夏の流れ者
(中編)
ホテルの状況は、男にもすぐに分かった。
哲朗の言ったとおり、ホテルを支えているのは、板長と、その娘の由美という女将だった。先代の主人はまだよかったらしいのだが、今の若い主人は、誰の目にも頼りないことは明らかだった。
ホテルは老舗ではあったが、建物が小さく、設備が古いので客は少なかった。主人は、立て替え、低料金で団体客を入れることで生き延びようとしているらしいが、何と言っても先立つものがない。
女将は忙しくホテルを切り盛りしていたが、男が近くを通ると、じっと見つめているようなのが気になった。
次の週にも、哲朗は男を誘って飲みに行った。哲朗は自分がしゃべりたくてたまらないたちなので、口数の少ない男を気に入ったらしい。
ドアをくぐると、隆がうれしそうに出迎えた。
「あーら、また来てくれたのね」
「俺が連れてきたんだよ」
哲朗がそう言うと、
「今度は哲っちゃん抜きで来てね」
と言う。哲朗と男は苦笑してカウンター席に座った。
亜美は何も言わず、哲朗のボトルを出し、水割りを二つ作ると、
「何か食べる」
と尋ねた。
「そうだなー」
わざとらしく壁のメニューを見回している哲朗を無視して、亜美は男に声をかけた。
「あててみましょうか」
男は亜美を見た。
「湯豆腐なんか好きでしょ」
男は黙って亜美を見つめた。亜美はすぐに目を落とした。
「ごめんなさい。変なこと言って」
「そうだよ変だよ」
哲朗が割り込んだ。
「だいたい、こんな季節に湯豆腐はないだろう」
男は黙ったままグラスの中身をぐっと飲み干した。
その時、昔言われた、
「そんなドリンク飲むくらいなら、酒を控えりゃあいいのに。もう若くないんだからさ」
という言葉が頭の中によみがえったが、それはすぐに隆の声にかき消された。
「あーら、すごい飲みっぷり。ねえ、この町初めて? 今度デートしましょうよ。いろいろ案内してあげるわ」
男は苦笑した。亜美も笑って男のグラスを受け取り、水割りを作った。
「パパパパって、変わった名前ですね」
男が亜美に話しかけると、
「そうだよな、変な名前だよな」
と哲朗が割り込む。
「言いにくいでしょ。こんな名前なら、お客さんが来ないと思って」
「でも、それじゃ困るでしょう」
「ううん」
亜美は首を振ると、グラスを男の前に置き、
「もうからない方がいいの。パパの税金対策みたいなものだから。それに、こんなお店でもあれば、わたしも退屈しないし」
「だから俺と一緒になろうよ」
哲朗はあくまでも会話に割り込もうとする。
「嫌だって言ってるでしょ!」
男は黙って自分の左頬の傷跡をなでた。
数日後、仕事が終わると、板長は、
「明日はお客さんも少ないし、半日休みをやるから、町を見てこい。観光名所ぐらい見ておかないと、お客さんに聞かれたときに困るから」
と言った。
男は、人の多いところへ行けば顔をじろじろ見られることになるので、内心行きたくはなかったが、それに従うことにした。
翌日、買い出しの車に駅前まで乗せてもらい、とりあえず市電の停車場へ行くと、突然声をかけられた。
「やだぁ、ほんとうに来たのね」
振り向くと、隆が立っていた。
「哲っちゃんが昨日教えてくれたの。案内してあげる。ロープウェイに乗りましょ」
男の返事を聞かず、勝手に決めて男の手を引いた。男は慌てて隆の後に続いて市電に乗った。
町の南に、小さな半島のように突き出したところがあり、そこの山のふもとから展望台までロープウェイがあった。
男は隆とそれに乗り、登りながら町を見下ろした。平らな土地に建物が密集しているが、両側から海が迫って細長い首のように見える。ホテルがあるのはずっと東の方で、はっきりは見えない。
山の頂上は展望台になっていた。晴れていて見晴らしはいい。南の方には、海峡の向こうの山が、島のように海に浮かんでいる。
しかし、有名な観光地だというのに、平日のせいか、観光客はまばらだった。しかし、思い起こしてみると、客が少ないのはそこばかりではなかった。その町は、子供でも知っているような有名な土地であり、温泉もあるのに、観光客であふれかえるということはなかった。市電が走っているのが町の古さを感じさせるが、駅前にも繁華街のにおいはない。
昔は仕事で大都市にばかり行っていたこともあり、ゆっくり観光することはなかった。新しい仕事に就いてからは、観光地で働くことが多かったが、ゆっくり見て歩くことはなかった。仕事をしている町をじっくり見るのはこれが初めてだった。
男がベンチに腰掛けると、隆は売店でソフトクリームを二つ買ってきた。一つを男に渡して隣に座り、
「この町って、どこ行ってもソフトクリームとアイスクリームは売ってるのよ」
と言った。そして、男の考えていることを察したのか、男の顔をのぞき込み、
「変な町でしょ」
と言った。
「有名な町なのにね。なんか寂れた感じがして。町が古いからかしらね」
「古い町の方が観光客は来るだろう」
男はソフトクリームを一口食べた。特によその土地のものと違うようには思えない。
「古けりゃいいってもんじゃないわ。戊辰戦争の激戦地だなんて言われたって、お星様のかっこうした公園が残ってるだけだもの。知らなきゃなんだかわかりゃしない。どうせならUFOの秘密基地でもあった方がお客さんは来るんじゃない」
男は少し笑った。
「でも、わたしはこの町が好きよ。落ち着いてるし。三田さんもいるし」
男は話題を変え、
「あの店、何のためにやってるの」
と尋ねた。
「パパパパ? 亜美ちゃんのお父様の税金対策よ。お父様のこと知らないの?」
男は頷いた。
「伊東組っていったら、この町じゃ知らない人はいないわ。ああいう、もうからないお店があれば、それを理由に税金を低くできるんですって。それに亜美ちゃんをこの町に置いておくこともできるし。あたしはお目付役ってわけ。あたしとなら二人っきりでいても安心だから」
男はまた少し笑った。
「箱入り娘ってわけだ」
「そうね……。でも、ちょっとかわいそう。亜美ちゃん、この町から出たことって、ほとんどないのよ。学校の修学旅行くらいだって。後は、五年前に横浜に行ったのが最後だって」
「五年前……」
「由美ちゃんと一緒に行ったんだって。その頃は二人とも仲良しだったから」
「今は?」
「さあ。どうかしらね。亜美ちゃんのお父様はね、亜美ちゃんを貴教さんと結婚させたがってたの」
「若旦那と」
「うん。きっとあのホテルが欲しかったのね。由緒あるホテルだから。でも、貴教さんは由美ちゃんを選んだのよ」
「板長の娘だから?」
「それは関係ないみたい。ただ好きだったみたいよ」
「板長もそれを望んだのかな」
「どうかしら。きっと辰夫さんは、反対だったんじゃない。娘がちゃらちゃらした男と一緒になるなんて。でも、自分の目の届くところにいるならいいと思って許したっていう話よ」
「娘がかわいい父親なら、そう考えるかもな」
「そうね。そのことがあって、二人は気まずくなっちゃったのよ。二人ともお母さんがいなくて、そんなことまで似てたからいつも一緒にいたのに。二人とも父親思いのところも似てるわ」
父親……。その言葉に、昔聞いた言葉がよみがえった。
「あの子は、父親ができたみたいだっていって、喜んでました」
あの後、大阪の実家に初めて訪ねていった時、そう言われたが、俺は何もしてやれなかった。いつも説教するばかりで……。それでもあいつは……。
「ちょっと、何考えこんでんのよ」
隆の声に顔を上げると、ソフトクリームがとけかかっていた。男は慌てて口に放り込み、立ち上がって柵にもたれた。見下ろすと、展望台への曲がりくねった道を観光バスが登ってくるのが見えた。男はじっとそれを見つめたが、すぐに目をそらした。
後ろから隆の声がする。
「もしかして、女の人のこと考えてたの?」
男は背を向けたまま首を振った。
「いいや、男のことだ」
「まあいやだ。あたしといるのに男のことだなんて」
隆は隣に来て男をにらみつけた。
「女のことなら我慢できるけど。まさか、その男の人が恋しいんじゃないでしょうね」
男は笑った。
「恋しい? 恋しいって言えば恋しいな」
「だったら会いに行けばいいじゃない」
「会えるもんなら会いたいさ。でも、遠すぎる」
「外国にでもいるの」
男は柵に背をもたせかけ、晴れ上がった空を見上げた。
「あそこにいる」
隆も空を見上げた。
「え……。じゃあ……」
「そういうことだ」
「ごめんなさい。つらいこと思い出させちゃって」
男は空を見上げたまま言った。
「思い出すっていうのは、忘れているからだろう。俺は忘れたことはない。だから思い出しもしない」
青空に、忘れたことのない顔が浮かんでは消えた。
数日後、午前中の仕事を終えると、主人の貴教と女将の由美が図面を持って入ってきた。
「ちょっと見て貰いたいんだけど」
板長にそう声をかけ、調理台の上に広げる。調理場に残っていた哲朗と男もそれをのぞき込んだ。図面はホテルの見取り図らしい。
「こんな風に建て替えて、団体客をいれようと思うんだ。庭は狭くなるけど、パブも作って、フィリピンショーなんかもやって」
哲朗は感心して見ている。
「ずいぶん大胆なこと考えましたね」
板長は首を振った。
「そんなに客を入れたら料理はどうなる」
「そりゃあ、今までのようにはいかないけど、大量生産の薄利多売ってやつでいけば……」
「よっぽど人をそろえなきゃ、味は落ちるぜ」
「少しくらいはしかたないよ」
「気に入らねえな」
由美は不安そうに板長を見た。板長は言葉をつづけた。
「第一、金はどうする。普通の会社だって貸し渋りにあって困ってるんだろう」
「それは……」
貴教が言葉に詰まったとき、勝手口から、
「それは私が出す」
という声がした。一同が目を向けると、頬に傷のある、眼鏡をかけた中年男が入ってきた。
「伊東……」
板長がにらみつけたが、相手は意に介さず、近づいてきた。
「金は私が用立てる。町の発展のためだ」
「何が町の発展だ、この野郎」
板長がつかみかかったが、貴教が、
「もう契約してあるんだ。やめてくれ」
と割って入った。
「何?」
板長は伊東の襟をつかんだまま貴教を見つめ、それから由美を見た。
「お前も知ってたのか」
由美は目を見張って首を振った。
「まさか、伊東さんから借りるなんて思ってなかった」
「その手を離して貰えないかな」
伊東は落ち着き払って言った。板長は手を離すと伊東をにらみつけ、
「勝手にしろ」
と言って出ていった。
伊東は調理台の前に立って図面を見ると、
「この通りにできりゃあ、客が集まって経営も楽になるだろう。町も発展するってもんだ」
と、満足そうに頷いた。
「伊東さん、でも、どうして……」
由美が不安な顔で伊東を見ると、伊東は凄みのある笑いを見せて言った。
「もちろんこれはビジネスだ。慈善事業じゃない。金はきっちり、利息を付けて返して貰うよ。金はもう渡してあるんだ。早いとこ建て替えて儲けてくれ」
「大丈夫なの」
由美は貴教を見つめた。
「大丈夫だよ、きっと。みんなだって、このままじゃどうにもならないことは分かってるだろう。俺だって何とかしたいんだよ」
貴教は声を張り上げた。
男は黙って図面を見つめていた。
数日後、最後まで調理場に残っていた男が、後片づけを終えて明かりを消し、部屋に戻ろうとすると、フロントのわきのカウンターバーのところが明るいのに気づいた。消し忘れかと思って行ってみると、由美が一人で座っていた。
「あら、三田さん」
由美の手には水割りのグラスがあった。
「ちょっと付き合ってよ」
そう言って、隣の席を指さした。
男が座ると、由美は水割りをもう一つ作り、差し出した。
「いただきます」
男はそう言ってグラスを口に運んだ。水割りはかなり濃く作ってあった。
「あたしも、飲まなきゃやってられないわよ。あんな人からお金を借りるなんて」
「旦那さんもいろいろ考えたんでしょう」
「もっと地道にやることを考えればいいのに。もっと主人としての自覚をもってみんなをまとめて欲しいわ」
「自覚があるから何とかしようとしてるんですよ。それに、人をまとめるっているのは結構大変なことですよ」
「そうね……。大変よね」
由美はそう言ってグラスを空け、三田を見つめた。
「三田さんって、本当の名前じゃないわよね」
口に運びかけたグラスが止まった。男は返事をせず、じっとグラスを見つめた。
「結婚しないの?」
由美は質問を変えた。
「しないわけじゃないんですが……」
男はぐっと一気にグラスの中身を飲み干すと、
「ごちそうさまでした」
と言って席を立った。
由美はそれから毎晩のように飲んでいた。男はそれを見てもそばへ行かないようにしていたが、ある時、貴教と由美が一緒に飲んでいて、貴教に声をかけられてしまった。
「一緒に飲もうよ」
「しかし……」
「いいから、いいから」
貴教は酔っていた。
男が座ると、由美が水割りのグラスを差し出した。
「いただきます」
「あんた、なんでそうよそよそしいのかね」
貴教は言った。
「もっと仲良くしようよ、仲良く。哲っちゃんみたいにさ」
「すみません。こういう性分なもんで」
「それにその傷、なんとかなんないの」
「貴教さん」
由美がたしなめたが、貴教はそれを無視した。
「あんた、亜美のところに飲みに行ってるんだって」
「はい。たまに哲さんと」
「どうせみんなで俺の悪口言ってるんだろう」
男は黙ってグラスを口に運んだ。
「ごめんなさいね。酔ってるの」
由美がわびると、貴教は由美の方を見て言った。
「何でお前が謝るんだよ。由美、お前は俺か」
「だって夫婦じゃないの」
「そんなこと言うけど、お前だって俺のことをバカにしてるんだろう。親父と一緒になって」
由美が貴教をにらんだ時、男は口を開いた。
「旦那さん」
「ん? 何だよ」
「ホテルのことですが、建て替えまではしなくていいんじゃないでしょうか」
「何だよ急に」
「ここの板長は一流です。広い庭もあることだし、団体客を入れるよりも、高級感を出せば、高くても客は入ります。世の中不景気でも、贅沢ができる人たちはいますから。余裕のある老年夫婦なんかをターゲットにしてもたらどうでしょう」
「ほう、主人の俺に説教かい」
「すみません。でしゃばって。でも、そういうお客さんもいるんです。昔、旅行会社で……」
「旅行会社でなんだよ」
「すみまんせん。何でもありません。ちょっとそんな話を知り合いに聞いたことがあった問ですから」
「三田さんの言う通りかもしれないわ」
由美が言った。
「立て替えはやめて、三田さんの考えでやってみましょうよ。板前さんだけじゃなくて、スタッフとして働いて貰ったら」
スタッフとして……。その言葉に、あの時のことが心によみがえった。
「よかったら、スタッフとして残らないか。事務所としてもできるだけのことはしたいし……」
しかし、それを断って俺はあの世界から離れたんだ……。男がそんなことを考えていると、貴教が突然立ち上がった。
「何だよ、三田さん三田さんって。そうか、由美、お前、こいつのことを……」
「何バカなことを言ってるのよ」
「ああ、どうせ俺はバカだよ」
男はグラスの中身を飲み干すと、
「お先に失礼します」
と言って席を立った。
(続く)
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