夏の流れ者

(前編)

 改札を出て、駅前のロータリーが見えるところまで来ると、小雨が降っていた。梅雨はないと聞いていたが、雨は降るらしい。
 男はしばらくの間空を見上げながら考えていた。濡れてもかまわないから市電の停車場まで行くか、それとも止むのを待つか。そして、あの日も雨が降っていたことを思い浮かべていた。
 じっと立ちつくし、空を見上げていると、右側から、
「いいじゃねえかよ」
という声が聞こえた。横目で見ると、四、五人の、髪を茶色に染めた若い男が一人の女を取り囲んでいる。
「俺たちと遊ぼうよ」
 囲まれている女は、キッとにらみ回し、
「馬鹿にするんじゃないわよ」
と言ったが、若い男たちはひるまない。輪をせばめていく。
 少し迷ったが、男は声をかけた。
「やめろよ、嫌がってるじゃないか」
 茶色の髪の男たちも、囲まれた女も男を見た。男は顔の右側だけを見せ、横目でにらみつけた。
「何だよてめえ」
「関係ねえだろ」
 茶髪たちが近づいてきたので、男はそちらへ向き直った。その顔を見て、男たちも女も息を飲んだ。
「確かに関係はないが、黙って見ているわけにもいかないだろう」
 男がそう言うと、茶髪たちは一歩下がった。
「どうする」
 男がそう言って一歩踏み出すと、茶髪たちは顔を見合わせ、頷き合うと、走って逃げていった。
 残された女は、男の顔をじっと見て、
「ありがとうございました」
と頭を下げた。
「いや、どうってことない」
「あの……」
 女が何か言おうとした時、男は、
「おっ、電車が来た」
と言って、小雨の中、市電の停車場へ走り出した。

 市電を終点で降りたときには雨は止んでいた。
 地図を頼りに川沿いの道を歩いていくと、目的の建物はすぐに見つかった。
 「ホテルにしかわ」と、看板が出ている。建物は小ぶりで、広い庭を売り物にしているらしい。
 男は裏に回ると、厨房の出入り口を見つけて中に入り、声をかけた。
「ごめんください」
「あいよ」
 すぐに返事があって、小柄ではあるが痩せてはいない男が出てきたが、男の顔を見て、顔に緊張の色を走らせた。男は頭を下げ、
「紹介されて参りました。三田と申します」
「み、三田さんですか……。ちょっとお待ちを」
 小柄な男はすぐに引っ込んだ。奥から話し声が聞こえる。
「どうした、哲」
「なんか、やばいっすよ、板長。これもんかも……」
「ばか、そんなでかい声で、聞こえるじゃねえか。俺が会ってみる」
 すぐに、白髪混じりの男が出てきた。
「あんたが三田さんかい」
「はい。三田快博です。」
 男は頭を下げた。
「話は聞いてるよ。まあ、入りな」
 板長と呼ばれた男に招き入れられ、男は中に入った。さっきの小柄な男がこちらの様子をうかがっている。
「おい、哲。こっち来い」
「は、はい」
 哲と呼ばれた男はこわごわ出てきた。板長はその頭に軽くげんこつを振る舞い、男に向かって、
「こいつは哲朗っていうんだが、おっちょこちょいでな。いろいろ気にさわることを言うかもしれねえが、勘弁してやってくれ。おい、哲、こちらは今日からこの板場にはいる三田さんだ。前に話はしておいたじゃねえか」
「そ、そう言われれば。どうもすんません」
 哲朗は頭を下げ、男も、
「いや、驚くのも無理はありません。何しろ新米なもんで、下働きと思って使ってやってください」
と頭を下げた。
 板長は、
「じゃ、旦那の所に挨拶に行こう。哲、おめえは仕込みの続きをやっといてくれ」

 ホテルの主人は痩せて小柄な男だった。男の顔を見ただけで腰が引けてしまい、板長と男の顔を見比べている。
「旦那、これが前に話しておいた新しい板前です」
「三田です。よろしくお願いします」
「よ、よろしく」
 主人はやっとのことでそう言うと、板長に、
「でも、お父さん……」
と声をかけた。
「職場では板長と呼んでください」
「板長……」
と言って男の顔を見る。男は苦笑し、
「申し訳ありません。交通事故に遭いまして、こんなふうになってしまいました」
と傷のわけを説明した。
 板長は、主人に向かって、
「客の前に出る訳じゃないし、仕事さえしっかりしてくれりゃあ、かまわんでしょう」
と言った。
「そ、そうだけど……」
 主人がおびえた表情で男を見たとき、女の声がした。
「あら、さっきの」
 振り向くと、そこには駅前であった女が立っていた。女はうれしそうに駆け寄り、
「お客さんだったんですか」
と声をかけた。
 男が答える前に主人が尋ねた。
「何で知ってるんだよ、由美」
「駅前でからまれてた時、助けてくれたの」
「ほう」
 板長は感心したように男を見て、読みと呼ばれた女に、
「これは新しい板前なんだ。前に話したろ」
と言った。
「そうだったの。よかった、頼もしそうな人で」
「頼もしいって、お前……」
 由美は主人に向かって強い口調で言った。
「絶対うちで雇ってね。いいでしょう、貴教さん」
「う、うん……」
 貴教と呼ばれた主人は気弱そうに頷いた。
 女は今度は板長に向かい、
「面倒見てあげてね、お父さん」
と言ったが、板長は、
「ここでは板長と呼べと言ってるだろう」
とだけ言った。

 その日はそれから従業員に引き合わされ、夕食の用意を手伝った。
 板長が腕の確かな板前であることはすぐに分かった。哲朗の方は、悪い人間ではなさそうだったが、手よりも口がよく動く男で板長に怒られてばかりいた。
 夕食後、洗い物が終わり、翌日の下ごしらえが済むと、男は勧められて、一人で温泉に入った。
 客が入る時間は終わっており、薄暗い浴室には誰もいない。
 体を洗うために蛇口の前に座ると、鏡に顔が映った。男の左頬には、こめかみから顎にかけて大きな傷跡が走っていた。
 男はその傷跡にそっと触れてみた。あの時、包帯を取って鏡を見たときも、傷跡が残ることを知ったときも、こんなものはどうでもよかった。なぜ俺だけが……。その思いばかりが心の中にあった。それは今でも変わらない。

 翌日からは、前の職場と同じ日常が始まった。
 早朝から朝食の準備、後片づけ。夕食のための買い出し。少し休憩して下ごしらえ。夕方から調理。
 板長と哲朗が男の腕前を見極めようとしているのはよくわかった。しかし男は、できないことはできないと言い、無理はしなかった。
 三日目の午後、男が一人で下ごしらえをしていると、主人と板長が話している声が聞こえた。
「どう、新しい人」
「まだ五年目だってことですが、まじめにやってます」
「腕の方は」
「まあまあです。哲と一緒に買い出しに行かせたんですが、哲の話じゃ、魚を見る目は今一つですが、野菜を見る目はあるようです」

 その日の夜、翌日の朝食の下ごしらえが終わり、板長が、
「あがっていいぞ」
と声をかけると、哲朗が寄ってきた。
「お疲れ。どう、飲みに行かないか。歓迎のしるしにおごるよ」
「いいんですか」
「いいともいいとも、まかしておきなって」

 哲朗が男を連れていったのは裏通りのスナックだった。歩いてみると、有名な観光地だというのに、裏通りだけでなく、川沿いの表通りも夜の人通りは少ない。
 哲朗は、「カラオケスナック・パパパパ」と書かれたドアを開け、男を中に入れると、
「来たよー、亜美ちゃん」
と、カウンターの中に声をかけた。カウンターの中にいた女は、
「あら、哲っちゃん、いらっしゃい」
と言ってこちらを見たが、男の顔を見て目を見張った。哲朗はそれにかまわず、
「あ、これ、うちの新入り。今日は俺一人で歓迎会。俺って気が利くだろう」
と言いながらカウンター席に腰を下ろし、男に向かって、自分の隣の席をたたいて見せた。男は黙ってそこに座った。ほかの客はいない。
 亜美と呼ばれた女は、おしぼりを出すと男の顔をじっと見た。男はそれに気づかぬ振りをしていたが、哲朗は、
「そんなにじろじろ見るなよ。交通事故にあったんだって。ほら、ボトル出して」
「あら、ごめんなさい」
 亜美は笑顔を見せて棚からボトルを出すと哲朗の前に置いた。
「そちらの方も水割り?」
 聞かれた男は黙って頷いた。
「でも……」
 亜美は氷をグラスに入れながら言った。
「もしかして、焼酎なんかも好きなんじゃないんですか」
 男はじっと亜美を見た。
「どうして……」
「こんな仕事してると、何となく分かるの。はい」
 亜美が水割りのグラスを二つ置くと、
「あーら、いらっしゃい」
と、奥から若い男が出てきた。それへ哲朗が声をかけた。
「何だ、藤井ちゃん、いたのか」
「いるわよ、従業員だもの。あら、そちらの方、初めてかしら」
「ああ、うちの新入りなんだ」
 藤井と呼ばれた男は臆することなく男の隣に座った。
「よろしく。隆って呼んでね」
 男は黙って頭を下げ、哲朗を見た。哲朗はにやりと笑うと、口の横で手のひらを外に向けて手を立てて見せた。
「あたしもいただいていいかしら」
 隆と名乗った男が言うと、哲朗は気前よく言った。
「いいともいいとも。飲みなよ、隆」
「何よ、哲っちゃんなんかに呼び捨てにされる覚えはないわよ」
「なんだよそれ。俺の酒飲むんじゃないか」
「ケチケチしないの」
 隆は勝手に水割りを作ると、男に向かってグラスをさしだし、
「乾杯しましょ」
と言った。
 仕方なく男もグラスを持ち上げ、軽く触れあわせた。隆はじっと男の顔を見ながらグラスを傾ける。
「酔っぱらっちゃだめよ」
 亜美が声をかけた。
「お客さんが来たら困るから」
「来たら困るって、来たことないじゃない。たまに来ても、哲っちゃんみたいな亜美さんねらいのスケベおやじばっかり」
「スケベおやじはないだろう」
 隆はそれには構わず、
「わたしの心を揺さぶるようなお客さんは初めてよ」
と言い、また男の顔を見つめながらグラスを傾けた。男は目をそらし、黙ってグラスを口に運んだ。
 哲朗はうれしそうに笑うと、
「そっちは二人でうまくやってくれ」
と言い、亜美に、
「どう、景気は」
と声をかけた。
「見ればわかるじゃない。哲っちゃんとこはどうなのよ」
「うちだって同じだよ。小さいから団体は入れられないし、かといって老舗の格式は落とせないし……。せめて、若旦那がもうちょっとしっかりしてくれてりゃなあ」
「あら、そんなこと言っていいの」
「そりゃあ、よくないけど。女将さんも大変だと思うよ」
「そうよねえ。由美ちゃんも苦労してるんだろうな。ま、自業自得だけどね」
「またそんなこと言って。うちのホテルがつぶれないのは板長と女将さんのおかげだよ。あの親子がしっかりしてるからどうにか持ってるようなもんだ」
 板長という言葉を聞いて、隆が哲朗の方に身を乗り出した。
「板長さん、お元気」
「ああ、元気だよ。板長が元気でなくちゃつぶれちゃうよ」
「板長さんって、いい男よねえ。今度連れてきてよ」
「ここには来ないだろう。俺だって、ここに飲みに来てることがばれたら、どやされちまうよ」
と言うと、哲朗は男に向かい、
「この店のことは内緒だぜ」
と言った。男が理由を聞く前に、隆が口を開いた。
「板長さんって、たしか辰夫っていう名前よねえ。ああ、一度辰夫さんの胸で泣いてみたいわ」
 そう言って一人で恥ずかしそうに身をくねらせている。
 亜美はそれを見て吹き出し、男に向かって、
「気にしないでね。こういう人なの。よかったら、何か歌って」
と言った。
「歌はちょっと……」
 男がそう言うと、哲朗が横から、
「じゃあ、俺が歌おうか」
と言ったが、亜美は、
「哲っちゃんにだけは歌って欲しくない」
と言って後ろを向き、洗い物を始めた。
 哲朗はちょっとふくれたが、グラスの中身をぐっと飲み干すと、自分で水割りを作り、男に話しかけた。
「あんたも見てりゃ、わかるだろ。板長の娘さんが若旦那と一緒になって女将さんになってくれたからどうにかやっていけてるんだ」
「そうなんですか」
 それだけ言って男はグラスを傾けた。
「若旦那はもう、ちゃらちゃらしてるばっかりで……」
 哲朗の愚痴の腰を折り、男は言った。
「でも、板長さんはずごい人ですよね」
「うん、すごい。あの人はすごい。俺はずっとあの人についていくつもりだよ。この町に腰を落ち着けて、亜美ちゃんと一緒になって」
「絶対やだ!」
 亜美が振り向いた。
「哲っちゃんとだけは一緒になるのやだ。だいたい、うちのパパが許すわけないじゃない」
「そう言わないでよ。俺だって捨てたもんじゃないよ」
 哲朗の余りにも情けない声に、男は少し笑った。

(続く)


(メインのページへ)

中編へ