた・・・」
いつしか日は傾き、やかましいほどの虫の声が庭にあふれていた。
つづく