第5回

 健は、バックひとつに、服と本をざっと詰め込んで、それからあとは、剛への置き手紙を書いた。ずいぶん考えて何度も書き直していたのに、出来た手紙は、レポート用紙にたった数行だけだった。
 健は最後にその手紙を食卓の真ん中に目立つように置いた。それで準備が終わった。岡田はもともと手ぶらだった。
 玄関を出るときになって、健は岡田が履いている、灰色に変色したスニーカーに気がついた。それは、もともとボロボロだったのに、この間の台風の中を歩いたせいで、今はほとんどゴミみたいになっていた。
 「……ちょっと待ってて」
 健はふたりを待たせて、この間買ってそのまま部屋におきっぱなしにしていたスニーカーをとりに2階へ行った。それは、健が東京へ持って帰る荷物の中に入っていなかった。
 健が下に戻ってくると、男はもう、車にエンジンをかけて健を待っている。健が玄関のドアをでると、すぐに、なにも遮るもののない日差しの中に立っている岡田の姿が目に入った。
 健は、苦しそうに息を弾ませて、岡田に言った。
 「これ、履けよ」
 顔色もまだ悪い。健は、ここ2,3日で、頬がぐんとこけてしまった。
 「え?」
 「……俺、きっと履かないし、その靴、破れてるじゃないか。……これ、やるよ」
 「ええよ」
 「いいから!」
 言われて、仕方ないように岡田は靴を履き替えた。古い靴は捨てる場所もなく、玄関の脇に並べて置かれた。
 「さ、行きますよ」
 車に乗り込んだ男に促されて、健は家の鍵を閉めた。男は出やすいように車を少しバックさせている。その隙に、健は、いそいで鍵を玄関脇の水伝いの錘の下に隠した。岡田がそれを見ている。健は黙ったまま岡田を見た。
 「乗って下さい」
 運転席の男に言われて、健は後部座席のドアに手をかけた。岡田はそれを見ているだけで動かない。健は動きを止めて、振り返り、まぶしそうに顔をしかめてそんな岡田を見た。
 「……乗らないの?」
 岡田はじっと健を見ながら言った。
 「俺は列車で帰る」
 「え……」
 「森田さんに会ったらすぐ連絡する」
 そう言うと、岡田は健から渡された連絡先のメモの入ったポケットを軽く叩いて見せた。
 「……」
 「三宅さんは無理せんで病気なおしてて」
 「……」
 「健くん、早く」
 男のいらいらした大声に、健は、岡田を見たまま、なんの意志もないように車に乗り込んだ。
 健がドアを閉じる直前に、岡田が軽く片手をあげて言った。
 「さよなら!」
 健が乗り込むと、男はすぐに車のアクセルを踏みこんだ。動き出した車の中で、健がまだこちらを振り返っているのがわかった。鬱蒼とした緑に包まれた田舎道を車は走り出し、そこだけゆっくりと、木立の角を曲がった。車の姿は見えなくなり、名残に、エンジンの音だけが聞こえた。だがそれもすぐ聞こえなくなる。
 岡田は、今はだれもいなくなった家をふりかえった。
 夏の光の中に、その家は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
 岡田は、軽い足取りで歩き出した。

 「いったいいつからここに来てたんですか」
 走り出した車の中で、男は運転しながら、後部座席の健に尋ねた。
 健は、窓の外を見たまま答えなかった。

 だん! と音がして、剛が背中から壁にぶつかった。剛は切れた唇の端から流れた血を手の甲で拭いた。
 目の前に、彼を見下ろす何人もの視線があった。女が言った。
 「じゃあ、なんでたばこを買いに行っただけの岡田が戻って来ないのよ! ……森田、あなた、なにを企んでるの!?」
 「企むとかそういうんじゃ……!」
 「じゃあ、岡田をどこへ行かせたの。なんであんなごまかしを言ったの!」
 「……だから! ……あのとき俺が帰りたいって言って、それが認めてもらえたかよ! ……ちゃんと話をつけるためには、まだしばらくかかりそうだから! どうしてもすぐには帰れそうになかったから! それで、俺を待ってる……」
 「あたりまえよ。今更あなたがメンバーから外れたいなんて、そんなこと了承されると思う方がおかしいわ。……わかってるの? あなた、すでに非合法なのよ! そのあなたが、あたしたちになんて言った? あたしたちのやってることがおかしいって? えらそうに!」
 「……だから……」
 剛は苦しげに顔をしかめた。どう言えば自分の言いたいことが相手に伝わるのかわからないようだった。
 「俺は無茶してみてよくわかったよ。そんな……、人を傷つける革命なんて、おかしいよ! そんなんじゃないだろ、俺たちのやりたかった……」
 「……岡田とは、以前から連絡を取ってたのか」
 話の腰を折ってそう言ったのは先ほどまでの女ではなく、低い男の声だった。
 「……何度も言ってるだろう! 岡田ってやつは関係ない! ただたまたまあのとき会っただけだよ!」
 いらだたしげに剛が叫んだ。仲間だったはずなのに、お互いの言葉が全然通じない。話はまた違う方向に空回りする。
 「ごまかすつもりじゃなかった! でも、あのとき、あの、岡田ってやつなら頼みを聞いてくれそうに思ったんだ! 俺がなにも言わずにずっと帰らなかったら健はきっと!」
 「……支離滅裂ね」
 女がつぶやいた。
  
 岡田は、もう歩き慣れた気さえする小道を通り、高台に出ると、もう一度、家を振り返った。
 
 「ここはすでに危険だ。……とにかく、場所を変えよう」
 そう言ったのは、今まで一言も口を利かなかった、眼鏡の男だった。男が言った。
 「ここに誰が来るか、外から見張っているのがいいだろう」
 「おそらくもう、岡田自身は戻って来ないでしょうね。逃がしました……」
 「いや」
 男はにやりと笑った。
 「案外、裏切り者はまた戻ってくるものなんだ。……この男自身がいい例だ」
 「俺は、裏切ってない! だからこそ戻って……!」
 そう叫んで、剛は思わず口をつぐんだ。自分を見つめる、眼鏡の奥の、つかみどころのない憎しみに満ちた目。は虫類に見つめられたように、剛はぞっと身震いした。剛を見たまま、男が言った。
 「まず、こいつを静かにさせないといけないな……」

 岡田は、いつものバス通りに出た。バス停で時間を見ると、バスは出たばかりだった。炎天下の道路は、陽炎が立っていた。岡田は顔をしかめてあたりを見回した。

 着いたのは、陰気な廃工場だった。そこは完全な郊外で、何棟も壊れかけた工場がつらなっていた。近くに沼地でもあるような、湿った気配がした。昼でも薄暗い場所だったが、深夜になり完全に人通りが絶えるまで、用心のために、剛は車のトランクに入れられたままだった。

 岡田の目の前を通った車が、すぐ先で止まった。
 車はかなり古いスバルだった。よれよれのTシャツにGパンの、いかにも大学生らしいのんきそうな男が車から降りてきた。よろずやにジュースを買いに来たらしい。その車が品川ナンバーなのに気がつくと、岡田はそちらに駆け出した。 

 一番体格のいい男が、剛の細い体を埃のたまった床に投げるように放った。縛られて猿ぐつわをされた剛は、目をつぶったまま動かなかった。
 「死んでるんじゃ……?」
 体格のいい男がやや不安げに言った。
 「死ぬわけないでしょう。なにもしてないのに。動けないようにしてあるだけよ」
 女がいらだたしげに言った。
 「大袈裟なのよ。獄中の指導者のことを考えたら、こんなことなんでもないわ」
 女が言い終わる頃、剛が動いた。
 「ほら」
 女が勝ち誇ったように言った。
 「……死は、敗北だ」
 眼鏡の男がつぶやいた。剛をのぞく、その場の人間たち全員が眼鏡の男の顔を見た。
 「私はもともと君たちの組織の人間ではないから、彼をよくは知らないが、彼の精神はどうやら敗北しかかっているようだ」
 誰もなにも言わなかった。
 「彼を救わなければならない」
 「その通りよ」
 そう言ってから、女は眼鏡の男の方を向いた。
 「我々はすでに共闘しているんですから、気遣いは無用です」

 「すみません!」
 岡田は、オレンジジュースの瓶を手にした若者に声をかけた。若者が汗だらけの顔で岡田を見る。
 「俺……、東京に帰りたいんですけど。……どちらまで行くんですか?」

 数えると、5人の人間がぼろのように倒れた剛を取り囲んでいた。剛はもう、縛られてはいなかったが、自分からはもう全く体を動かせないので、縛られていないことにはなんの意味もなかった。
 「早く言え!」
 どこからか持ってきた角材で剛を殴りつけながら、一番体格のいい男が叫んだ。殴りながら、彼の額から汗が飛んだ。叫ぶと、唾液も飛んだ。彼の他の二人の男は、それを見ながら、唾を飲み込んだ。彼らは、順にその役をやることになっていたからである。
 「お前はスパイなんだろう! いつからだ! 言え! 言え!」
 女と眼鏡の男は、黙って見ているだけだった。
 そう言いながらも、男は相手にしゃべる時間を与えなかった。殴られる度に剛はうめいた。だが、そのうめき声も徐々に小さくなった。
 剛が気を失うと、体格のいい男は息を弾ませて殴る手を休めた。そして、じっと立っているだけの眼鏡の男に尋ねた。
 「……こいつ、死にませんか……?」
 「死なないよ」
 眼鏡の男はなんでもなくそう言った。
 「この男が自分を総括できれば死なない。この男が、あのとき、私たちになんと言ったか覚えているだろう。もう一緒に活動できない、あなた達もすみやかに組織を解散させて欲しい、と、そう言ったんだ」
 「……」
 「我々が遂行しなければならない戦いの緊張に、耐えられなくなったんだ。弱い精神にはよくあることだ。だが、まだ救える。自分の行動を総括できれば」
 「……」
 体格のいい男は、息を弾ませたまま剛を見下ろした。剛は、生きていた。息をしている。
 「森田。早く総括して」
 女の方は不安になったようだった。剛のそばに座って、女はやさしい声を出した。
 「ほんとのことを言えば、まだあなたは救われるのよ。ごまかしてるかぎり、救われないわ」

 「ああ、いいよ」
 若者は、顔立ちの通り、のんきそうに答えた。
 「俺も帰る途中だから。ただし、あの車、クーラーなんかないよ」
 「かまいません」
 若者は飲み終わったジュースの瓶を箱に戻すと、車に向かって歩き出した。岡田もあとをついて行く。男が言った。
 「なんせ相当いかれちゃってるからねー。窓は半分しか開かないし、ラジオは入らないし」
 「……いいです」
 「で、どこまで?」
 男に訊かれて、岡田は一瞬考える。一度、自分の狭くて暑いアパートに帰りたい気もしたが、やはり、少しでも早く剛に会い、健に連絡してやりたかった。
 「……蒲田なんですけど」
 岡田は、最後に剛に会ったアパートのある町の名を告げた。あのアパートに行く以外、とりあえず、他にあてがなかったからだ。若者は、気軽にうなずいた。

 「なんかしゃべってるわ!」
 そう言って女は剛の耳元に顔を寄せた。
 「ほら、森田、言いなさい。あなたは今、なにを言うべきなの?」
 「これで、終わりですか……」
 なんの加減か意識を取り返したらしく、妙にはっきりそう言って、剛は起きあがろうとしたらしかった。だが、彼の手足は全く思うように動かなかった。剛はただ、手の先でもがいているように見えた。
 「俺、すぐ帰んなきゃ……」
 「……森田! 答えなさい!」
 「待ってるから……」
 「森田!」
 「……ひとりだとあいつ、寝ないし……」
 女が眼鏡の男を見上げた。男は頭を横に振って残念そうに言った。
 「だめだ。まだ理解していない」
 眼鏡の男は顔をあげた。昂然として、彼は言った。
 「まだだ! 次! 続けるんだ!」

 岡田が、古ぼけた車の助手席に乗り込むのが見えた。車は何度もアクセルをふかせてから、やっと動き出した。

 健……

 俺、もうすぐ帰るから……

 ラジオではジャズが終わって、ニュースが流れ出した。
 ちょうど正午になったところだった。
 男はミラー越しに健を見た。健は無表情に、窓の向こうを白く灼けた風景が流れるのを見ていた。
 「病気って、夏風邪でもひいたの?」
 男が尋ねた。
 「君はからだが弱いんだから、気をつけなくちゃだめじゃない。……ちゃんと毎月検診は行ってるんだろうね?」
 「……」
 「再発したらね、今度はいつ退院できるかわからないよ」
 「……」
 「健くん、聞いてるの?」
 「……」
 「全くもう……」
 男はいらだたしげにハンドルを握り、しゃべり続けた。
 「社長ね、今度の衆院選に与党の推薦で出馬できる事に決定したんだよ。すごいだろう?」
 「……」
 「だから、君にも、もっとちゃんとしてもらわなきゃ。君が学校無断で休んだり、変なやつらとふらふら遊んでたりしたら、お父さんが困るんだよ。ちょっとしたことが選挙には響くんだから」
 「……」
 車は、徐々に駅に近づいていた。少しずつ道沿いがにぎやかになってくる。
 いつか政治関係のニュースが終わって、事件のニュースになっていた。健は聞くともなくそれを聞いていた。
 「……二日前、千葉県の印旛沼で発見された若い男性の遺体の身元が……」
 駅前の繁華街が見えてきた。今日も、若い女の子たちが楽しそうに歩いている。この間来たときよりも、さらに人出は増えている。健は無感動にそれを見た。
 「……の結果、遺体は、別の事件で手配中の……」
 岡田は、どこに行くのだろう。剛はどこにいるのだろう……?
 「森田剛容疑者、20才のものと……」
 健は、もたれていたシートからゆっくりと身を起こした。
 今、ニュース、……なんて言った……?
 「森田容疑者は、過激派、日本革命左派のメンバーのひとりで、昨年の企業への連続火炎瓶投擲事件、また、今年四月岐阜県で起こったダイナマイト奪取事件にも関わったと見られています。遺体は全身をめった打ちにされていることから、警察では……」
 「……!?」
 健はなにか声を上げたらしかった。運転していた男がちらっと顔を後ろに向けた。
 「健くん、なにか言った?」
 「……日本革命左派はすでに今年二月指導者が逮捕されており、警察はこの事件との関わりを調べて……」
 「……かく……めい……?」
 「え? なに?」

 突然、なにもわからなくなった。目の前がゆらゆらと不安定に揺れだした。

 ……葦に覆われた沼。葦の合間には、緑藻に濁った水面。投げ捨てられた瓶。漂うビニール袋。そんなゴミの中に、半ば沈み、半ば浮かぶ、剛の体。うつむきがちになり、固く瞑った剛の瞳。水に揺れる剛の髪……。

 すでに駅を通り越していた。車が混んだ信号で止まった。運転席の男は、額の汗を拭いた。クーラーがかかっていても、日差しのはいる場所は暑かった。
 いきなり後ろのドアが開いた。
 「……健くん!?」
 男が見たのは、車から飛び出す健の後ろ姿だけだった。車道の真ん中で、迷うように左右を見て、どこへ行くのか、健はそのまま駆け出した。まるで泣いているような顔が一瞬だけ見えた。クラクションがいくつも鳴った。
 信号が変わって、前の車が動き出していた。
 「健くん……、くそお!」
 舌打ちしながらも、車を出さないわけにはいかなかった。男の運転する車は、混んだ道路の中をのろのろと動き出した。

 なにもかもが揺らめいて不確かだった。
 ときどき立ち止まってなにかにつかまった。そうしないと、地面が揺れて立っていられなかった。
 それでも、健は歩いていた。時折、自分がどこにいるのか確かめようとするように左右を見回し、口元に微笑を浮かべようとさえしながら。
 ……そんなはずはないから。
 あれは、ただの人違いだと、すぐにわかるはずだから。

 揺れ動く風景と喧噪の中を、健は、赤い瀟洒な駅に向かっていた。
 そろそろ民間企業も夏休みに入る時期だった。
 駅は、荷物を抱えた避暑客でごった返している。
 何度も荷物にぶつかり、よろけそうになりながら、健は駅の改札の前に立った。列車が着いたところらしい。混雑がひどくなった。後ろからも前からも、人がせわしなく改札を通る。
 健は、人を捜すようにあたりを見回した。誰かの名を呼ぶように口を動かした。だが、相手は見あたらないようだった。
 切れ目なく改札を通っていく人々。しばらくして、健は突然歩き出した。
 「あ、君っ」
 改札係が呼び止めたが、健は、人波にとけ込むように改札を通り抜けていた。
 階段を上っていく人々。下りてくる人々。声高な話し声。駅のアナウンス。
 「……岡田!」
 壁につかまりながら、健は、はじめて岡田の名を呼んだ。
 「岡田!」 
 胸の中の、おそろしいものから逃れるように、健はまた呼んだ。返事をするものは、誰もいなかった。
 駅のホームの人混みの中を、健は、あてもなく岡田をさがした。さがしながら叫んだ。
 「岡田!」
 ときどき人が振り向いた。だが、岡田の姿はどこにもなかった。いつか、健は、長いホームを走っていた。
 列車の出る合図。列車のドアが閉まる。
 「岡田! ……俺も……!」
 知らない間に、涙が止まらなくなっていた。健は、ホームの端に立ちつくした。列車が動き出す。
 「……俺も剛のところにつれていってよ……!」
 子供がだだをこねるように、健は叫んだ。
 「俺も、つれてってよ!!」 

 「ねえ、あの子」
 店じまいの支度をしながら、女性の店員が、同僚に声をかけた。
 「なにしてるのかしら」
 家電品のコーナーで、商品のチェックをしていた男性店員が、興味なさそうに答えた。
 「あいつ、ずっといるよ」
 「……ずっと?」
 「夕方から、ずっとテレビの前にいるんだ。ニュースばかり捜してチャンネル替えるんだけどな」
 「へえ。いいの?」
 「別に、たいした迷惑でもないし。……だけど、そろそろ追い出すか」
 そう言って男性店員が時計を見上げた。夜の9時になる少し前だった。
 女性店員は、好奇心に溢れた目で、もう一度テレビのコーナーに目をやった。
 「頭、おかしいのかしらね。かわいそう、あんなにかわいい顔してるのに……」

 木立から漏れる光が、まぶしい。
 はっと、今眠りから覚めたように、健はあたりを見回した。
 健を包んでいるのは、空を覆う緑の木々。
 静かだった。
 風が吹いた。ちらちらと、光が揺れる。
 そんな、風の抜ける緑の静寂の中に、健一人が取り残されたように立っているのだった。
 不思議そうにあたりを見回していた健は、しばらくして急にくくっと喉をならした。
 ……俺、なんでこんなところまで来たんだっけ。
 そんなことさえわからなくなっている自分がおかしかったのである。
 しばらく笑ってから思い出した。
 そう、家でうたたねしてるうちに、剛がいなくなってたんじゃないか。
 剛と、そう、あとからやって来た……、岡田って言ったっけ? あいつ。
 二人ともいなくなってたんだ。
 寝たのなんてほんのちょっとの間だったのに。
 二人とも、俺がすぐ起きるとは思わなかったんだろうけど……。
 だから……、そう、捜しに来たんだ。
 健は再びゆっくりと歩き出す。
 光が揺れる。
 あの、薄暗い水辺に。
 きっと剛はいる。
 岡田ってやつも、剛と一緒にいるのかな。
 小暗い道の湿っぽい下草を踏みながら、健は考える。
 二人は、知り合いなんだから。
 俺の知らない、二人だけにわかる話をしてるのかも知れない。
 でも、その想像は、少しもいやではなかった。
 むしろ、そうだったらいいと思った。
 瀬音がしてきた。ひんやりした水の気配。
 健はびくっと立ち止まった。
 水の音で、急に、なにか悲しい気持ちがわき上がって来たのだ。
 なにか、思い出すのもいやな、つらい、悲しい……。
 「変なの」
 健はつぶやいた。気づくと頬に涙がこぼれていた。ほんとに変だった。小さい子供ではあるまいし。
 こんもりとした茂みを下りれば、そこにすぐ、二人の姿があるはずだった。
 健は手で枝をかき分けながら、小さな崖を下った。

 緑に翳った水辺に、剛と岡田はいた。
 並んですわった二人は、やはり、楽しげに話をしていた。健の来た気配に気がつくと、二人はゆっくりと振り向いて、それぞれが健に微笑んだ。
 健も、微笑った。 


 ……1971年、夏……。


 5回に渡って連載した「夏」もこれで終わりました。最終回はいかがだったでしょうか。
 舞台設定が実はかなり昔だったわけで、内容がうまく伝わったか、ちょっと自信ないですが……。お読みになった感想など聞かせていただけるとうれしいです。では。
 (98.8.1 hirune)


第4回へ

(メインのページへ)