第10回
雨の激しさが収まってきた。深い霧のようなものに変わった雨の中を、坂本が早足で歩く。その前になり後になりして時々小走りになる岡田。二人とも一言も口を利かない。 百姓達が疲れ切った表情で、死んだ野盗を荷車に乗せている。坂本と岡田はその側も無言で通り過ぎ、庄屋の屋敷の中に入っていく。
暗い座敷に、何人か、顔に白い布をかぶせた百姓の死体。その親族らしいのがその側で顔をうつむけている。
「……おいっ」
その座敷の片隅に座っている剛を見つけ、坂本が大股で近づく。剛の前に、むしろに横たわる、長野の姿。
「長野はん!?」
岡田がいきなり長野にすがりつく。
「……長野はん!!」」
もう一度岡田が叫ぶ。その声に剛は唇を噛む。
「……ほんとうだったのか……」
坂本も力無くそう言うと、長野の枕元に座り込み、そっと長野のほつれ毛をかき上げてやる。
「信じられねえ……。まるで生きてるみてえじゃねえか……」
長野の顔は驚くほど安らかである。
気がつくと、井ノ原が、小さな椀を持って来ている。井ノ原は長野の側に跪くと、椀の中の水で長野の唇を湿し、それからそっと長野の顔に白布を掛ける。
それまで百姓達の間を回り、なにくれと声をかけていた庄屋が部屋を出て行きかけて、側を通る。庄屋は一同に気がつくが、なにも言わず、軽く頭を下げただけで部屋を出て行こうとする。丁度その時、庄屋の娘、松本恵が線香立てを捧げて座敷に入って来ようとするが、庄屋はそれを身振りで止める。
「でもおとっつぁん、これを亡くなったお侍さまに……」
松本は、まだ線香のない長野の方を痛ましげに見る。剛が顔を上げる。
だが庄屋はちらっと視線を動かしただけで、いいんだ、と言うふうに首を小さく横に振り、そのまま松本を連れて奥へ去る。
気がつくと、後ろで騒ぎ声がする。
「ばあさま、やめとけ……」
そう言って誰かを止める男たちの声。何事かと振り向くと、一人の老婆が男達の制止も振り切って立ち、拳を震わせてこちらを見ている。老婆は、おぼつかない足取りで、しかし怒りの表情を浮かべてこちらに近づく。
「……孫を返せ!!」
なにを言うのかと、一同は唖然として老婆を見る。
「返せ、返せ!」
「ばあさま……」
困ったようにそれをとどめる男達。だが、老婆はやめない。
「なんでうちのたった一人の跡取りが死んで、おめえ達はぴんぴんしてるんじゃ!!」
その言葉にはっとする一同。
「おめえ達が妙なことをそそのかすから、弥太郎は竹槍なんぞで野盗に向かっていっただよ。所詮、そんなことは無理だったんじゃ!!」
「そんな……」
井ノ原が思わずつぶやく。
「みんな黙って米を渡せばよかっただ。そうすれば弥太郎は死ななんだ! おめえらが、おめえらが村に来たから……」
「……」
老婆はまだやめない。震えるような泣き声になりながら、まだ叫び続ける。
「なぜ、なぜうちの孫なんじゃ。……おめえたちが死ねばいいでねえか!! ……おめえたちが死ねば!!」
なんと言えばいいのかわからない。老婆を止めようとする男達も、無理には老婆を引き留められない。その時、後ろの方から声が聞こえる。
「竹田のばあさま、やめてくれ!」
そう言ったのは、小橋賢治である。
老婆は声のした方を振り向き、それが小橋だと気づくと、唖然とする。
「なにを言うだ、賢吉。おめえだって弥太郎と一緒に戦って大けがをしたでねえか。それもこれもみんな……」
小橋は腕や頭に血の滲んだ白い布を巻いている。
「こんな傷……。ばあさま、違うんだ。俺がもっと気をつけていれば、もしかしたら弥太郎と吉五は死ななかったかもしれん……」
小橋がうつむく。
「な、なにを言い出す……」
「いや、もしかしたらやはり駄目だったかもしれん。だが、どっちにしても、その侍たちのせいじゃねえ。俺や弥太郎たち若者組の何人かは、以前から野盗が来たら村のために戦おうって言い合ってたんだからな」
「なんだって……」
「……それに、野盗の犠牲になって死んだのは九人だったが、これは少ない方なんだ。他の村では、女や子供まで殺されたからな。準備をし、早く野盗に気づけたから、これだけですんだんだ。おまけに米はまるまる残ってる。これから飢え死にの心配もねえ」
「……」
「ばあさま、……それは全部、弥太郎や吉五たちが、この村を守ろうとしてくれたからなんだ。……亡くなったみんなは、この村の守り神だ」
「……」
「……俺は、死ぬまで毎日弥太郎たちを拝もうと思ってる……。あいつらのおかげで俺たちは生きていられる……」
小橋の言葉に、老婆は言葉を詰まらせる。そして、嗚咽と共に急に泣き崩れる。老婆のだだをこねるような声が皺だらけの掌の下から漏れ聞こえる。
「うう……、弥太郎よう、うう……」
男達が、泣き出した老婆を抱えて奥の部屋に連れていく。
遺族となった女達の泣き声が大きくなり、部屋を包む。
なにも言えない気分で一同はまた長野を見つめる。
「なんだかんだ言ったってよ。……こいつのことだけは……」
長野を見つめたまま、坂本がつぶやく。
「あの婆さんだって罵れやしねえなあ……」
岡田が小橋の方を振り返る。小橋はこちらに近づいてくる。
小橋はなにも言わずに一同の後ろあたりに座ると、両手を合わせて長野に頭を下げる。けしておざなりではないのがわかる。
そして立ち上がり、部屋を出ていこうとしながら、誰に言うともなく言う。
「……あれからお久美は正気にもどんねえんだ。どうしてもおっかさんを家から出すのが嫌だと言いはって、今もあの家にもどってる……」
岡田がそんな小橋を見つめる。
岡田がなにも言う暇もなく、小橋は座敷を出ていく。そんな小橋と入れ替わりに、濡れそぼった健が入ってくる。
「……けんっ」
岡田が赤い眼のまま、叫ぶ。
「おまえいったい、今までどこにおってん。危ないからここにいさせて貰い、言うてあったのに……」
坂本、井ノ原、剛は無言で健を見る。
健はうつむいたまま長野の側に跪き、そっと白布をめくった。
長野の頬にぽたりと健の涙が落ちる。
我慢できなくなって岡田が、膝を握りしめて顔を背ける。こらえようと思っても涙があふれる。
「くそう」
井ノ原も鼻をこすってごまかしながら、泣いている。
だが、坂本と剛は。一瞬鋭い瞳でうつむいている健を見る。
死者たちは、一人また一人と、遺族に付き添われそれぞれの家に戻っていく。暗い座敷に残されているのは、長野と、長野を取り巻く五人だけだ。
世界の中心のような闇の中で、みんなそれぞれに黙っている。
泥のような疲れと空しさが体を冒している。……だがそれだけではない。
闇の中には、なにかの気配が満ち満ちている。
生きている自分たちが動くことひとつ出来ずにいて、今は、死んだ長野や百姓、そして野盗たちの魂の方が生き生きと闇を支配しているように思える。だがそれはむろん、なにもこわくなどない。……むしろ、親しくさえ感じる。
そんな闇の中で、剛は長野の笑顔を思い出している。
……初めてあのあばら屋に泊まった夜から、長野さんはやさしかった。長野さんは俺になんと言ったっけ。なんと言われたかは忘れた。しかし、あの笑顔で話しかけてくれた……。
剛はそっと仲間たちの顔を見回す。小さな燭台の明かりの中に、それぞれの顔がぼんやりと見える。
眠ったように顔をしかめて眼をつぶっている坂本、しかし眠っているはずがない。井ノ原は壁によりかかり、不満そうに口を尖らせて闇を見つめている。膝を抱え、その膝に顎を乗せ、大きな瞳でいつまでも長野を見つめている岡田。健は部屋の隅でぼんやりと皆から視線をそらせている。
父が死んでから、まるで父に見捨てられたように思って心の支えを失っていた。そして出会ったこの仲間たち。
なんだか奔流のようにいろんなことが頭を駆けめぐる。
喜多川の宿(しゅく)で准を助けようと井ノ原と共にやくざ者たちと斬り合ったこと。長野や坂本と出会い、けんもついてきて、初めてあばら屋に寝た夜。次の朝は晴れた空の下で百姓娘たちが笑っていたっけ。六人で家族のように飯を食った日々。准はいつのまにか坂本になついて剣の稽古に夢中になっていて、けんは……、けんは不思議な存在感でみなをなぐさめてくれていた。
そして俺は、そのころになってもまだはっきりと野盗たちに立ち向かう覚悟も出来ていなかったのだ。そうだ、井ノ原は喜多川の宿で俺の立ち会いを見たときから、きっと俺の迷いに気づいていたのだろう。「森田に出来ないことは俺たちがやる」、そう言ってくれたのだ。「森田は森田の考えでやりな」と。それを聞いてやっと俺は自分のガキさ加減に気がついた。……それはずっと以前のことのように思えるが、まだ一日しか経っていない……。
眠れるはずがないと思いながら、頭が闇の中に引きずり込まれる。まるで死者の国にでも引きずりこまれるかのように。
野盗との闘いがいつまでもぐるぐると頭の中を渦巻き、時折まだ斬り合っているように体が動き、はっと闇に眼を開き、そして思い出はだんだんと過去に遡り、子供の自分と笑っている父を思いだし、父の笑顔は長野の笑顔へとかぶさり……。
朝が来た、と思いながら、剛の意識はそこで途絶えた。
座ったまま寝ていた剛ははっと眼をさます。
「起きたか」
坂本の声がした。
顔を上げると、他の全員が起きていた。しかも、野盗との闘いで、血糊のついたボロ同然となっていた着物を、すでにそれぞれ着替えてある。
「庄屋の娘が着替えを出してくれたんだ。……お前も着替えろ」
新しくはないがこざっぱりと糊のきいた着物を手渡される。
「着替えたら行くぜ」
どこへ? という剛の表情に、坂本は答えた。
「長野の葬式だよ」
「……いい天気だなあ……」
最後に土をかけてから辺りを見回し、井ノ原が言う。
空を見上げれば、雲ひとつない青空が広がっている。昨日が嘘のようだ。
「……長野さんの葬式だもんなあ」
井ノ原がまた言うが、誰も返事をしない。代わりに、
「ええ形の石を見つけた」
それっぽい形の石を重そうに抱えて、岡田が姿を見せる。それを埋めた場所の上に乗せて、長野の墓ができあがった。
皆は黙ってしゃがみ、石を置いただけの長野の墓に手を合わせる。青を連れた健も一番後ろで手を合わせている。
最初に立ち上がったのは坂本だった。
「さあ、もう行こうぜ」
坂本は顔を背けて言う。
「こんな辛気くせえのは苦手だよ」
そう言ってもう歩き出す。その背中が、なんだか頼りなく淋しげに見える。
5人が長野の墓を作った林の中の高台を降りようとすると、一人の百姓がこちらを窺っている。不審に思いながらその脇を通り過ぎる5人。百姓は臆病そうに目をきょろつかせてへこへこと挨拶する。通り過ぎようとして、剛は、その百姓が、長野に庇われて助かったあの百姓だと気づく。歩きながら振り向く剛。木の陰から、百姓が長野の墓の前にしゃがみ、じっといつまでも頭を下げているのが見える。
「……あとは金か……」
歩きながら井ノ原が呟く。
金……。それを自分で口にした井ノ原も含めて、その言葉に全員が複雑な面もちになる。 5人は黙ったまま庄屋の屋敷に向かうが、長い庄屋屋敷の生け垣を曲がろうとしたとき、生け垣の向こうから庄屋とせん吉の声が聞こえてくる。先頭を歩いていた坂本が立ち止まる。他の4人も立ち止まる。
「庄屋さま、でもあの時は庄屋さまが……」
そう困惑したように言うのはせん吉の声。
「いいや、確かにおまえだったよ、言い出したのは」
庄屋の声には相手を責めるような調子がある。
「刀には刀だ。喜多川辺りにいる無頼者を金で雇って野盗と闘わせたらどうだと、おまえが確かに言い出した」
「……」
「村にそんな余計な金はないとあたしが言ったら、おまえはどう言った。どうせそんな無頼者など、みんな死ぬか逃げるかするに決まっていますと、そう言ったじゃないか」
「それは……」
せん吉の声が苦しげだ。
「その時はそう思っただ。それは本当ですだ。村を襲う野盗も、金目当ての無頼者も同じようなものだと思っとりやした。そんな奴ら同士が斬り合ったら、こりゃわっしらは助かるんじゃねえかと……」
聞いていた井ノ原が、自分の背後にいる剛や岡田の顔をちらっと見る。
「ですが、違っとりやした。……おさむれえたちは、村のためにわしらより懸命になってくれましただ。それは庄屋さまもわかって……」
「今更そんなことを言ってどうする」
庄屋がいらだたしそうに言う。
「昨日の騒動のことで調べたいことがあると、そう代官所が言ってきたんだよ。……出頭するのはあたしだ。聞かれたらなんて言えばいい。金を出して野盗退治を頼んだなどと言ったらただですむわけがない」
坂本が黙ったまま歩き出した。井ノ原が振り向くが、剛は口を引き結んだまま坂本のあとに続く。岡田と健もついてくる。
「……おい」
坂本はいきなり声をかける。こちらに背を向けるようにしていた庄屋が、その瞬間びくりとする。
「あ……、これはこれは……」
青ざめた作り笑いを浮かべながら、庄屋が振り返る。口元が引きつっている。
「……お揃いで……。……お出かけでしたか……」
「ああ。死んだ仲間の葬式だよ」
「さ、さようで」
「それもすんだ。もうここにいてもしょうがねえな」
「……」
「金を払ってもらおうか」
「……」
「5人分の日当。それと野盗を殺った分。よく数えてねえが、二十人は下らねえだろう。それだけでも五両にはなるな。まあ、全部で六両か……」
「……」
岸辺一徳の庄屋は下を向く。せんだ光雄のせん吉、そんな庄屋を心配そうに見る。庄屋はせん吉のことなど見もせず、早足に屋敷の中に入っていく。
せん吉はうつむいて呟く。
「……長野さまには申し訳ありませんでした……」
誰も答えないうちに、庄屋が出てくる。手には小さな巾着袋。庄屋はそれを坂本に渡す。 「……お金です」
坂本、重みを確かめるように受け取って、それをゆっくりと懐にしまう。
我慢仕切れずに剛が叫ぶ。
「坂本さん!」
「……」
「……金など! 長野さんの命は金とは引き替えになりません! それに俺たちは……」
言いたいことがありすぎて、剛は坂本を見つめたまま言葉をとぎらせる。井ノ原は視線を落とす。
「金など、だあ?」
剛の方を見ずに坂本が呟く。
「それに俺たちは、……なんだ?」
「……」
「あいつらが、百姓を痛めつける、悪い奴らだから殺したとでも言うのかよ」
「……」
「金のためだから命も懸ける。たとえそれがはした金でもな。……俺はそうだ……、長野は知らねえ……」
「……」
剛はもうなにも言わない。
坂本が庄屋とせん吉の方に向き直る。
「これは仕事だ。安心しな、雇い主の迷惑になるようなことは誰にも言わねえよ」
「……」
坂本はきびすを返すとすぐに歩き出した。坂本に続いて井ノ原も歩き出す。剛は庄屋とせん吉に少しだけ頭を向ける。岡田ははっきりと二人を振り向いてから歩き出す。健はいつものように、青を連れ、みんなのあとについていく。
屋敷の庭に残された庄屋とせん吉。そこへ、
「お侍さま、朝餉のお支度が……」
そう言いながら松本恵が屋敷から顔をのぞかせる。
「……あら……」
庄屋とせん吉の他に誰もいないので、履き物を突っかけた松本は庭に出て不審そうに辺りを見回す。
「おとっつあん、お侍さま方は……?」
「今出ていった」
「……え?」
「もう戻って来ないよ。食事の支度もしなくていい」
「え、でも……」
「恵」
庄屋はいらだたしげに言う。
「あんな奴らは村に来なかった」
「……?」
言われた意味がよくわからずに松本は父の顔を見る。
「村の者全員によく言っておかなくちゃならない。……あんな奴らはこの村とはなんの関係もない。あんな奴らは村に来なかったんだ」
「……」
(つづく)
いよいよ次回は最終回です!(hirune 98.4.25)
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