第4回

 剛は帰って来なかった。
 時折目を覚ます健に、森田さんはもうすぐ帰ってくるからと、その場限りの慰めを何度も言いながら、日が暮れるにつれ、岡田自身にも不安が広がった。
 眠った健は、しばしばうわごとを言った。「剛」と名前を何度も呼んだ。呼んだあと、寝ていてすすり泣いた。それを見るとつらくなった。手を握っていてやると、少し落ち着くみたいだった。それで、岡田はずっと健のそばを離れられなかった。
 夜が来た。
 真夜中、健が苦しそうに何度も寝返りを打つので、うつらうつらしていた岡田も目を覚ました。寝ぼけまなこで起き、タオルを絞って汗をかいた健の額を拭いてやった。顔から首筋まで拭いてやると、少しは気持ちがいいのか、健はまた静かになった。
 立ち上がって、暗い窓の外を見ると、一日降っていた雨はやっと止んだようだった。気がつくと、締め切った部屋が蒸し暑い。岡田は窓を開けた。暑さが少し和らいだ。
 岡田はイスに戻ると、再び眠ろうとした。だが、健がもぞもぞと動いている。見るともなくそれを見ていると、健の口がまた少し動いて、「ごお」と言ったようなのがわかった。
 岡田は、健の布団の具合を少しなおしてやった。
 あんなに眠かったのに、寝そびれて眠れなくなった。岡田は一度部屋を出ていく。戻ってきた岡田は、口を開けたコーラの瓶を手にしていた。
 「これ、いただくで」
 イスに座ると、眠っている健にそう声をかけて、コーラを瓶のままぐびっと飲む。飲んで、片手の甲で口元をぬぐい、退屈そうに背もたれにもたれて、しばらく健の寝顔を見て、それから岡田は突然言った。
 「そうや、三宅さん、退屈やから、俺が知ってる森田さんのこと、あんたに少し教えたろうか」
 もちろん、健は答えない。小さな寝息がするだけだ。岡田は、そんな健にうすくほほえんだ。
 「あんた、森田さんのこと聞きたいの、ずっと我慢してたやろ。顔に似合わない意地っ張りみたいやから」
 健の寝顔を見て、しばらく考えてから、岡田はつぶやくように話し始めた。
 「あのな。……これは人から聞いた話やけど、森田さんて、公害病で有名な町の出身なんやて。あの」
 そう言って、岡田は、今は誰もが知っている町の名を言った。
 「お父さんいなくて、お母さんと妹といたんやけど、ふたりとも、その病気で亡くなったらしいんや」
 返事をするものは誰もいない。あたりは、深夜の静けさ。耳をこらすと虫の声が聞こえた。岡田は続けた。
 「それがあったから、やろなあ。……仲間に入ったんは。……若いのになにも怖がらないで度胸が据わってるって、みんなそう言ってた。俺、人づてに森田さんの手柄話を聞く度にあこがれてたんや。俺とふたつしか違わんのに、えらいもんやって。……俺、あんまり頭よくないから、理屈はわからんねん。理論とか、そういうのも、苦手や。だけど、森田さんのやることは、わかる気がしたんや。大学出てる幹部の人ら、難しい理屈言うけど、何度聞いてもよくわからんもん」
 そう言ってから、岡田は声を小さくした。
 「このごろなんか、ほんとにわからん。なんだかどんどん違う方に行ってる気がする。リーダーいなくなってから、特に。よそのセクトと分裂するだの連携するだの、方針に従わないと処罰だの、ごたごたしたことばかり言って……。はじめは違うたやん。弱いもんばかりいじめられる世の中を変えようって、そう言うてたやん。ほんまに泣きを見せられてる人たちのとこ助太刀に行って、話つけて、ちゃんと役に立ってたやん。暴れるのも、少々痛い目見るのも、みんな意味があったんや……。なんでかなあ。また、ああいう活動には戻れんのかなあ……」
 だんだん岡田の声の調子が変わってきた。まるで自分自身に話すように、岡田は続けた。
 「俺もな、小さな下請け会社やってた親父が自殺したんが、こういうこと始めたきっかけやから、森田さんのイライラすんの、ようくわかるんや。考えてみると、もともと、ええ世の中作りたいっていうのも、ただのいいわけだったかも知れん。俺、人のいい親父を死ぬしかないように追いつめた奴らになにひとつやり返すことができへんかったから……、こんな世の中にどうにか復讐してやりたいって、ほんまはそう思っただけかも知れん……。だから、偉そうなことは言えんけど……」
 岡田はそこで一度言葉をとぎらせた。健がまた、苦しそうに顔をしかめた。岡田は、もう一度その額を拭いてやった。
 「三宅さん、あんたは金持ちの息子やし、言うたら俺たちの敵みたいなもんやけど」
 健は、額を拭かれるのがうるさそうに、横を向いた。熱はまだ下がらない。
 「……あんたのこと、そんなふうに思えたことないで。あんた、かわいらしい人やし。はじめは、森田さんはあんたの金とかを利用してたのかと思ったけど、あんたがほんとに森田さんのこと好きなの見たら、そんなことあるはずないってわかった。……ふたりは親友なんやな」
 そう言いながらも、次第に岡田の表情は曇った。
 「……でも、森田さん、もしかしたらもう、ここに来ないかも知れん……」
 そして、岡田は、痛ましいように健に視線を落とした。
 「あんな。森田さん、今、逮捕状出てるんや。森田さん、こないだ二十歳になったから、警察も、もうなんの遠慮もない。……リーダー捕まえても、そう手荒くは扱えんけど、森田さんはただの兵隊やから、どうしたって吐かせるつもりや。……森田さんははしこいから、捕まるわけないと思うけど……、でも、なんだか、俺、不安になってきたん……」
 健の唇がまた動いた。だが、それは動いただけで、声にはならなかった。
 「俺も、いつまでもここにはおられん。とにかく一度仲間のとこ戻らんと……」
 最後にそう言って、岡田はしゃべるのを止めた。もうじき夜が明ける時間だった。

 暑い朝が来た。
 健が目を覚ますと、部屋は明るかった。いや、明るいだけでなく、暑い。傍らのイスで、岡田がうたた寝をしていた。健は起きあがってあたりを見回した。のどが渇いたので水を飲もうとベットから立ち上がりかけると、岡田が目を覚ました。
 「や、どないしたん?」
 寝ぼけ声で岡田が尋ねた。
 「のど乾いたから……」
 まだぼうっとしながらも、かすれた声で健は答えた。
 「ああ、そやな。……俺、持ってくるから、寝ててええよ」
 そう言って、岡田は眠そうに立ち上がった。
 健の表情は、ゆうべまでよりずいぶんしっかりしたようだった。
 岡田が持ってきた氷水を口に含みながら、健はあたりを見回した。でもそれだけで、なにも言わなかった。
 「腹減ってない?」
 岡田が聞いた。
 「うん」
 健はそう言ったが、岡田は、
 「こないだ買って来たアイスあるやん。あれなら食えるんちゃう。ほら、えらい高いヤツ」
 と言う。健が返事をしないうちに岡田は健の部屋を再び出ていった。
 窓にはカーテンが閉まったままだったが、外が強い夏の陽光に照らされているのがわかった。 健はそっと部屋の中を見回して名前を呼んだ。
 「剛? いないの……?」

 皿に盛ろうとしても、冷凍庫に入れっぱなしのアイスは固くて、スプーンではなかなかうまくすくえない。しょうがなく岡田がアイス用のディッシャーを探していると、今まで一度も聞いたことのない、この家の呼び鈴が鳴った。 
 一瞬どきっとして、それから、やっと剛が帰ってきた安堵が広がった。岡田はアイスをそのままにして、玄関に向かった。
 「お帰りなさい、森田さん!」
 後輩らしくきびきびした声を出しながらドアを開くと、だが、そこに立っていたのは、剛ではなく、ハンカチで顔の汗を拭いている、ワイシャツ姿の小太りの男だった。
 「……」
 岡田は警戒して黙った。相手が岡田を黒縁めがねの奥の小さな目で岡田を見た。
 「君は誰だね?」
 居丈高に問われて、岡田は問い返した。
 「……あんたこそ誰ですか」
 相手はその問いに答えなかった。
 「健くんは? いるんだろう」
 それから、岡田の後ろを見て、とがめるように健の名を呼んだ。
 「……健くん! ……やっぱりここにいたの」
 そう言いながら、男は再び額の汗をハンカチで拭く。ドアを開けた屋外は、ものがみな白茶けて見える暑さだった。
 岡田は振り向いた。いつのまにか、階段の影に、青い顔をした健が立っていた。反抗するような、しかしどこか頼りなさそうな、健はそんな表情で男を見ている。
 「君と連絡が取れないから、お父さんがずいぶん心配してらっしゃるよ。……ここに来るなら来ると、どうして電話のひとつもしないの」
 岡田は、男と健の顔を見比べる。
 「ともかく見つかってよかった。それでなくても忙しいのに君の居場所まで探さなきゃいけなくなって、こっちはてんてこ舞いだったんだから」
 「……」
 岡田は健を見たが、健はなにも言わない。だが、男はそんなことに頓着しなかった。暑苦しい顔で、せっかちに言う。
 「まあ、それはあとでゆっくり説明してもらうことにして。とにかくすぐ帰ろう。僕は中で待たしてもらうから、持って帰るものがあったら早くまとめて」
 そう言うと、男はどんどん家の中に入って来ようとする。岡田があわてて言った。
 「ちょっと待って下さい!」
 男が振り向く。
 「三宅さん、この人、知っとる人? あげてええん?」
 岡田が健に尋ねると、男はうるさそうに岡田を見た。
 「私は社長……、健くんのお父さんから頼まれて来たんだ。君こそ、人の家に勝手に上がり込んでるように見えるけどね」
 「……」
 「全く、なにしにこんなところくんだりまで来たんだか、ほんとは先にきっちり説明してもらわないとならないんだが」
 男が含みを持たせてそう言って、健と岡田をじろりと見た。
 「今は帰るのが先決だ。午後から別の仕事が入ってるし、こんなとこで時間食ってられないんだ。健くん、ほら、早くして。暑いよ、ここ」
 男にせかされ、今まで黙って立っていた健が、かすれた声で、だがはっきりと言った。
 「俺、帰らない」
 「……健くん?」
 「親父なんか、俺がなにしてたっていつも全然気にしてないじゃない。なんで急に俺のこと気にしだしたの。……いつもみたいにほっといてよ」
 男はむっとしたようだったが、すぐに猫なで声を出した。 
 「そういうわけには行かないよ、健くん。……お父さんはね、いつだってほんとは君のことをとても心配してるんだ。お父さんのことをすぐそんなふうに言うのは、君の悪い癖だよ」
 「……」
 「さ、子供みたいなこと言ってないで。早く支度したまえ」
 だが、健は後じさりしながら言った。 
 「……いやだ。帰らないよ、帰らない。俺、ここにいなきゃならないんだ」
 「健くん」
 健はかたくなに言い張った。
 「剛が帰って来るまで、絶対にここにいる」
 「わけのわからないことを言ってないで」
 男がうんざりしたような声を出す。
 「僕は忙しいんだよ。君のわがままにつきあってる時間はないんだ。もういい、後始末はまた誰かにさせるから、とにかく君は車に乗りなさい」
 「いやだ!」
 だが、身を翻そうとした健の腕を、男が先につかんだ。男が、今度はおどすように言った。
 「健くん、いい加減にしないと、僕は、あとでお父さんに君のことを言いつけないといけなくなるよ」
 「……勝手にしろよ……、腕を放せよ……!」
 腕をつかまれながら、健が苦しそうな息づかいになったのに、岡田は気がついた。黙っていられなくなった。
 「……待って下さい!」
 岡田の声に、男が不機嫌な顔をあげる。
 「三宅さん、病気なんです。おとといからずっと」
 そう岡田に言われて、男は疑わしそうに健の顔を見る。
 「まだ、熱も下がっていません。乱暴にしないで下さい。……俺に、少し三宅さんと話をさせて下さい」
 「話?」
 「そうです」
 岡田が、男をにらむように見据えて答える。男は、岡田の気迫に押されて、面倒そうに健の腕を放した。健は息を弾ませながら、壁に背中をつく。その健の腕を取って助け起こすようにしながら、岡田は健の顔を見つめて、言った。
 「なあ、三宅さん、俺、あんたに話があるんや」
 「……」
 「大切なことや。よく聞いてほしいんや」
 「……」
 「俺の話を聞いて。な。」
 岡田が声に力を込めて言うと、健は答えないまま、眉をひそめた顔をそむけた。
 岡田が男の方を振り返る。
 「少しだけ時間を下さい」
 言うと、岡田はそのまま健の方を支えるようにして、キッチンのドアの方に向かう。
 「信用できるか。だいたい貴様が健くんをそそのかしてここに連れて来たんじゃないのか」
 「……」
 岡田はなにも言わずにそのまま健をつれてキッチンに入った。
 「変なこと考えたら承知しないぞ」
 男が後ろから、捨てぜりふのように言った。

 「あのな、三宅さん。俺、考えたんやけど」
 健をキッチンのイスにすわらせ、自分も健の隣に座りながら、岡田は言った。さっきテーブルの上に置きっぱなしにしたアイスクリームは汗をかいて、すでに半分とけかかっていた。
 「三宅さん、あの人と一度おうちに帰った方がええ」
 岡田がそう言うと、健が、意外なことを言われた、という顔で岡田を見た。
 「……なに言い出すんだよ……」
 「三宅さん、病気やし、まだ立ってもいられないくらいなんやから、とてもこんなとこにひとりでいられんやろ」
 「ひとりって……」
 「なあ、三宅さん。俺、森田さんのこと、気になってるんや」
 剛の名前を言われて、健ははっとしたように岡田を見つめた。
 「ほんと言って、俺、今、どうしても、東京に戻りたい。森田さんがなかなか戻って来ないこと、心配になってしもたん」
 「……」
 「なんでもないかも知れん。ちょっとした用が出来ただけかも。……だったら、ええんや。とにかく、森田さんがどうしてるか、会いに帰りたい」
 「……」
 「だから。な。今の三宅さんをひとりでここにおいてくわけにいかんし、三宅さんはあの人とおうちに帰ってて」
 「そんなの……」
 健は口ごもって、それから思い切ったように言った。
 「ねえ、じゃあ、俺も一緒に連れてってよ」
 今度は、岡田の方が言葉をなくした。健は岡田の両腕をつかむ。必死な声だった。
 「俺だって心配だよ、剛のこと。……ねえ、おまえ、なにか心あたりあるの? お願いだから俺も一緒に連れてってよ!」
 「……それは、できん」
 「なんで……」
 だだをこねるような健に、岡田の声が低くなった。
 「……なあ、三宅さん。あんた、森田さん自身から、森田さんのことなんにも聞いとらんのやろ」
 「……」
 「なんで聞かんかったの」
 「……」
 「聞かんでも、森田さんのこと信じてたんやろ。……だったら……、俺のことも信じて」
 「……」
 「俺、森田さんのことも、あんたのことも好きや。絶対に嘘は言わん。……ただ、どうしてもあんたには教えられないこともあるんや」
 「……」
 健は黙った。岡田の声が再びやさしくなった。
 「な。うちに戻ってて。俺が森田さんに会ってくるから。うちで病気なおしてて。もしかして、うちに戻ったら、森田さんからすぐ連絡あるかもしれないやん。向こうなら電話もすぐ通じるだろうし」
 健が顔をあげ、それからうつむいた。
 「……ええ? わかってくれた?」
 念を押すように尋ねられ、しばらくして健は力無く頷いた。


 健くんを迎えに来た小太りの男は、一応、「お仕事です!」にお医者さん役ででていた田口浩正さんをイメージしました。俗人っぽくやって欲しいです。
 (98.7.25 hirune)


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