第2回
次の日准一は、また秘密のトンネルをくぐってジャングルへと入り込んだ。だが、今日の准一はてぶらではなかった。大きなバナナを房を背にくくりつけてきたのだった。
緑に囲まれたジャングルの中は、日の当たる浜辺の暑さに慣れていると、ひんやりと涼しかった。
准一は、太い根に腰を下ろすとバナナの房を背から下ろし、それを見せびらかすように高くかざして、
「ほら、でっかいバナナやで〜!」
と怒鳴った。
だが、その声は、静かな緑の聖堂のなかに吸い込まれただけで、どこからも返事はなかった。
「うまそうなバナナやで〜。欲しかったらここまで来いや!」
やはり返事はなかった。だが、准一はふとした気配を感じ取った。
「よーし、じゃあ俺ひとりで食おう」
准一は独り言のように言ってバナナを一本折り、それをほおばった。
「うまい! これはうまいで!」
そう言いながら、准一はあたりを見回した。
「誰もおらんなら、俺がひとりで全部食っちゃおうかなー」
もう一本皮をむき、またほおばろうとすると、まさかこんな近くに、と思うところに、ちょこんと小さな顔が見えた。それは猿、それも、チンパンジーの赤ちゃんだった。
(かわいい〜!)
赤ちゃんチンパンジーはまるで人間の子どもそっくりに、バナナを見てよだれをたらしそうな顔をしている。
「ほおら。ここにバナナを置くで」
准一はそう言って、自分のかたわらの枝の上にバナナの房を置いた。
そうして、相手になんか全然興味がないふりをして、准一はバナナの続きを食べる。葉っぱのこすれる音がして、だんだん小さなチンパンジーが近寄って来た。
とうとうチンパンジーは、准一のそばまでやってきた。くりくりした黒い目が愛らしい。チンパンジーは准一を見上げながらバナナを手に取った。
チンパンジーには警戒する様子もない。准一に見守られながら、チンパンジーはバナナを手に取った。そして、いい? というように准一の顔を見る。
「ええに決まっとる」
准一はささやいた。
「おまえのために持って来たんや。お食べ」
すると赤ちゃんチンパンジーは、小さな手でバナナの皮をむいて食べ始めた。
准一はそっとその背中の毛並みに触れてみた。柔らかい、生まれたばかりの子犬みたいな感触だった。
「……おいで」
准一は、無心にバナナを食べているチンパンジーを、そのまま抱っこした。驚くほど軽かった。チンパンジーは准一に平気で抱かれ、まだバナナを食べている。准一はもう、チンパンジーがかわいくてしかたがなかった。
「おまえ、昨日も俺のそばうろついておったんやろ」
准一はチンパンジーにささやいた。
「俺がこの島に流れ着いたときも、猿みたいな鳴き声が聞こえたけど、もしかしてあれっておまえやったんか……?」
だがそのとき、はっと小猿が顔を上げた。
「どうし……?」
准一が赤ちゃんチンパンジーに尋ねようとしたとき、突然上の枝からもう一匹、今度はもっと大きなチンパンジーが現れて、赤ちゃんチンパンジーを准一の手からさらった。
「な、なんや!」
准一は驚いて叫んだ。
「もう一匹いたのか。おまえもバナナが欲しいのか?」
准一が尋ねると、チンパンジーはなんだか准一をバカにするような表情をした。
頭に来た准一が思わずそのチンパンジーを捕まえようとすると、相手は、片手でジャングルの樹から垂れ落ちている太い蔓をつかみ、もう片方で赤ちゃんチンパンジーを抱いたまま、反動をつけて、うまく沼の上に張り出た向こうの枝の上に乗り移った。
准一はあっけにとられてそれを見た。
チンパンジーは向こうから、ざまあみろ、というような顔をする。
「なんやなんや、おまえ!」
准一は怒鳴った。
「俺はその赤ちゃんにバナナをやっただけやで! なんも悪いことしてへん!」
それが聞こえたのか聞こえないのか、チンパンジーは向こうから、准一においでおいでして見せた。
「こっち来い、言うんか。よし、それくらい俺だって出来る」
バカにされて悔しくなった准一は、自分も目の前に垂れ下がっていた蔓を握った。
不安なので強くひっぱって見たが、蔓は大丈夫、人ひとりくらいぶらさがっても切れそうにはなかった。
「ちょ、ちょこっとやもん。こっちからあっちへ飛び移るだけやもんな。……ようし、行ったるっ」
内心はびびりながらも、蔓をつかんだ准一はいっぺんちょっと後ろに下がり、体全体で反動をつけて木の根っこを蹴った。
振り子みたいに飛んで、准一はおっかなびっくりチンパンジーのいる枝の上に足をつけた。だが、いたずらもののチンパンジーは、その准一の足をちょこっと押した。まだバランスの取れていなかった准一は、それだけで枝の上から落ちそうになった。
「わっとっとっと、とお!」
泳ぐみたいに腕をぐるぐる振り回す。だが、それを見てチンパンジーは、手を叩いて喜んでしまった。
「こ、こいつ! おおっと、……うわ〜!」
准一がとうとう後ろ向きに沼に落っこちそうになったとき、誰かが、振り回していた准一の腕を上からつかんだ、と思うと准一は、沼に落っこちていなかった。
「……!?」
准一はなにが起こったのかわからず、上を見た。
「……??」
見て、准一はなにがなんだかわけがわからなくなった。見知らぬ誰かに腕をつかまれて、准一は、沼を飛び越えていた。
准一の腕をつかんだ相手がすたっと枝の上に飛び降りるまで、准一はそのままぼけっと相手を見ていた。
「おまえいったい……」
枝の上に降りてから、准一はやっと思い出したように口を開いた。だが准一の言葉を聞く前に、准一をここに連れてきた相手は、今来た方を見て、叫んだ。
「キキ!! キキ!!」
その声を聞くと、どうやら怒っているらしい。
准一がのぞくと、向こうには、さっき准一をからかったチンパンジーが見える。そのチンパンジーも、こちらを見て、おかしな声でなにか叫んでいる。
だが、そのうち、赤ちゃんチンパンジーが枝づたいにこちらに駆け上ってきた。
そうして赤ちゃんチンパンジーは、准一をここに連れて来た相手の胸に飛び込んだ。
「ハッハー!」
赤ちゃんチンパンジーを抱くと、その相手は、大きな口を開けて、そんな勝ち誇ったような声を出す。
向こうのチンパンジーは怒ったらしい。
また妙な声で叫びながら、蔓をつかんでこちらに向かって飛び、手を伸ばして准一の顔をひっかいて、そのまま向こうの枝に飛び移ってしまった。
「てえ。なにするんや、いったい……」
准一が引っかかれた頬を触っていると、准一をここに連れてきた相手が、准一の顔をのぞき込んだ。
「……ウキ?」
どうやら、大丈夫かと聞いているらしい。
「心配してくれてるんか? こんな傷、俺は大丈夫ウキよ。……や、ない!」
思わずチンパンジーみたいな声で返事してしまってから、准一はあわてて怒鳴った。
「俺の傷なんてどうでもいい! おま、おまえ!」
「ウキ?」
「おまえ、猿やない……。まさか……、人間……!?」
「キ?」
相手は、なにを言われたのか全くわからないようで、きょとんと准一を見る。
准一は、まじまじと相手を見つめた。
髪がぼさぼさで顔を隠しているし、とっても痩せているけれど……、どう見ても相手はチンパンジーではない。ちょうど准一と同じくらいの歳の人間の少年なのだった。
「人間なんやろ!?」
准一はきょとんとしている相手の手を取って矢継ぎ早に尋ねた。
「おまえ、誰や? どうしてこんなところにおる? 親はどうした? 俺たちみたいに船が難破してここに来たんか?」
裸で、腰になにかの皮を巻き付けただけの少年は、手を取られたまま、あっけにとられてそんな准一を見ていた。だが、さっきやって来たチンパンジーが、突然また葉っぱの影から現れると、なにか叫びながら、今度はさっきと比べものにならないくらい強く准一の顔をひっかいた。
「いでで!!」
チンパンジーは叫びながら、少年の手を、准一の手からもぎはなした。そして、准一の顔をにらみつける。
「なにするんや、こいつ!」
准一は思わずチンパンジーにつかみかかろうとしたが、相手はさすがに猿で、身軽に飛びよける。
「ウキキ」
少年が歯をむき出して、チンパンジーに怒った。
向こうのチンパンジーも、すねた声でなにか言い返している。
(こいつ、チンパンジーと話してるんや……)
准一は、今さらながら驚いて、呆然と少年を見た。
やがて言い争いに飽きたらしく、少年は准一の方を振り返った。准一の腕の中には、いつのまには赤ちゃんチンパンジーが入り込んでいた。
「この子、かわいいな」
准一は、赤ちゃんチンパンジーを見て、言った。
「こいつ、なんて言うんだ?」
少年はよくわからないように、しかし、じっとしゃべる准一の口元を見ていた。
「こいつの、名前」
「……」
「わかんないか。じゃあ、俺がこいつに名前をつけてもええ?」
「……」
少年は答えなかったが、准一は気にせずに小さなチンパンジーをみつめた。
「小さくってかわいいチンパンジーだから、アンジーはどうかな」
そう言って少年を見ると、少年はとまどったように、かすかに頷いた。准一はうれしくなった。
「よし、これからおまえはアンジーや!」
アンジーを見て准一がそう言うのを、少年はじっと見ている。
「そう言えば」
准一は思いだした。
「俺の名前をまだ言ってなかったな」
「……」
「俺は、准一」
准一は少年に向かって自分を指さしながら、ゆっくり言った。
「じゅんいち。わかるか?」
すると相手は、首をかしげてたどたどしく口を動かした。
「……ジュ。ニ?」
「ジュ・ン・イ・チ。准一や。言ってみ」
「ジュン。チ。」
怪訝そうな顔をしながら、相手がたどたどしく繰り返す。
「そうや!」
准一は、飛び上がるように叫んだ。
「言えるやないか。次はおまえの番や。おまえの名前は? なんて言うんだ?」
相手は、やはりまた、よくわからないように首を傾げた。准一は、もう一度自分を指さし「ジュンイチ」と言い、そして今度は相手を指さした。
「おまえの名は?」
すると相手は、またなにかを思い出すように首を傾げ、かすかながら、なにか口にした。
「え? なんて言ったんだ?」
相手が、またかすかに口を動かす。
「……ゴー」
とそれは聞こえた。
「……ゴー。おまえ、そう言ったんか!」
准一が叫ぶ。相手はとまどった顔で頷いた。
「ゴー。ゴー!」
准一はそう繰り返してから、うれしさのあまり、枝の上に立ち上がって、ジャングルの光景を眺めた。
「きれいや。ここはほんまに」
ゴーはそんな准一を、驚いた顔で見ている。
「昨日までジャングルは俺にはただ遠くから見てるだけの世界だった。でも今日からは違う。俺はジャングルで友達ができた! そして、その友達の名前も知っとる!」
准一は、大きな声で怒鳴った。准一の声にびっくりしたのか、樹の枝に止まっていた原色の鳥たちが羽音をさせて飛び立った。
「もう、ジャングルは俺の知らないところやない!」
そう言うと准一は、びっくりした顔のゴーを振り返って見て、笑った。准一が笑っているのを見て、ゴーも、准一のマネをするように、笑う顔になった。
ふたりが笑っていると、突然樹の合間から、すねたチンパンジーの顔が見えた。ふたりが笑っているので、やっぱり気になって戻ってきたらしい。
「なに怒ってるんや。おまえも俺の友達になってな!」
准一はそのチンパンジーに言った。
「ひっかいたことは気にしてへんから!」
そんな准一を、チンパンジーはまだ不機嫌そうににらんでいる。
「おまえにも名前がいるな。そうだなあ、……おまえっておかしな声で鳴くな。それって、キッキッじゃなくてケンケンって聞こえるから、ケンはどうや!?」
「ケンケン!」
チンパンジーが、やっぱりそんなふうに聞こえる声で鳴いた。
「ほら、ケンや! なあケン! おまえも俺の友達になってや!」
ケンは、ゴーを見た。ゴーが笑いながらケンになにか言うと、ケンもやっと機嫌が直ったらしく、ゴーのそばにやって来た。
「……ゴーとケンとアンジー」
ひとりと二匹の友達を見て、准一は満足してつぶやいた。
「みんな、ええ名前やな!」
しかしそのとき、准一はハッと思い出した。
ここに来てどれくらい時間が経ったろう。もう帰らないと長野と坂本が心配する。
「ゴー。俺、帰らな」
突然あわただしくそう言うと、准一はまたどうにか蔦を使って飛び、もとの木の根っこの上に戻った。
ゴーとケンとアンジーもあとからついてきた。
樹のからまって出来たトンネルの前で、准一はゴーに、
「ここでお別れや」
と言った。ゴーは首を傾げて准一を見ている。
その顔を見て、准一は急に不安になった。ゴーはどれくらい自分の言ったことがわかっているのだろう。もしかしたらすぐ自分のことなんて忘れてしまうんだろうか。もう二度とゴー達とは会えないのかも知れない。
「さよなら、ゴー」
そう言うと准一はゴーの手をつかんで引き寄せ、頬にさよならのキスをした。そして強く言った。
「ゴー、また、ここに来るんやで!」
准一は思い切って後ろを向き、振り向かずにトンネルをくぐり抜けた。トンネルを抜け出ると、外はもう薄暗かった。
第2回です。確かに、この分量で週一連載なのは、我ながら書くのがのろいと思う……。
(2001.1.20 hirune)
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