第3回

 准一が見つからないように用心しながらトンネルを出てこっそり歩き出すと、しばらくして、心配そうに辺りを見回している長野の姿が見えた。長野もすぐ准一を見つけ、准一に駆け寄って来た。
 「准一くん!」
 「長野さん……」
 「どこにいたんですか!? 君がいつまで経っても帰ってこないから心配してあちこち探したんですよ!」
 「ごめんなさい……」
 「まさか、ひとりでジャングルに行ったんじゃないでしょうね?」
 疑い深そうに長野が尋ねる。准一はどきっとしながら、
 「なんで。そんなことせえへん」
 と返事した。
 「昼寝してたら、つい寝過ぎてしまったんや。起きたらもう暗いんやもん、俺も驚いた」
 「そうですか」
 長野は、まだじろじろと准一を見ている。
 「君がいそうなところはだいたい探したと思ったんですが……」
 「木の上や、木の上!」
 准一はあわてて言った。
 「向こうにちょうどいい枝の広がったのがあってな、そこで寝てしもたん」
 「……」
 長野はそう言う准一をちらっと見た。
 「その顔のひっかき傷はなんなんです」
 長野が言った。准一はまたどきっとしたが、
 「木の枝でひっかいてしもうたんや……」
 とどうにか言い訳した。もっとなにか言われるかと思ったが、長野はそれ以上はなにも言わなかった。准一はほっとした。
 三人のキャンプでは、たき火のそばで坂本がふたりを待っていた。
 「どこにいた、ガキ」
 坂本が尋ねた
 「ちょっと昼寝してたんや。それだけや」
 「ほんとか。おまえジャングルに行こうとしたんじゃないのか」
 坂本の言葉に、准一はブンブンと頭を横に振った。
 「そ、そんな怖いことひとりでようせんわ!」
 ほんとか? と言うように坂本は准一を見たが、坂本もそれだけでその話はやめた。
 実は今日は、それよりももっとたいへんなことがあったのだった。海を眺めていた坂本が、遠くに船影を見たと言うのである。
 坂本は必死で叫び手を振ったが、残念ながら船はこちらののろしに気がつかずに行き過ぎてしまったと言う。しかし、一度船影が見えたということは、助かる見込みがでてきたということであった。
 だが、坂本も長野がその話を夢中でしているとき、准一は今日あったことばかりを考えていた。
 かわいい赤ちゃんチンパンジーのアンジーのこと、ジャングルの中を振り子みたいに飛んだこと、すねてケンケン叫んだケンのこと、そして、まるでチンパンジーたちと兄弟みたいだった人間のゴー……。あれはほんとうにあったことだったのだろうか。
 准一は顔を上げ、たき火の炎を顔に映しながら話し込んでいる坂本と長野を見た。
 「なんだか希望が湧いてきましたよ」
 長野はそう言って微笑んでいる。
 「のろしをもっと大きなものにしよう。今度またあの辺りを船が通ったら絶対に気がつくように」
 そう言う坂本も、珍しく明るい顔をしていた。
 だが准一は、まだ帰りたくない、と思った。
 まだロンドンに帰りたくない。それは、一生帰れなかったら悲しいけど……。もう少しは。だってせっかく友達ができたんやもん。
 「どうしました? ぼんやりして」
 長野が尋ねた。
 「病気じゃないでしょうね」
 そう言って長野は准一の額に手を当てる。
 「熱はないようですが」
 「なんでもない、疲れただけや」
 「そうですね。こんな生活が続いたのでは体もおかしくなりますね」
 起きているとボロを出しそうなので、准一は、疲れたのでもう寝ると言って横になった。
 夜の静けさの中、ジャングルからの鳥や獣の叫び声がここにまで届いた。
 それは准一にとって昨日まで、ただ知らない動物の声でしかなかったが、今日からは、友達を思い出させる声であった。
 

 次の日准一は、疲れているようだから今日は出歩かずに寝ているようにと長野に言いつけられてしまった。
 ジャングルに行きたくてうずうずする気持ちをどうにか抑え、しかたなく准一はその日はおとなしくしていることにした。
 だが、それが准一には限界だった。その次の日はもう寝てなんかいられなかった。すっかり元気になったと言って、長野の目の前で飛んだり跳ねたりして元気なところを見せた。
 「俺、バナナを取ってくる!」
 「こないだみたいに変なところで寝込んだらだめですよ」
 「わかってるって!」
 幸い、今度から長野と坂本は交代で海を見張ることになり、ますます准一の行動がみつかるおそれは少なくなった。准一は、どきどきしながらジャングルへのトンネルをくぐった。
 木の根っこの上に着くまで、准一はあたりを見回しながらゆっくりとすすんだ。
 行き着くと、そこは、やはり、いつもと変わりない静かなジャングルだった。
 「おーい!」
 准一は叫んだ。
 「ゴー! ケン! アンジー!」
 返事はなかった。
 「俺や! 准一や!」
 准一の声だけがこだました。
 「おーい……」
 心細い気持ちになって、准一は声を落とした。
 「やっぱりもう、俺のこと忘れてしもたんか……」
 なんの声もしない。准一はがっかりして座り込んだ。
 だがそのとき、笑い声が聞こえた。はっとして声の方を見上げると、はるか樹上に三つの影が見えた。
 「みんな!」
 それを見るとすぐ元気になって准一は立ち上がり、怒鳴った。
 「いたんか! ゴー!」
 とたんに三つの影は樹上から飛び降りてきた。この前みたいに、ゴーとケンはそれぞれ蔓に捕まり、アンジーはゴーの肩に乗っていた。
 飛んできたゴーは、笑いながら准一の腕をつかんで空中にさらった。准一はもう驚かなかった。慣れると、こんなに気持ちのいいことはなかった。まるで、すごく大きなブランコに乗っているみたいな感じだ。
 「ひゃっほう!」
 准一が叫ぶと、腕をつかんでいるゴーが声を出して笑った。准一も笑った。
 やがてふたりと二匹は、樹上に落ち着いた。
 准一をつかまえていた剛ははあはあと息を切らせているが、さすがにケンは身軽で、まるで平気そうだった。
 「ケンもやっぱり俺と友達になったんやな〜」
 准一がケンの顔をのぞき込むと、ケンはぷいっと顔をそらせた。
 「なんで〜。そんな顔せえへんでもええやんか」
 かわいいなあと思いながら、准一はそう言った。なんと言ってもケンはチンパンジーである。怒ろうがすねようが、准一にはその仕草ひとつひとつがかわいくってしかたがないのだった。
 「ほら、これ」
 准一はポケットからビスケットを取り出した。
 「ケンにおみやげだよ」
 ビスケットは、ボートに乗っていた食料の一部だった。
 「……ケン」
 ケンは横目でビスケットを見ながらも手を出そうとはしない。すると、アンジーが小さな手を出してビスケットをつかんでしまった。
 アンジーはビスケットをつかむとすぐに逃げ出した。
 「ケンケンケン!」
 ケンはすぐにアンジーを追って木を飛び降りた。ケンもほんとはやっぱりビスケットが欲しかったのだ。アンジーはもう別の木に移っている。その、まるでサーカスみたいな追いかけっこを、しばらく准一は唖然として見ていたが、やがて二匹の姿は緑の中に見えなくなった。
 「ビスケットが一枚で悪かったなー」
 心からそう思って准一は言った。
 「バナナや椰子の実はいくらでもあるけど、ビスケットは大切なロンドンの味だからって、滅多に食べないんや。あれは俺が病気だと思った長野さんが昨日特別にくれたんやけど。ケンカになるんなら持って来ないほうがよかったかな」
 そう言って振り向くと、ゴーが准一を見ていた。
 「……ロンロン?」
 ロンドン、と言う単語がおもしろかったのだろうか。ゴーは首を傾げてそう口を動かした。
 「ロンロン、やない、ロンドン、や」
 准一は言った。
 「俺はロンドンから来たんや。ゴー、おまえは?」
 「……」
 「おまえはどこから来た? おまえにもお父さんとお母さんがおるやろ? ああ、俺も母さんはおらんけど……」
 「……オカー……」
 ゴーが、また准一の真似をする。
 「お母さんってわからんか? こう、食べ物をくれたり、抱いてくれたり、やさしくしてくれる……」
 「……」
 准一の言うことは難しすぎたのだろう、ゴーは黙って准一を見ているだけだった。だが、ゴーは、ちょっと眉根を寄せて、なにかを思い出そうとするような顔をして、つぶやいた。
 「……オカーサン」
 「そう。お母さん。人もチンパンジーもお母さんから生まれるんや。けど、ケンやアンジーとゴーのお母さんは、違うはずや」
 「……」
 「だって、ゴーは人やもん」
 「……」
 「俺と、ゴーは人や」
 「……ヒト」
 ゴーが繰り返した。
 「そう。准一とゴーは、人」
 「ジュンチ。ゴー。……ヒト」
 ジャングルを飛び回っているときとはまるで違う、幼い子どもみたいな表情で、ゴーが言った。
 「そう、人。ほら」
 准一はゴーの唇に指先を当てて、言った。
 「こんなふうに、ゴーは俺のマネをしてしゃべれるやろ。チンパンジーには出来へん」
 「……」
 准一は用心して、長い時間ジャングルにいすぎないようにすることにしていた。
 特に今日は早く帰ったほうがいいと思えた。後ろ髪を引かれるような気持ちで准一が「さよなら」と言うと、今日はゴーが准一のほっぺたにキスをした。こないだのことを覚えていたらしい。それで准一は、さびしかった気持ちが消えた。
 「また、明日な!」
 准一は元気にそう言って手を振った。
 急いでバナナを取って戻ると、長野も坂本もキャンプにはいなかった。やがて戻ってきても、ふたりは特に准一を怪しんでいるようではなかった。ただ、おととい船影が見えたと言って気持ちが高揚したためにかえって、昨日も今日もなにも見えないと言ってふたりとも余計にがっかりしていた。
 口数の少ないふたりの脇で、准一ひとりは鼻歌を歌いながらバナナを食べた。

 それからも毎日、准一はこっそりとジャングルへのトンネルをくぐり抜けた。准一が行けば、どうやってわかるのか、ゴーもすぐに准一のところへやって来た。
 ゴーが来るとケンやアンジーもついて来た。准一がゴーと話をしようとすると、アンジーはまだ赤ちゃんなので抱っこされていればおとなしくしていたが、ケンはしょっちゅう邪魔をした。
 「ケン、だって、しょうがないやろ」
 あんまりケンがうるさくてゴーと話が出来ないので、准一はとうとう怒鳴った。
 「ケンにはわからんかも知れんけど、ケンはチンパンジーで、ゴーは人間なの! ゴーにはいろんなことを教えてやらな。ケンには関係ないの!」
 それを聞くと、ケンはまるで准一の話がわかって憤慨したように、ケンケンと怒り出した。
 「そんな声出してもだめ! 俺はゴーと大事な話があるんやから、ケンはあっちに行って!」
 准一が怖い顔をすると、ケンは、いきなり飛びかかってまた准一の顔をひっかいた。
 「いて! こら、ケン!」
 准一がケンの首根っこをつかもうとすると、ケンはすばやくアンジーの腕を取って向こうの枝に逃げて行った。准一がべーっとすると、ケンもべーっとした。頭に来てケンの方に手を伸ばすと、准一は自分が乗っていた大きな枝から落ちそうになった。
 「わったったっ」
 あやうくゴーが助けてくれたが、ケンはさもそんな准一をバカにしたような顔をして逃げていってしまった。それを見て、
 「なにやってんだろ、俺。チンパンジーにバカにされたりして……」
 准一はちょっと落ち込んだ。
 ゴーはそんな准一の顔をのぞきこんで、
 「……ケン。……ジュンチ」
 と、懸命に口を動かした。身振りで、ゴーが准一とケンに仲良くして欲しそうなのがわかった。
 「わかっとるって」
 と准一は笑った。
 「ケンは、仲良しのゴーを俺に取られたみたいで嫌なんやろ。俺だってゴーがケン達と高いところで遊んでいるのを見てる時はつまらんもん」
 ゴーは准一の言うことをじっと聞いていたが、やがて、身振りで、上の方を指さした。指さして、懸命になにか言っている。
 「なんや? 俺も上の方まで行けるようになれって言うのか?」
 准一が聞くと、ゴーはうんうんと頷いた。
 「俺は人やから、そんな身軽なことはできへんの!」
 准一が言うと、ゴーは首を傾げる。
 「俺は人だから、チンパンジーとは違う。わかるやろ?」
 だがゴーは、わからないように准一の顔を見ていた。その顔を見ると、准一は気がついた。
 「って言っても、ゴーはケンとおんなじに身軽やな……」
 准一は、思い立って、ゴーに言った。
 「今日はしゃべる練習はやめようや。今日はゴーが先生だ。俺に、ジャングルのことを教えて。俺もゴーみたいに身軽になりたい」
 「……」
 きょとんとしたゴーに、准一は、真正面からゴーの顔を見て、身振りを交えてゆっくり、
 「ゴーが准一に教える、……ジャングルのこと、いろいろ」
 と言った。剛は、少しわかったように、頷いた。瞳をみつめあってゆっくり伝えると、ゴーには、准一の言いたいことがだいたいわかるようだった。
 ゴーは
 「ジュンチ!」
 と言って、太い蔦を差し出した。
 「これにつかまれって言うのか」
 尋ねると、ゴーは頷いて、蔓をぎゅっと握って見せた。
 「前みたいに、これで飛ぶんやな」
 頷くとゴーは自分も蔓をつかんで宙に飛び出し、向こうの枝につくとまた別の蔦と使ってまた飛び、それを繰り返してあっという間に遠くまで行ってしまった。ケンとアンジーも難なくゴーの後をついて行く。
 「ジュンチー!」
 遠くの枝の上からゴーが手を振る。その隣ではケンが准一に向かってあかんべをしたのが見えた。准一はむかっとした。
 「ケンの野郎! 行くぞ!」
 准一は覚悟を決めて飛び出した。
 ふたつめの枝まではどうにかたどり着いたが、みっつめは勇気が要った。下を見ると、結構高い。次の枝までは遠い。
 「う〜ん」
 准一が躊躇していると、ゴーもケンもアンジーも身軽に降りてきて、准一が飛ぶのを見学している。
 「こら見てんでええ! あっち行って!」
 だが、ひとりと二匹に聞く耳はない。ケンのあざ笑うような顔に、准一はまた思い切って飛び出した。だが、
 「あ〜〜!!」
 准一は大声で叫んだ。
 次の枝に着く前に、准一の蔦は後ろに向かって動き出してしまったのだ。
 准一は宙をぶらんぶらんと行きつ戻りつした。
 「ど、どないしよ!?」
 どうしようもなくなった准一が蔓にしがみつくと、変な笑い声が聞こえた。
 「ケー! ケッケッケッ」
 いつもケンケンと鳴くケンは、笑うときはケッケッと笑うらしい。ケッケッと笑いながら、ケンはお腹を抱えて転がっている。ゴーも体を折り曲げて笑っていた。
 「笑ってないで助けろ!」
 准一は怒鳴った。
 それからは毎日、准一が蔦を使って飛ぶ練習が続けられた。ゴーもどんどん言葉を覚えた。准一にとって、最高に楽しい日々が続いた。 

 

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