第6回

 准一の母が四人分のお茶をいれ、腰を下ろすのを待って、博は話し始めた。
「比良坂の神社の裏にある千引の岩は、土地の人にとってはほんとうに黄泉の国との出入り口をふさいでいる岩なんです。昔の人たちはあの岩の向こうから災いがくると信じていました。いや、いまでも信じている人は多いと思います。人々がその災いに遭わないようにするために存在しているのが坂本家です」
「剛くんの家か」
「そう。坂本家はみんなの代わりに災いを受けることになっている。そういうことはずっと昔からあって、卑弥呼のいた頃にも、海を渡って大陸へ行く時には、持衰(じすい)とか持斎(じさい)とか呼ばれる人を連れていって、航海が無事に済むとあつくもてなし、災難に遭うと、その人の慎み方が足りないせいだと言って殺してしまう、ということがあったそうだ。そこまでさかのぼらなくても、中古か中世のころのことだと思うんだけれど、祭りの日に人を殺し、その人を神として祀ることがあったらしいんだ。それに選ばれた人は、祭りのずっと前から、目印として片目をつぶされたり、片足を折られたりしたそうだ。その名残が一つ目小僧や一本足のお化けだと言う話がある」
「一つ目小僧と剛くんとどういう関係があんねん」
「つまり、殺される人は神になるわけだけれど、目をつぶされることには、ほかの人々の災いを一身に引き受けるという意味もある。みんなの犠牲になるわけだ。准一くんが読んだヤマトタケルの話に出てくる弟橘(おとたちばな)も、自分が犠牲になって災いを引き受けることでほかの人を救ったわけだ」
「剛くんちは犠牲になるためにあるんか」
「そういうことになる。そのかわり、そうやって目をつぶされたりする人は、ゆくゆくは神になるわけだから、みんなから尊敬されたり優遇されたりした。坂本家も、町では優遇されている。肥料会社もが坂本家のために作られたんのもそれが理由だ。二人のお兄さんが足を折ったり首を折ったりしたのは、それによって町に降りかかる災難を引き受けている、ということなんだ」
「何やそれ、そんな証拠あるんか」
 准一がいきり立った時、母親が不安そうに口を挟んだ。
「あの……。そんなこと、ほかの人に言わないでくださいね」
「大丈夫です。話はここでするだけです。ただ、自分の出した結論が人を納得させることができるかどうかを知りたいだけですから。准一くんも、ほかの人にこんなこと言わないでくれよ」
「言うわけないやろ。誰も信じんわ」
「それならいい。坂本という名字は、黄泉比良坂の坂本からきているんだろう。黄泉の国から逃げてきた伊耶那岐が、最後に桃を投げつけて追っ手を追い払ったところだ。邪悪なものをくい止める、という意味で坂本を姓にしたんだと思う」
「健くんちはどうなんや。三宅にも意味があるんか」
「それは分からない。みやけというのは朝廷の直轄地のことだ。さらに古くは、朝廷に納める穀物などの貯蔵庫のことを言ったらしい。お祖母ちゃん、何か御存知ありませんか」
 黙って聞いていた祖母は、言葉をかけられ、
「三宅の家は娘を産まなければならんのに、男だけ産んだ」
と言った。博にはその意味が分からなかったが、母親が躊躇しながら教えてくれた。
「三宅さんのところからは、必ず一人は坂本さんの家に嫁にいくことになってたの」
「じゃあ、健くんが女に生まれとったら」
「あの三人兄弟のだれかと結婚したんだろうね」
「坂本さんには、いろいろ災難が降りかかることになってるから、嫁に行く人がなかったんだって。そのままだと坂本の家が絶えてしまうでしょ。それでね、三宅さんが嫁を出す家になったの」
「すると、三宅さんも町では優遇されているわけですか」
 母親は黙って頷いた。
「そうだったのか。神に供える一家をとどめておく、という意味でみやけだったのか」
「俺は信じんで。生まれた家によって人生が決まってたまるもんかい」
「本当にそうかどうかは分からないんだ。ただ、坂本家の人たちも、町の人も信じている、ということは確かだ。剛くんも健くんもこのことは知っているはずだ」
 准一の脳裏に、岩場で剛が言った、「お前には俺たちのことを分かって欲しいんだ」という言葉がよみがえった。
「けど……、そんな……。何で剛くんちと健くんちが選ばれたんや。ずっと前から決まっとったんか」
「たぶん、何かの理由で選ばれただけだろう。名字によって決められたのかもしれないし、逆に、その時から坂本と三宅という姓を名乗ることになったのかもしれない。この町では、遅くとも江戸時代の始めには決まっていたらしい。准一くんの言いたいことは分かる。人類が生まれたときからそうなることが運命づけられていた、なんてことはあり得ないし、生まれる前から人生が決まっているなんてこともあってはならないはずだ。でも、周りの人も自分も信じていると、それが実現してしまう、ということはあるらしい。少し違うけどユングの言う共時性も……」
と言いかけて博はやめた。准一が目をこすっている。涙をこらえているらしい。博はお茶を飲んで喉を潤し、話を続けた。
「できれば、こういう因習はやめさせたかった。希望的観測かもしれないけれど、たぶん、剛くんも健くんも終わりにしたいと思っていたはずだ」
 准一は黙って頷いた。すると、祖母が口を開いた。
「やめてはならん。町の災いを引き受けてもらわねば困る。その代わり、暮らしの面倒はみる。そもそも、三宅の家が娘を産まなかったのが間違いよ」
 准一は祖母をにらんだ。その目は涙に濡れていた。

 翌朝、准一の母親が出勤し、博が出発の用意を整え終えた時、電話が鳴った。准一が出ると、剛からだった。
「いとこの人、どうしてる」
「今日帰るそうや」
「そうか。よかった」
「やっぱ、迷惑やったか」
「そういうわけじゃないんだ。なあ……准一……」
「どないしたん」
「お前も、いとこと一緒に町から出た方がいい。しばらく帰ってくるな」
「剛くん、そんなに怒っとったんか。すまん、かんにんしてや」
「そうじゃないんだ。俺も健も、なんだか胸騒ぎがして……」
「何言うとんねん。元気出し」
「うん……。俺と健のこと、うまく教えてやれなくて、ごめん」
「どっか悪いんか。医者行った方がええんちゃうか」
 剛は電話の向こうで力無く笑ったようだった。
「そうだな。じゃあな」
 電話はそれで切れた。
「どうしたの」
 准一が受話器を握りしめたままなので、博が声をかけた。
「博さん、ごめん。俺、送っていけんわ。一人で行って」
 そう言うと、准一は家を飛び出した。
 後に残された博は、肩をすくめると、大きな荷物を背負って玄関を出た。

 准一はまず坂本家に行ってみたが誰もいなかった。公衆電話で健の家に電話したが、健は出かけていた。後は……。准一は川の方へ自転車を走らせた。川岸の岩場にいるのかもしれない。しかし、そこにも二人の姿はなかった。

 荷物を背負った博がバスを待っていると、昌行がいつもの軽トラックで通りかかった。
「帰るのかい」
 博が隣の市へ向かうバスの乗り場にいたので安心したらしく、昌行から声をかけてきた。
「はい。もうあきらめました」
「そうか。そりゃあよかった」
 そう言って昌行は笑顔を見せた。初めて見る昌行の笑顔は、意外なほど親しみやすいものだった。
「よかったら乗せてってやるよ。どうせ肥料を取りに行くついでだ。その大荷物じゃ、バスの入り口につっかえちまうだろう」
「いいんですか」
「ああ。早いとこ出ていってほしいからな」
 博は喜んで助手席に乗った。
「あんたがどれだけ知ってるのか分からないけど、俺たちのことを人に言うのはやめてくれないか」
 昌行は明るい声で話しかけてきた。
「言ったって、誰も信じませんよ」
「そうだろうな。そうあって欲しいよ。どうせもう終わりだし」
「終わり……」
「ま、いいじゃないか。こっちの方が近道なんだ。ちょっと狭いけど」
 昌行は、バスの通る道から外れ、脇道に入った。機嫌が良さそうなので、博は尋ねてみた。
「あの神社に絵馬がありましたね」
「うん」
「二枚とも丸が三つ描いてありました」
「ああ、描いてあるね」
「たぶん、一枚の方は、伊耶那岐が投げた三つのものか、三個の桃だと思うんです」
「古事記の話か」
「御存知でしょう」
「知ってるよ」
「もう一枚は……。もしかすると坂本家の三兄弟……」
 昌行の顔色が変わったようだった。
「だから、そういうことを穿鑿するなって言ってるんだよ」
「すみません……。どうしても気になって」
 昌行は黙って車を走らせた。

 准一は比良坂神社の鳥居の下を自転車で駆け抜け、石段の前で自転車を放り出すと神社の裏を目指した。鳥居のわきには自転車が二台止めてある。今日はなぜか蝉の声は聞こえない。
 千引の岩の前には剛と健が立っていた。息を切らせた准一が来たのを見て、剛が声をかけた。
「来るな。お前は帰れ」
 准一は、膝に手をつき、肩を大きく上下させながら、怒鳴るように言った。
「何でや。何で俺には何も教えてくれへんのや」
「そういう訳じゃないんだ。うまく説明できないんだよ」
「俺が、剛くんや健くんと生まれが違うからか」
 剛はそれには答えず岩を見上げ、
「もう時間がないんだ」
と言った。健も一緒に見上げている。
「一体何なんや。教えてくれ。坂本の家はみんなの犠牲にならなあかんのか」
「人に聞いたのか」
 剛は岩の方を見たまま言った。
「博さんが、たぶんそうやろ言うとった。健くんもほんとは女に生まれなあかんかったそうやな」
 健はちらっと准一をみたが、すぐに視線を剛に移した。剛は岩を見つめたまま言った。
「上の兄貴は足を折った。次は首をやられた。今度は俺の番なんだ」
「だから一体何が起こるんや」
「この中から」
と、剛は岩を指さした。
「何か出てこようとしている」
「何かって、あの世のお化けか。黄泉の国ってとこの」
「そうだ。それをくい止めないと、みんなに大変な災難がふりかかる」
「どうやってくい止めるんや」
「俺ならこの中に入れるはずなんだ。中に入って出てくる前にくい止める」
「だからどうやって」
「たぶん……食われるんだろう」
 健が剛の手を握った。
「そんなことあるわけないやろ」
 今度は健が准一に向かっていった。
「こないだの伊耶那岐と伊耶那美の話、憶えてるだろ」
「博さんに聞いた話か」
「黄泉の国から逃げてくる途中、山ぶどうと筍を食わせて逃げるよね」
「ああ。そして最後は桃や」
「その時の山ぶどうと竹って、その時からずっと、育っては食われるということを繰り返してるわけだよね」
「何が言いたいんや」
「もし今でも生えてるなら、それは、黄泉醜女たちに食われるためだけに生えてるってことだよね」
「剛くんも同じやと言いたいんか。食われるために生まれてきたと言いたいんか」
「……僕は剛を手助けするするために生まれてきたんだ。……でも、入れない……」
 剛が口を開いた。
「俺も入れない。どうしてなんだろう」
 呼吸が落ち着き、准一は剛の隣に立って岩を見上げた。
「剛くんと健くんは入れるはずなんか」
「健はわからない。少なくとも俺は入れるはずなんだ」
「僕も一緒に行くよ」
 健はそう言って剛を見た。准一は、言われてみると何かがその向こう側にいるような気がしてしばらく岩を見つめていた。
「そうか、二人ではあかんのや。三が重要なんや」
 准一はそう言って剛と健を見た。
「一人でも二人でも行かれんのや。三人やないと」
 剛には准一の言葉が理解できないようだった。怪訝な表情で准一を見る。
「三ちゅう数に意味があるらしいで。三人なら行ける。三人で行こ」
「三人でって」
 剛の言葉に准一はいらだちを覚えた。
「俺たち三人や」
 准一は「たち」に力を込めて言ったが、健は冷たく言った。
「無理だよ。准一は普通の家に生まれたんだから」
「何言うとんのや。ええか、どんな家に生まれたかなんぞ関係ないんや。自分がどう思うかが大事なんや。俺が一緒に行って証明したる」
 そう言うと、准一も剛の手を握った。その時初めて、准一にも、大地が揺れているのが感じられた。
 手をつないだ三人の少年は、寄り添うように立って岩を見上げた。

 昌行は急に車を止めた。顔が真っ青になっている。博が、昌行のただならぬ様子に驚き、
「どうしたんですか。具合が悪いんですか」
と声をかけると、昌行は博の顔を見て、
「何かあったらしい」
と言った。
「何かって」
「悪いけど、降りてくれないか」
「そんな。こんなバスも来ないところで」
「町に戻らなくちゃならなくなったんだ」
「一体どうしたんですか」
 昌行は答えず、少し先の空き地で方向転換をすると道を引き返し始めた。
「バス停まで送る。とにかく町から出て行ってくれ。剛が……」
「剛くんがどうしたんですか」
「説明できない。とにかく何かあったんだ」
「今朝、准一に剛くんから電話がありましたよ」
「何か言ってたか」
「電話の内容は分かりません。准一は電話の後飛び出して行きました。ここまで来たら、全部教えてください。少しは力になれるかもしれません」
 昌行は黙って車を走らせた。やがてバス停のところまで来たが、博を下ろすことなく走り続けた。それが答えのようだった。

 昌行は自分の会社の前にトラックを止めた。すぐに快彦が飛び出してきて、
「剛が……」
と言った。
「いないのか」
「いない。健もいないそうだ」
 博はトラックから降りると、
「電話を借ります」
と言って中に入り、准一の家へ電話をかけた。祖母が出たが、准一は帰っていなかった。
 外に出て、
「准一もいません」
と言ったが、昌行と快彦は黙って博を見ただけだった。しかし、博はかまわずに言葉を続けた。
「心当たりがあります。連れて行ってください」
 昌行は黙ったままわきに止めてあった乗用車の運転席に乗った。快彦は助手席に乗る。昌行は博に向かって頷いて見せた。
 いそいで乗り込んだ博は、まず、昌行と快彦を川岸の岩場に連れて行った。土手から見下ろしても姿はない。大声で呼んでみたが、返事はなかった。
「どこに行ったんだろう、三人で」
 博が言うと、昌行は、
「どうして三人一緒だと分かる」
と言った。
「だって、あの三人は仲がいいようだったし……。三人で……。そうか」
「何を言ってるんだ」
「神社です。比良坂神社へ行ってみましょう」
「剛には、あそこには近づくなと言ってある」
「でも、ほかに心当たりがありますか」
「……ない」

(続く)