第4回

 何ヶ月かがあっという間に過ぎた。
 その日、准一とゴーは、並んで木の枝に座っていた。ケンとアンジーはいなくて、ふたりきりだった。その日はゴーは最初から元気がなくて、ふたりともどこも飛び回らずに、枝に座ったきり、ただ、静かなジャングルを眺めていた。
 ゴーの様子がおかしいのでなにか尋ねようかと思いながら准一が迷っていると、不意にゴーのほうから声をかけてきた。
 「……ジュンチ」
 准一はゴーの方を向いた。
 「なんや? ゴー」
 「ジュンチ、前、言った。ゴー、ヒト。ケンとアンジーと、違う」
 いつかゴーは、准一に意味がわかるくらいにしゃべれるようになっていた。それは、准一もうれしくなる上達ぶりだった。准一が喜ぶのでゴーはいつも言葉を話すときは楽しそうに話したが、今、そう言うゴーの顔は、いつになく、沈んでいた。
 「うん」
 「ゴーのオカーサンとケンやアンジーのオカーサンと、違う」
 「ああ、言ったよ」
 「……」
 「? なに考えてる? どうしたの?」
 黙ってしまったゴーに、准一は尋ねた。ゴーは枝に片足を立ててその膝に顎をつけ、しばらくなにか考えていたが、やがて顔を上げると、言った。
 「ジュンチ、違うよ」
 「なにが?」
 「ゴーと、ケンと、アンジーのオカーサン、同じ」
 「うーーん……」
 准一は困って、ちょっと首をひねった。ゴーは繰り返した。
 「同じ」
 「……なんで?」
 「ゴー、きのう、オカーサンと話した」
 「オカーサンて?」
 准一は驚いて尋ねた。
 「ゴーのお母さん? まさか、ゴーのお母さんもジャングルにいたのか?」
 ゴーはこくんと頷いた。
 「そう。ゴーとケンとアンジーのオカーサン」
 「ああ……」
 驚いて枝から身を起こしていた准一は、それを聞いてまた後ろの枝に寄っかかった。
 「人じゃなくて……、チンパンジーのお母さんのことか」
 「オカーサン、ゴーがヒトと遊んでること、あんまりよく思ってなかった。前から、やめたほうがいいって言ってた。でも、ゴー、気にしてなかった」
 「……」
 「でもゴー、昨日、つい、聞いてしまった」
 「……なにを?」
 「ゴー、オカーサンの他に、ヒトのお母さんいるのかどうかって」
 「……」
 「そしたらオカーサン、悲しんだ。ゴー、ヒト、ない。他にオカーサンないって言った。ゴー、ケンとアンジーと、オカーサンと同じって言った」
 そう言うとゴーは、また黙って沈み込んだ。
 「そうか……」
 なんとなく、ゴーの言うことがわかった気がして、准一は声をとぎらせた。
 「チンパンジーのお母さんは、ケンやアンジーと同じようにゴーをかわいがって育ててくれたんだね。だから、ゴーが人だっていうのが嫌なんだ」
 「……」
 「ねえ、ゴー。俺、チンパンジーのお母さんはえらいと思うよ。人間のお母さんでも、他人の子を自分の子みたいに育てることはなかなかできへん」
 「……」
 「でもさ、ゴーは」
 准一はそれから先を、どう言えばいいのかわからなくなった。もしかしたらゴーはチンパンジーだと思って暮らしていたほうが幸せなのかもしれないし……。
 ゴーが悲しそうな顔をしているので、准一は胸が痛かった。もしかしたら自分は余計なことを言って、ゴーをいたずらに混乱させてしまったのかも知れない。
 でもやはり、准一は、
 「……ゴーはヒトや」
 と言った。
 「ヒトだけど、ケンとアンジーと同じにオカーサンに大切に育ててもらったんだよ」
 「……」
 そう言われてゴーは、やっと、少しだけ笑顔になった。だが、すぐまた悲しそうになって、自分の膝を見ながら言った。
 「オカーサン、ゴーにジュンチともう会うなって……。だからゴーは今日、ジュンチにさよならだけを言いに来たんだよ」
 「え」
 准一は聞き返した。ゴーは悲しそうにまた言った。
 「オカーサン、こうも言った。ジュンチは、いつかゴーを遠いところに連れて行ってしまうって……」
 「……」
 准一はどきりとして黙り込んだ。このごろの准一は、ゴー達と会った後、ゴーのことを長野や坂本に相談しなくていいのか、ゴーをいつまでもこのままにしていていいのかと考えるようになっていたのだ。
 「そんなこと、俺は……」
 准一はそう言って口ごもった。
 ゴーはそんな准一を見ていたが、やがて突然立ち上がり、准一の腕を取った。
 「ジュンチ。ゴーといっしょに来て!」

 准一はゴーの後をついて、ジャングルの奥へと入って行った。
 蔦を使って飛ぶことには准一もすっかり慣れていたからそれは苦ではなかったが、奥に入るにつれてジャングルは深さと暗さを増し、しばらくすると准一には、どこをどうしてやって来たのか、全然わからくなった。
 やがて、緑のドームみたいな、ぼんやりと明るい広い場所に出た。なんだかステージみたいなところだった。ゴーはそこで止まり、准一の腕を引っ張ってその中央に歩いた。
 まわりは静かだった。ステージみたいだけど、観客席には誰もいない。そこに立った准一は最初はそう思って、それからびっくりした。よく見ると、ステージを取り巻く緑の合間合間にキロキロした瞳がたくさん見えたのだ。
 なんと、ステージを囲んだ肉厚の樹々の葉の向こうには、こちらから見えないように隠れたチンパンジーたちが、数えきれないくらいいたのである。
 だがゴーは、そんなことは気にしないようにあたりを見回して、大きな声で叫んだ。
 「……キキ!」
 だが、チンパンジーたちは誰も返事をしなかった。
 「キキキ!」
 ゴーがまた、声を出した。
 やがて、木々の合間から一匹の老いかけた雌チンパンジーが出てきた。雌チンパンジーの肩にはアンジーがしがみついている。すぐ後ろからはケンも出てきた。准一はすぐに、その雌チンパンジーがゴーとケンとアンジーのオカーサンなのだとわかった。
 ケンも、アンジーも、今日はなんだか神妙だった。ゴーと准一を見ても、オカーサンから離れず、黙っている。
 ゴーはおもむろにオカーサンの前に座った。そしてなにかをオカーサンに話し出した。
 ゴーはときどき、後ろに立っている准一を指さした。普通の人には「ウキキ」の繰り返しとしか聞こえないだろうが、准一にはゴーが懸命に自分の気持ちを伝えようとしているのがよくわかった。
 だが、雌チンパンジーはゴーになにも答えなかった。准一の方を見もしない。だが、ゴーは懸命に話し続けた。
 そのまま雌チンパンジーが固い表情で黙っていると、不意に雌チンパンジーの側からケンが離れて、准一の側にやって来た。どうやらオカーサンに向かって、准一の味方をしてくれているようだ。
 それを見ると、アンジーもオカーサンの肩から降りて、するすると准一の肩に乗って来た。ゴーも振り返ってそんなアンジーとケンを見つめた。
 ケンとアンジーが味方になってくれたと思うと、それまでこの見知らぬ場所に多少おじけづいていた准一にも、急に力が湧いた。准一は、今自分がしなければならないことがわかった。准一は雌チンパンジーの前に近づいた。
 「……あなたがゴーのオカーサンなんですね」
 准一は丁寧に話しかけた。
 オカーサンは顔を上げて准一を見た。
 「俺、岡田准一と言います」
 准一は言った。
 「船が難破して、長野さんと坂本さんと、ここの浜辺にたどりついたんです」
 オカーサンはじっと准一を見た。
 「よくは知りませんが、ゴーも昔、船が難破してこの浜辺に流れ着いたのではないでしょうか。きっとオカーサンは、親を失った小さいゴーの母親代わりになって、ゴーを育ててくれたんですね」
 オカーサンは、まだ用心深そうになにも言わなかった。
 「オカーサンが、小さな頃から自分の子ども同様に育てたゴーをヒトじゃないと言うのは、よくわかります。ゴーもオカーサンが大好きです」
 「……」
 「でも、ゴーがヒトなのはほんとうです。見てわかるとおり、ゴーはあなた達より俺に似てる。教えたら、俺とヒトの言葉でしゃべることもできるようになったんです」
 オカーサンはうつむいて顔をしかめ、頭を横に振った。
 「聞いてください。俺はあなたたちから無理矢理にゴーを引き離そうとは思いません。だけど、ゴーは俺の大切な友達です。俺がゴーと会って話したり遊んだりすることは許してくれませんか」
 「……」
 「オカーサンが俺と会うのをやめろと言えば、オカーサンをとても好きなゴーはオカーサンの言うとおりにするでしょう。でも、ゴーと会えないことは、俺には、とっても悲しいことなんです……」
 もしかしたらこれきりゴーと会えなくなるかも知れないと思うと、准一はほんとうに悲しくなってきた。
 准一が黙ると、ゴーは、准一の言葉をオカーサンに通訳するように、チンパンジーの声でオカーサンにしゃべった。だが、ゴーは身振りを交え一生懸命話したのに、オカーサンは首を横に振り、「ウキキキ」と言っただけだった。
 「……なんて?」
 准一はゴーに尋ねた。
 「オカーサン、仲間でないものの言う事なんて信じられないって」
 ゴーはそう言って、肩を落とした。そのとき、まわりのチンパンジーたちがざわつき出した。
 どこからか、「ヴギギギ」という、低い声が聞こえてきた。低いがよくとおる、威厳のある鳴き声である。そして、その声と共に、木の葉の合間から、雲のように真っ白な老チンパンジーが姿を現した
 准一も驚いたが、その姿にはオカーサンも驚いたようだった。
 「キキ!」
 オカーサンは叫ぶと、あわててそのチンパンジーに礼をするように頭を下げた。
 今まで木々の向こうでこの出来事を眺めていたチンパンジーたちも、あわてて姿を現して、白いチンパンジーに頭を下げた。ゴーも頭を下げた。准一もマネをして頭を下げ、それからそのチンパンジーを見た。
 白いチンパンジーは威厳のある顔を上げて、准一を眺めていた。おそらく大変な年寄りなのだろう、その顔には深い皺が幾筋も寄っていたが、衰えた感じは全くしなかった。しばし、白いチンパンジーは准一の瞳を見、それからオカーサンの方を向いた。
 「ギギギ」
 しばらく白い猿はオカーサンに向かってなにか言った。オカーサンは、ますます頭を下げた。それから白い猿はゴーに何か言い、それから最後にまた准一を見据え、低い声で尋ねるようになにかを言った。
 オカーサンは、泣いているような顔だった。ゴーも頭を下げたままで、なにも言わなかった。
 准一になにか言ったのを最後に白いチンパンジーは黙ると、しばらくじっと准一たちを見つめてから、静かにもと来た方に去っていった。
 白いチンパンジーが去ると、他のチンパンジーは互いに顔を見合わせ、もう、このことは決着がついたと言うように、三々五々散って行った。
 ステージの上には、オカーサンとゴー、それにケンとアンジーと准一だけが残った。
 「ゴー?」
 おずおずと准一は声をかけた。
 声を掛けられて、ゴーはやっと准一の方を向いた。そして、言った。
 「今のは、俺たちの中で一番立派な仲間。歳取って、賢い。”白い雲”って呼ばれてる」
 准一は頷いた。
 「立派なチンパンジーだと言うことは俺にもわかった」
 ゴーも頷くようにして、
 「白い雲は最初、オカーサンに言った。オカーサン、ヒトの子を育てた。偉い母親だって」
 「……」
 「オカーサンはヒトの子を育てたことで仲間はずれにされたり、嫌な目にあったりしたのも、白い雲は知っているって。でもオカーサンは弱くて幼い子どもを捨てたりせず、育てとおした、とても偉いって」
 「……」
 「でも、ヒトの子はヒトの子だって。仲間を求める気持ちは仲間もヒトも同じだから、それを止めることは誰にもできないだろうって」
 そう言いながら、ゴーは、うつむいた。
 「それから、俺には、なにが失っていいものでなにが失ってはいけないものか、自分で考えないといけないって。それがわかればすべてわかるって」
 「……」
 「そして最後に白い雲はジュンチに尋ねた。おまえの仲間も、みなおまえのような澄んだ眼をしているか、と」
 「……」
 オカーサンはがっかりしたようにじっと座っていた。ケンとアンジーがオカーサンの両脇に座って、なぐさめるように顔をのぞき込んでいた。
 ゴーもすっかり黙り込んだが、ゴーは准一を帰すことを忘れてはいなかった。ゴーは准一に合図してまた蔓につかまり、ジャングルの中をもと来たところまで戻った。
 やがてふたりはいつもの木の根っこのところに着いた。
 別れるときになってもなにも言わないゴーに不安になって、准一は尋ねた。
 「ゴー、これからもジュンチに会いに来るよな?」
 ゴーはあの白い雲と呼ばれるチンパンジーに、なにが失っていいもので、なにが失っていけないものかを自分で考えろと言われたのだった。……もしゴーが、准一と遊ぶひとときなんか別に失ったってかまわないと思っていたら。
 二度目に別れたとき以来、別れるときはいつもゴーから准一のほっぺたにキスするのが習慣になっていたのに、今日、ゴーは准一にキスしなかった。ゴーはうつむいて、
 「ジュンチ、さよなら」
 とだけ言った。
 准一はもう一度、
 「ゴー、また会えるだろ?」
 と尋ねた。
 だがゴーは答えずに、自分でもわからない、というようにうつむいたままかすかに首を振って、そのまま准一を見ずに去って行ってしまった。

 もしかしたら明日からゴーが自分に会いに来ないと思うと、その晩、准一は眠れなかった。波の音や、ジャングルから聞こえる鳥の鳴き声などを聞きながら、准一は何度も何度も寝返りを打った。
  
 次の日、准一はいつもより早くゴーに会いに行った。しかし、ゴーは現れなかった。しょんぼりとゴーを待つうちに、どこからか聞き慣れた鳴き声が聞こえた。見ると、ケンだった。
 「ケン!」
 准一は叫んだ。
 「ゴーは!?」
 だがケンは、素知らぬ顔で准一の脇に座っただけだった。
 「おまえひとりか。アンジーも来ないんか」
 隣のケンに尋ねたが、ケンは、ちらっと准一を見たきり、やはりなんとも言わない。
 「おまえ、俺のこと嫌いだから、ゴーと会えなくなっていい気味だと思ってるんだろう」
 思わず准一はケンに嫌みを言った。だがケンは怒らずに、黒い目で准一を見上げた。そんなケンを見ると嫌みを言ったのが恥ずかしくなって、准一は小さな声で、
 「それともケン、まさか俺をなぐさめに来てくれたんか?」
 と訊いてみた。
 ゴーは来ず、待ちぼうけを食らった准一は、いつもよりずっと遅い時間になってから、キャンプに戻った。
 前に船影を見かけてから半年以上も経つのに、あれ以来船の姿は見えなかった。このごろ坂本は、ロンドンに帰るのをあきらめたのか、ふてくされたように投げやりになっていることが多く、准一が帰るともう横になっていた。だが、長野は以前と変わらず准一を待っていた。
 「一日中どこに行ってたんですか」
 長野が尋ねた。だが准一が答えないと長野は、准一もロンドンに帰れないことで自棄になっているのかと思ったらしく、それ以上は追求しなかった。准一はなにも口を利く気がしなくて、長野が差し出したバナナを少しだけかじると、そのまま横になった。


 今週末から台湾公演ですね! 大成功のニュースを聞きたいですね(^^)

(2001.2.3 hirune)

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