夏の流れ者
(後編)
「さあ、どうするんだ」
伊東の声に、貴教は歯ぎしりした。
「だましたんだな。最初からそのつもりで」
「人聞きの悪いこと言うんじゃねえ。ちゃんと契約書に書いてあるんだ」
ホテルの広間に、主な従業員が集まっていた。従業員を背に、貴教はひざをついていた。そしてその前に、伊東が仁王立ちになっている。その後ろには手下が二人。そのほかに、亜美と隆もいた。
伊東は亜美を振り向くと、
「もうすぐここはうちのものになる。亜美、お前を女将にしてやるぞ」
「ありがとう、パパ」
亜美はほほえんだ。
「亜美ちゃん、あなた」
由美の声は悲鳴に近かった。
「何よ。言いたいことがあるなら言いなさいよ」
亜美は冷たい笑いを浮かべて由美を見た。由美は唇をかんで貴教を見た。
「そんな、そんな……」
貴教は手にした契約書をじっと見ている。伊東は低い声で言った。
「十日ごとに利子を払う。それができない場合は抵当を引き渡す。簡単に言えばそういうことだ。ちゃんと書いてあるだろう」
「でも、あの時の話じゃ……」
「あの時の話じゃなんだ。俺が、利子はいらねえとでも言ったか」
「そんなこと言ったって、まだ工事も何も始まってないのに……」
「そんなことはそっちの都合だ。いいか、これはビジネスなんだよ。借りたものを返さねえんじゃ泥棒と同じだ」
板長が歩み寄り、貴教から契約書をひったくった。じっと字を目で追っていたが、溜息をつくと、伊東に投げつけた。
「今更言っても始まらねえが、だからこんなやつを当てにしちゃいけなかったんだ」
「板長……」
そう言った哲朗の声は震えている。
「哲、俺はここをやめる。俺がどこかに落ち着いたら呼んでやるから、おめえはここで辛抱して使って貰え」
「あらやだ」
隆が口を開いた。
「板長さんがいなくなったらつまらないわ」
板長は何も言わず、隆をにらみつける。
「金は、金はそっくり返す」
貴教は伊東の前で土下座した。
「だから、この契約はなかったことにしてくれ。俺がバカだったんだ」
「ああ、お前さんはバカだよ。お前さんみたいなバカを主人に持ったここの連中は気の毒だが、ビジネスはビジネス。それに、俺が経営者になりゃあ、給料が上がるかもしれねえ。みんな、俺につくなら今のうちだぜ」
そう言うと伊東は従業員を見回した。しかし、みな黙って伊東をにらみ返した。
「何でもする、何でもするから勘弁してくれ」
貴教は額を畳にこすりつけた。
「おう、そうかい。何でもするって言うんなら、その言葉の通り、ホテルを引き渡して貰おう」
「そ、それだけは……」
「何でもするって言ったじゃねえかよ」
伊東は貴教の肩をけりつけた。小柄な貴教の体は畳の上を転がった。それを見て、由美の目から涙がこぼれた。
「ねえ、パパ」
「何だ、亜美」
娘に声をかけられて伊東は振り向いた。
「何でもするっていうんだからさ、何かやってもらいましょうよ」
「何かって、何だ」
「何でもいいわ。ほら、あそこにビデオカメラがあるから、ビデオに撮って、後で見て楽しむの」
そう言いながら亜美はステージの方を指さした。そこには宴会撮影用のビデオカメラがあった。
「ほう、悪くねえな。どうせなら、祭りの余興に上映会でもやってやろうか」
貴教は伊東をにらみつけた。伊東はそれに目もくれず、手下に向かっていった。
「おい、お前ら。撮影の用意だ」
「へい」
二人の手下は勝手にビデオカメラを運んでくると、中にビデオテープが入っていることを確認して貴教の姿を映し始めた。貴教は顔を背けた。
「さーて、何をやって貰おうかな」
伊東の笑いに、貴教はこぶしを握りしめた。
「バック転なんかどう」
「バック転?」
亜美の提案に、伊東は怪訝な顔をした。
「バック転て何だ」
隣にいた隆に聞くと、隆は、
「ほら、こうやって後ろにくるっと回るやつですよ」
と体を反らせる仕草をして見せた。
「何だそりゃ」
伊東が亜美の顔を見ると、亜美は笑って、
「どうせなら、できないのを無理にやろうとするのを見た方が面白いわ」
と言った。
「まあ、そうだが……」
「どうせならさ、誰でもいいことにしましょうよ。このホテルの従業員にバック転二連発をやってもらうの。失敗したら首の骨くらい折るかもしれないけど、主人のためにやってみようっていう人もいるかもしれないし」
「バカなこと言わないでよ」
たまらずに由美が声を挙げた。亜美はそれを冷たく見ていった。
「あーら、そんなこと言える立場かしら」
由美は無言で亜美をにらみつけた。
「しかし、できたらどうする」
伊東は少し不安なようだった。
「できるわけないじゃない、そんなこと。若い人なんて一人もいないんだし。もしできたら、契約は無しにしてあげてもいいわよね。元金さえ返してくれればいいことにしてやってもいいわよ」
亜美は余裕の笑みを浮かべている。
「やってみるよ……」
貴教が力無く立ち上がった。
「貴教さん……」
由美は不安を浮かべて貴教を見た。
「バック転二回だね」
皆が、貴教の背後を広く空けた。
貴教は、一度体を前にかがめ、両手を後ろへ振り上げながら体を反らせた。そして、背中から畳の上に落ちた。背中を打ち付けて息が詰まったらしく、胸に手を当てて畳の上で体を丸くした。由美が駆け寄ってその背中をさする。
「こいつはおもしれえや」
伊東はにやりと笑って従業員を見回した。
「誰かほかにもやってみるやつはいねえか。一人でもできるやつがいれば、契約はチャラだ。亜美が言った通り、元金さえ返してくれればよしとしよう。どうだ、そこのちっこいの、やってみねえか」
伊東が哲朗を指さすと、哲朗は声を震わせて、
「亜美ちゃん、こんなこと……」
と言ったが、亜美は怒鳴りつけた。
「気安く呼ぶんじゃないわよ」
皆が静まり返った時、男の声がした。
「今言ったことを、カメラに向かって言ってくれ」
伊東が目を向けると、男は一歩前に出ていた。
「ほう、お前がやってみるのか」
「やるかどうかはまだ決めていない。ただ、今言った条件をカメラに向かって言ってもらいたい」
「おう、言ってやろうじゃねえか。おい、俺を写せ」
手下にそう命じると、伊東はカメラに向かって契約書を突き出し、上機嫌で言った。
「このホテルの従業員で、バック転二連発ができるやつが一人でもいれば、契約はチャラ。元金さえ返してくれれば何にもなかったことにしてやるぜ」
そして男の方へ振り返り、
「どうだ、これでいいか」
と言った。男は頷いた。
「嘘はないな」
「ない。俺も男だ。娘の前で嘘はつかん」
「よし、やってみる。場所を空けてくれ」
男は広間の中央に立ち、皆はそれを離れて囲むようにして立った。
「三田さん、無理しないで」
由美の声は震えていた。
「大丈夫。心配いりません」
「でも……」
男は自分の後ろを見てどれくらい空いているか確かめると、少し腰を回した。
「カメラが回っているからって、緊張するなよ」
伊東は精一杯トゲのある声を出した。男は少し笑って答えた。
「照明もあった方がいいくらいだ」
皆が見守る中、男は少し身をかがめると、勢いをつけて体を反らせた。一回、二回。男の体は後ろへ二回回った。
「きゃあ、すてき!」
思わず声をあげた隆を、伊東がにらみつけて黙らせた。
「あーあ、できちゃった」
亜美は大きな声で言った。
「残念だなあ、せっかくここの女将になれると思ってたのに。ごめんね、パパ」
そう言いながら亜美が伊東の肩に両手を置くと、伊東は顔を引きつらせ、
「ごめんねって、亜美、お前、こんなことで……」
男は無言で伊東の手から契約書をひったくり、粉々に破り捨てた。そして、
「約束は守ってくれ」
とだけ言うと、奥の出口から出ていった。
亜美はそれを見送り、
「残念だったなあ」
と言いながら、フロント側の出口から出てく。隆がその後を追った。残された伊東は、引き裂かれた契約書と、ビデオカメラを交互に見比べるばかりだった。
自分の部屋に戻った男は、荷物をバッグに詰めていた。
「三田さん」
由美が入ってきた。
「ありがとう。助かったわ」
男は無言のまま荷造りを続けた。
「まさか、出て行くんじゃ……」
「お世話になりました」
「どうして。恩人なのに」
「女将さんは、俺が誰だか知ってますよね」
由美は頷いた。
「最初は、名前が違うから他人の空似だと思ったけど、よく考えたら、みんなの名前を合わせてあったのね」
「俺は、俺のことを知っている人がいないところに行きたいんです」
「でも、そんなこと言ったって」
「そんな土地はどこにもないかもしれない。でも、俺はそういう土地を探しているんです」
「そうだったの。ごめんなさいね。でも私、誰にも言わない。きっと、気がついているのは私だけよ」
「いや、ほかにもいますよ。女将さんのお友達の……」
「亜美ちゃん……。そうか、そうだったのね。亜美ちゃんから聞いたかもしれないけど、五年前に、二人で一緒に横浜に行ったのよ。あの時のコンサートに。たった一人の時の……」
男はバッグを手にして立ち上がり、
「一人じゃなかったんです。俺の心の中にはみんないました」
と言うと、
「お世話になりました」
と頭を下げた。
駅に着くと、すっかり日は暮れていた。空は暗く、雨が降り出しそうだった。
切符を買い、改札に向かって歩いていると、後ろから声をかけられた。
「坂本さん」
男は立ち止まって振り向いた。
「由美ちゃんが教えてくれたの。間に合ってよかった」
亜美は肩で大きく息をしている。
「ホテルを助けるためにあんなことを?」
亜美は頷いた。
「あれでも精一杯考えたのよ。坂本さんならきっとできると思ったから」
「五年ぶりだから不安だったよ」
「でも、きれいにできたわ。私、うれしかった」
男は照れくさそうに少し笑った。
「行かないで。この町にいて。私きっと、幸せにしてあげられる」
男は首を振った。
「俺一人だけ幸せになるわけにはいかないんだ」
亜美の目から涙がひとしずくこぼれ、頬をつたって落ちた。
男は亜美に背を向け、歩き出した。その背中に向かって、亜美は言った。
「わたし……、ううん、わたしたちみんな、まーくんが幸せになるように祈ってるわ」
立ち止まったが振り向かずに男は答えた。
「ありがとう」
そして改札を抜け、亜美に見送られながらホームへと向かった。
列車が動き出した時には、雨が降り始めていた。
窓ガラスを斜めに落ちていく雨の跡が、あの日のバスの窓に同じように斜めに走っていた雨の跡に重なった。
コンサートの翌日。いつもの移動用バス。
構成はあれでよかったろうか、次のMCの話題はどうしようか。いつものように考え込んでいた。
そしてほかのメンバーも、いつも通りだった。一人はいつものように口を開けて眠りこけ、一人はそれを起こそうとしていた。
「こら、起きろ。俺が歌うからハモれ」
「だめだよこれ、もう爆睡してるよ」
「ようし、何か食わしちゃえ」
「ねえねえ、何書いてんの」
「見るなよ、こら」
「しかし、ほんとに何語かわかんない字だね」
「悪かったな」
「うわあ、こっちの崖、すごいよ」
最初は一番距離があったあいつがそんな声をあげたので、窓の外を見ると、バスは切り立った崖の上を走っていた。
「こんなとこから落ちたらたまんないね」
「百キロマラソンの次は、崖から落ちるのに挑戦してみたら」
「冗談じゃないよ。死んじゃうよ。そうだ、体当たり戦士にやらせようよ」
バスはカーブにかかり速度を落とした。
その時――。
ドーンと大きな音がして、体が座席に押しつけられた。バリバリッと、バスがガードレールを突き破る音がして、ゆっくり傾き始めた。落ちる。落ちる……。すべてがスローモーションのように見えた。
そして……。
気がつくと病院のベッドの上にいた。わきには東京から駆けつけた事務所の職員がいた。その職員は泣いていた。
「みんなは?」
職員は泣きながら首を振った。そして、ぼんやりした頭で、トレーラーに追突されたことを聞かされた。
動けるようになって最初にしたのは、メンバーの実家を一軒一軒回ることだった。ただ一人生き残ったことを責める家族はいなかったが、それもつらかった。
そして、横浜アリーナのステージ。等身大のパネルを五つ並べたさよならコンサート。いつもの位置に立ち、歌い、踊ろうとしたが、涙で歌うことはできなかった。
客席も最初から泣いていた。男が歌えない分、みんなで泣きながら歌っていた。
あれから五年……。
窓の外は闇に包まれ、ところどころに漁船らしい明かりが見えた。一時間も走れば、列車は海底を通るトンネルに入る。
どんなに長いトンネルにも必ず出口はある。しかし俺の人生には……。
男は、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。その顔に、次々にあの五人の笑顔が重なって見えた。
(終わり)
実は、最初に書こうと思っていたのは、「自転車に乗った渡り鳥」だったのです。私は日活アクション、特に小林旭のものが好きなので、それをもとに予告編をつくったわけです。
7月に北海道へ行ったのですが、その直前にBSで渡り鳥シリーズの放送がありました。シリーズ第1作の、函館を舞台にした「ギターを持った渡り鳥」を見てすぐ旅行に行き、最終作の「渡り鳥北へ帰る」の舞台も函館だったし、せっかく北海道へ来たのだからなんとか書いてみようと考えているうちに、「渡り鳥」の世界は現代を舞台とした小説では成り立たないという思いが強くなり、かわりにこういう話になってしまった、という、曲折を経た結果がこの小説です。
タイトルに、「渡り鳥」を入れたかったのですが、いいのが浮かばず、渡り鳥と並ぶ流れ者(これも小林旭のシリーズ映画)から借りました。
なお、中編で男が隆に言う、「思い出すっていうのは、忘れているからだろう。云々」というせりふは、「ギターを持った渡り鳥」で小林旭が浅丘ルリ子に言うせりふの借用です。
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