第6回
すでに、馬の足音がここまで地面を伝わるような気がした。
太い木の陰で、剛と坂本は息を殺して敵を待つ。
先頭の馬が濠に足を取られたのがわかった。
「なんだっ」
叫び声が聞こえて、ひとりがどうっと落馬した。後続の馬が足を止め、数人の野卑た笑い声が聞こえた。
「へへっ、どうしたい!」
「肥溜めでもあったか」
落馬した男の忌々しそうな声が聞こえた。
「……。わからん、なにかあるぞ」
「なにを……。おっ!?」
もう一人の馬が足を取られて横倒しになった。残りの連中はまたゲタゲタと笑う。
「笑うなっ、大声出すんじゃねえ!」
はじめの男が怒鳴った。
「遊びじゃねえぞ!!」
「……首領の真似かよ」
別の誰かが言った。
「あいつ、ちったあ強いか知らんが、若造のくせに威張りくさりやがって!」
また別の声が吐き出すように言う。
「全くだ。これから俺たちゃやりたいようにやるぜ。意気地のねえ百姓になぞなにができる。じゃまするやつはみんな殺す。取れるものは全部取って、それから女だ。てめえの指図なんぞ受けねえぜ!」
「なんだとっ」
「もうねぐらにはもどれねえんだ。抜け駆けしたら殺されても文句は言えねえって掟だからな。……あとはやりてえようにやるだけよ」
そう言って、ひとりが馬を下りる。残りの連中もあとに続いて馬を下りた。
「おめえら、俺を新しい首領にすると言っておいて……」
「ごちゃごちゃ言うな、いくぜ」
「……待て、様子がおかしいと思わねえのか!!」
坂本が音もなく場所を離れた。野盗の一人が細い道を分け入ってくる。坂本が木の陰から男に近づく。
一瞬だった。剛だけがそれを見た。
「ぐうっ」
先頭をやってきた野盗が妙な声を出して倒れた。
「どうした?」
ふたりめもあっけなかった。だが、それを呆然と見ていた自分に気がつくと、剛ははっと我に返って坂本の方に駆け寄った。
「坂本さん!!」
一人が坂本の背中を狙っていた。坂本が振り返るより早く、剛が相手に斬りかかった。とにかく敵の刀を跳ね上げようと思った。だが、それはがきっと嫌な手応えがした。
一瞬刀が動かない。しようがない、そのまま力を込めて刀を返す。
「ぐわっ」
相手がすさまじい声を上げた。勢いよく血しぶきがかかった。
「森田、逃げたのがいる! 行かせるなっ」
坂本が怒鳴る。まだ三人いる。坂本が新しい一人と刀を合わせた。剛は敵がつかめなくなって辺りを見回した。一人の野盗がこちらにかまわず村の方に駆けていく姿が見えた。
「待てっ」
後を追おうとしたとき、気を感じた。とっさによけようとして木の根に足を取られた。剛が転んだとき、向こうでぎゃあっという叫び声がした。
「森田っ」
井ノ原の声がした。
「いるのかっ」
返事する余裕はない。
大きな髭面が目の前にあった。そのやけに太い刀を、剛は必死で受け止めていた。力だけは強い男だ。だが、こういうときどうするかは体が覚えていた。刀を合わせながらも、全身をバネにして男の腹を思いきり蹴る。しかし、剛はぎょっとした。
男はびくともしない。びくともしないでにやりと笑った。男の腕に力がこもった。さあっと血の気が引くのを感じた。完全に押されている。手がしびれる。
やられるかもしれないと、初めて思った。その時、男がどさりと覆い被さってきた。
「わっ」
なにが起こったかわからずに叫び声をあげた。
「ばかやろ」
剛の上から男の巨体を蹴り落としたのは井ノ原だった。井ノ原がさしのべた手に剛はつかまって立った。井ノ原が男の背中に突き立てた刀を抜いた。背後で別のうめき声がした。剛と井ノ原は振り向いた。
「う、うう……」
一人の男が手の取れた手首をつかんでうずくまっている。坂本はそれを見ていた。
「どうしたんだ」
近寄って、井ノ原が尋ねた。
「坂本さん、見てねえで早くやっちまえよ」
「……。こいつは森田の仕事だ」
「……え……」
「こんな中途半端な仕事をしたのはおまえだ」
「……」
「あのときおまえはこいつを一刀で斬れたはずだ。なぜ殺さず、こんな中途半端なことをした」
坂本の強い視線に剛は口ごもった。
「……。刀をはね上げようと……」
「刀を? おい、ふざけるなよ。俺達は今、道場で稽古をしてる訳じゃねえんだぜ」
「……」
「早く殺れ」
坂本が言う。剛はうずくまった男を見た。
殺す。この手で人を殺す。
剛はすくんだように動けない。その時、男がゆっくり顔を上げた。すさまじい顔、自分を恨み、しかもさげすむ顔。
男は動いた。剛の隙を見ると、残った左手に刀をつかもうとした。だが。
「ぐっ」
と、そう喉をならしただけだった。一瞬のうちに井ノ原が何の躊躇もなく鮮やかに男の首筋に刀を突き立てていた。
気がつくと、人の足音がした。
「こっちの方で斬り合いがあっただ」
百姓達の声がする。
「おい、みんなどこだ!」
長野の声がする。
「さあ、行こうぜ」
井ノ原はそう言って刀の血を振り払うと、さっさと歩き出した。
「……。待て」
坂本が不機嫌な声を出した。
「俺は森田に斬れって言ったんだ。なぜおめえがやった」
「……いいじゃねえか」
「よくねえ。……こいつは斬り合いがわかってねえ。下手すりゃ、俺かおめえか、いや森田自身も、あいつに殺されたかもしれねえんだぜ」
「……もう、いいじゃねえか」
「なんだと」
「俺が殺したんだからいいじゃねえか」
「井ノ原」
「平気で人を殺すにはこいつはまだ若いんだろう。こいつに出来ねえことは俺らがやる。それしかねえんじゃねえか、坂本さん」
「……」
坂本は井ノ原をにらみ、それからおもしろくなさそうに舌を鳴らした。
「……ちい」
「……ここか!」
三人を見つけて長野が駆け寄る。
「みんな、怪我はないか!」
「おーい、大丈夫かあ!」
岡田の呼び声もする。
坂本が身をかがめて野盗の刀を拾った。その刀身を眺めて、言う。
「野盗のくせに結構いい刀を使いやがるぜ」
「俺は見張りに戻るが、おまえはあばら屋の方で寝ろよ」
井ノ原が言った。
「いえ、俺も見張りに戻ります」
「大丈夫か?」
井ノ原が心配そうに尋ねる。
「……だがまあ、戻った方がいいかも知れねえ。抜け駆けが出たと知ったら、敵さんもゆっくりはしてねえだろう……」
剛はしばらくして立ち止まった。そんな剛に気づくと、井ノ原も立ち止まって、言った。
「どうした」
「……すみませんでした」
「……んん?」
「坂本さんが言ったとおりです。俺には最初から、ちゃんと野盗を殺す覚悟が出来てなかった。……はっきり言えば、この仕事を引き受けたときからなんの覚悟もしていなかった。……坂本さんが怒るのは当たり前です」
井ノ原がどんな顔しているのかはよく見えない。剛は井ノ原の言葉を待った。
「……真面目だなあ」
井ノ原は言った。
「誰も覚悟なんぞしてねえよ。俺だって坂本さんだって金が欲しいだけだ」
「……」
「……だからよ、気にすんな」
「しかし……!」
剛は言い募ろうとした。しかし、あとが続かない。井ノ原が言った。
「おめえはいつも迷いに迷ってるって顔をしてるぜ。でもよ。誰だって出来ることしか出来ねえんだ。そればっかりはしょうがねえよ」
「……」
剛はなんと答えればいいのかわからない。最後に井ノ原はこう言う。
「命のやりとりの覚悟なんて、しようと思って出来るもんでもねえだろう。……森田は森田の考えでやりな」
見張り所に近づくと、人影が走ってくるのが見えた。その人影にはいつものおまけがついていて、そのおまけは剛に向かって駆け寄ってきた。
「青」
剛はしゃがんで青の頭を撫でた。青はいつものように柔らかく、ほのあたたかい。青の後ろで健が立ち止まった。
剛は顔を上げて言った。
「ここは危険だ。けんは戻って……」
そこまで言うのがやっとだった。父が死んでからずっと胸の中にもやもやしていたものが、急に奔流のように胸に押し寄せてきた。
熱いものがこみ上げてきた。剛は唇をかみしめた。だが涙が頬を伝わった。けんになら、涙を見られてもいいと思った。
朝が近づいた透明な気配の中に、健は片膝を立てるようにすわって、じっと視線を動かさずにいる。剛は先程の興奮と緊張が静まると、どこか心が抜けたように、眉を顰め下を向き、健の後ろにすわっていた。
「早く殺れ」と言った坂本の厳しい顔を思い出し、それから「森田は森田の考えでやりな」と言った井ノ原の口調を思い出し、最後に父の死に顔を思い出していた。
父が伯父の屋敷近くの路上で複数の暴漢に襲われたと聞かされたのは、もう半年前になる。
自分が駆けつけたときには、父(中村橋之助・特別出演)の遺体はすでに伯父の家の座敷に運び込まれていた。
自分を出迎えた伯母(松坂慶子・同)は蒼白の顔をして、目をつり上げていた。いつも美しくて優しかった伯母のその顔に驚いた。父の体は伯父(西郷輝彦・同)に清められていた。
一人で何人と斬り合ったものか、父の体は信じられないほどの傷に覆われ、その傷はあるところは盛り上り、あるところは骨まで見えて、ひとめでは父だとも思えなかった。声も出ず、自分は父の傍らに座り込んだ。
父にそっと触れた。父はまだ暖かい気がした。
「……父上……、どうして……」
なにが起こったのか、まだよく理解できない。だが、傍らの刀を引き掴むと、怒鳴っていた。
「なぜ、誰が……、どんな奴らが父上をこんな目に……! すぐに……、俺は今すぐそいつ達を斬りに行きます!!」
自分のその声を聞いて、それまで引きつった顔で座敷の隅に控えていた伯母は急に泣き崩れ、嗚咽と共に叫んだ。
「……剛さん、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「……?」
「あなたのお父様は、主人の身代わりになったの……! 藩の改革をしようとしてる主人に、多くの反対派がいることはあなたも知っているでしょう!? 反対派はずっと、主人を亡き者にしようとしていたの……。 そして、それを実行しようとしたのが今朝だったの! お父様は多分それに気づいてらしたの! それでわざと顔をかくし、先日お貸しした主人の紋付きを着ていらしたの!!」
「……!」
初めて知る話に、自分が伯父の方を振り返ると、目付の重職につく伯父が目を伏せ、頭を下げた。
「……剛、すまぬ……」
「そんな……、父上は……、わざと……?」
かすれた声だけが喉から絞り出された。
その時するすると襖が開いた。
「……おとうさま、おかあさま……」
ななつになる一番下のいとこが、騒ぎに起きてきた。伯母は顔を拭いてその子と座敷を出ていった。
信じられない。……父は出ていく直前にもなにも言わなかった。
伯母にそっくりだったという母は、とうに亡かった。父には自分がいるだけだ。だから、藩の要職にあり、また大家族をも抱える伯父のために、父は、伯父より己が死ぬべきだと考えたのか……。しかし。
「教えて下さい!! 父上を殺したのは、いや、伯父上を殺させようとした黒幕は、いったい誰なんですか!? 俺は、そいつを斬らなければなりません!!」
「……剛……」
伯父の顔に苦渋の色が浮かんだ。
「それはできない……」
「伯父上!? でも、それでは……」
「この裏には、藩の命運を左右する問題があるのだ。お前は手出し出来ない」
「え……」
「お前の父は病死と届ける。そうしなければならない。お前が下手なことをすれば、せっかくのお前の父の死が、すべて無駄になってしまうのだ」
「……そんな……」
「すまぬ、剛、わかってくれ……」
深々と頭を下げる伯父の前で、しかし自分は納得できなかった。……父を失った気持ちをぶつけるための仇討ちさえ禁じられたことに対して、だけではない。
もっと、もっと深く、納得できなかった。……父の死に顔に。……自分を残し、あまりにもあっさりと死んでいった父に……。
こっそり出した父の葬式のあと、なんの当てもなく方々を歩き回った。
父の死に顔を思い出したくなかった。思い出したくないのに、それは一日に何度も脳裏に浮かんだ。そして、脳裏に浮かぶ度に、胸をかきむしるようにつらくなった。
父は醜く変わり果てた顔で、満足そうに微笑んでいたのだ。心残りなどなにもないとでも言うように……。
剛は顔を上げた。健は無意識のように青を撫でながら、田の向こうに目をやっている。
数日来晴れないが、夜空の隅は青みがかっている。もうじき朝が来るのだ。
大人のつもりでいたけれど、自分は小さな子供と同じだったと思った。
心のどこかで父を恨んでいた。自分一人を平気で残し、自分勝手に死んでいったと。
俺のことはなにも考えずに死んだのか、と。
どんなときも笑顔を絶やさぬ優しい父、自分を誇りにし、愛してくれている父、あんなに慕っていた父だったのに、なぜ……と。
だが、やっとわかった。どうして父がこんなに慕わしいかが。
人のために己を惜しまず死ねる父だったからこそ。そんな父だからこそこんなに慕わしく、置いて行かれたのがつらかったのだ……。
「父上……」
そっと口の中で呼んでみた。
「俺を信じてくれたのですか……」
俺が、なにも言わなくてもあなたの死の意味が分かる男になるだろうと、そう信じてくれたのですか……?
東の空の雲が切れている。そこだけが朝の色だ。一条の光が切れ目から空に伸び上がった。
急に青が唸った。健がびくっと顔を上げる。剛は健の顔を見た。健もこちらを見る。目が合うと、健は頷いた。
「来るのか……!?」
剛にはまだわからない。青と健にはわかるらしい。健が田の向こうの林を指さし、それをゆっくり北に回して見せた。
「長野さん達の方だな」
健が頷く。
「確かか」
確認すると、健は、唇をかみしめて再び頷いた。
「おれが知らせに行く」
そう言って見張り所から下りようとして、剛はまだ目を細めて田の向こうを眺めている健を振り返った。そして、小さく言った。
「死ぬなよ、けん」
健がキョトンとこちらを見る。
剛は駆け出した。
夜中の騒ぎから、百姓の多くが寝ずに準備をしていたのが功を奏した。剛が連絡小屋に着くと、すでにたすき掛けをした百姓の一団がいた。長野の詰めた見張り小屋方面に野盗が向かったと言う言づては、そこからあちこちに出される。
時折野盗たちの来そうな場所を見回りながら、剛が長野の見張り場についたときにはもう、かなりの数の百姓がそこにも集まっていた。
「長野さん!」
「……さっき早駆けの百姓から、野盗がこちらに向かうらしいという森田からの連絡を受けたよ」
「そうですか!」
「しかし、まだ気配がないのだが……」
不審そうな長野の声を聞きながら、剛は見張り場に上る。
「確かなのか? 敵がこちらに向かったのを見たのか?」
下から長野の声が聞こえる。
「いえ。……見たわけではありません」
剛は目を凝らしながら答えた。
「見たのでなくてもいいんだ。では、馬の足音を聞いたのか」
「いえ」
「……?」
「けんが言ったのです。いえ、言おうとしたのです」
「けんが」
長野が少しあきれたように言う。
「……。なるほど。……確かに、けんはああ見えて常人より感覚が鋭いところがあるのかも知れないな」
しかし長野は小さくひとりごちる。
「……だが、人数を東側にもっと割いた方がいいかもしれないな……」
「……長野さん!!」
振り返って剛が叫ぶ。
「感じませんか!?」
「感じるって、なにを……」
そう言いかけて長野ははっと顔を上げる。……微かな地鳴り!
「……感じる!」
全身がこの地鳴りは気のせいなどではないと知らせている。長野は振り返って、銅のような色をした体の百姓達に怒鳴った。
「……来るぞ!!」
黙って肩を怒らせていた百姓達が怒ったような顔を上げる。
「来た!」
「……来やがった……!」
「野盗どもめ……」
吐き出すような声が百姓達からあがる。そんな中へ。
「……来たんか、ついに……!」
どこか明るくさえ聞こえる声が混じっている。坂本と駆けつけた岡田だ。
「長野はん、森田はん!!」
岡田はなぜか嬉しくてたまらないと言った顔で二人の方に駆け寄ってくる。
「見てや、……これや、これ!!」
言われて岡田の姿を見る。
「ほう」
「……刀か……」
長野と剛の声に、岡田は得意げである。岡田の左腰には、見慣れない長刀が差してある。
「そや、刀や! 俺の刀や! 坂本はんからもろたんや! 差し方も抜き方ももう教わった! 俺はやるで!!」
長野も剛も少し困惑する。有頂天の岡田の様子が嬉しくもあるが、危なっかしくも見える。
「准、似合うぞ」
長野はそう言ってから付け足す。
「おまえは絶対に一人になるなよ」
刀に夢中の岡田はその言葉を聞いてもいない様子だ。
その間にも、微かだった地鳴りは誰しもが感じるほどになっている。
「以前教えたことは覚えているな。……よし、組になって配置につくんだ!」
長野が百姓たちに念を押す。それから長野は剛と坂本に向かい、言う。
「井ノ原は念のため村を見回っている。なるべくここで持ちこたえるんだ!」
剛と坂本、頷く。
(つづく)
怠け者には眠い春ですがいろいろと環境の変わる新年度がやってきますね。「上手にできなくてもー君らしくあればいーいいー」っていい歌詞だなあ。しみじみ。(だから?)眠いhiruneに励ましのメールもよろしく……(hirune 98.3.28)
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