第4回

 公民館を出たあと、博は准一を連れて坂本の会社をのぞいてみた。昌行は留守で、弟の快彦だけが机に座っていた。
「こんにちは」
 博が声をかけたが、快彦は黙って目を向けただけだった。
「こちらの坂本さんが、比良坂神社の氏子の総代だとうかがったもので」
「それで」
 快彦はまったく愛想のない声で答えた。
「あの神社のことで何かお話をうかがえないかと思いまして」
「何もないよ」
「そうですか……」
 明らかに快彦は博を警戒しているようだった。しかたなく博はすぐにそこを出た。
 バス停に向かいながら、博は准一にきいてみた。
「快彦さんは交通事故にでもあったのか」
「ええと、何か頭に物をのせていてケガしたとかいうとったな。首の骨がずれたかなんかしたらしいで。死なんかったのが不思議なくらいやったそうや。ケガの多い兄弟でな、上の昌行さんも前に足の骨折ったことがあるんや」
「……そういうことなのか……」
「何がそういうことやねん」
「いや、何でもない」

 バス停で時間を確認すると、次のバスまではだいぶ時間があるので、歩いて帰ることにした。並んで歩いている間、博は考え事をして黙っていた。准一は黙っているのが苦痛らしく、
「黄泉の国の話って外国にもあるんやな。さっき読んだ本に書いてあった」
と話しかけた。
「本……。ああ、あのマンガか」
「マンガでも日本史の本や。黄泉の国の話のあとに、ギリシャ神話にも似てるのがあるって書いてあった」
「オルペウスの話だね」
「さすがよう知っとるなあ」
 それは、オルペウスが亡き妻エウリュディケを冥府に連れ戻しに行き、けっして振り返ってみてはならないというタブーを破ってしまったために、妻を連れ戻すことに失敗する話のことだった。
「やっぱりこの世とあの世は地続きやったんかなあ」
「少なくとも、意識の上ではそうだったろう」
「それから、ヤマトタケルっちゅうのも読んだで」
 どうやら、准一の読んだのは、神話を紹介した部分だったらしい。
「スーパーヒーローみたいなもんかと思うとったら、けっこう情けないな。奥さんを犠牲にして自分だけ助かって」
「弟橘(おとたちばな)の話か。そうだな、あそこは男としては自分で何とかして欲しいところだよな」
 東征に出た倭建(やまとたける)一行が、海が荒れて進めなくなった時に、妻の弟橘比売(おとたちばなひめ)が犠牲として海に入り、それによって波が収まって進むことができたのだ。
「なんか神話っちゅうのは納得できへん話が多いわ。ま、現実の世界にも納得できへん話が多いけどな」
 博は、准一の言い方に苦笑した。

「坂本さんの家と三宅という家はつながりがあるんですか」
 夕食の後、准一が自分の部屋に戻るのを待って、博は思いきって准一の母に尋ねてみた。母親はお茶を入れていたためか、すぐには返事をせず、少し間をおいて答えた。
「そういうことはちょっと……」
「ただプライバシーを知りたいわけではなくて、比良坂神社とどういう関係なのか知りたいんです」
「そうねえ」
 母親が言いよどんだ時、祖母が口を開いた。
「三宅の家はみやけであることが仕事」
「みやけであることって、何かをためておくことですか」
 しかし祖母はそれには答えず、
「いわいびとがおるからこの町には災いがない。坂本の家は町で面倒みよう」
 今度は母親も言うに任せておいたが、
「あんまり真に受けないでね」
とだけ言って席を立ち、食器を洗い始めた。博は祖母に重ねて尋ねた。
「そのことは快彦さんのケガと関係がありますか」
「快彦……誰」
 祖母は名前までは知らなかったらしい。
「坂本家の次男です。首にケガをしています」
「ああ、ケガをするのが仕事だもの。おかげで町は安全。みんな無事で済む」
「いわいびとだからですか」
「そう。坂本の家はいわいびとだもの、暮らしの面倒は町がみなくちゃならないよ」
「三宅の家は、どういう関係があるんですか」
「あそこは娘を産まなければならないのに。男だけ産んで。もうおしまいになってしまう」
「どうして娘を産まなくてはならないんですか」
「だってみやけだもの」
「みやけとはどういう意味ですか」
「みやけはみやけよ」
 准一の母親は背中を向けて洗い物をしていたが、博には、聞き耳を立てているのがはっきりわかった。

 翌日の午前中に、博は一人で公民館へ行った。受付に名刺を出し、町史編纂室の人に話を聞きたいと言うと、簡単に部屋に通してくれた。
 編纂室にはファイルケースが高く積み重ねられており、めがねを掛けた男が一人いるだけだった。男は部屋の隅の簡単な応接セットのソファーに博を座らせ、アルミの急須でお茶を入れてくれた。
 博が、比良坂神社について調べていることを話すと、男は、頭の後ろで手を組んで言った。
「あの神社ですか。まあ、あそこが一番古いようですからね」
「神社に立っている案内板に書いてあること以外に、何か伝説のようなものはありませんか」
「そうねえ。江戸時代に何かあったらしいんだけど」
「何か、とは」
「ほら、裏に岩があるでしょ」
「千引の岩ですね」
「あれが動いて、中から何か出てきたことがあったそうです」
「何か、とは」
「それがわからないんですよ。わたしもね、町史の伝説と昔話の巻を作るのに、いろいろ年寄りに話を聞いて回ったことがあるんですけどね。みんな、あそこのことになるとはっきりしたことは言わないんですよ」
「何か、それを記録した古文書はありませんか」
「それがないんですよね。城下町だったら城の記録か何かあったんでしょうけど。それに、その化け物のことは書き記してはならない、と言われてきたそうで」
「その言い伝えは、伝説としてはどういう意味があるでしょうか」
「それはこっちが聞きたいくらいですよ」
 そこで男は身を乗り出した。
「長野さんは、民俗学が専門なんですよね。わたしはただ大学の史学科を出たって言うだけでこの仕事に回されたもんで、民俗学的な知識はないんですよ。どう思いますか」
 博はそれには答えず、
「あの神社と坂本家というのはどういう関係なんでしょうか」
と尋ねた。とたんに男は警戒するような表情を浮かべ、
「それは、ちょっと……。まあ、個人のプライバシーに関わることですし。単なる迷信のような……」
と言葉を濁した。
「迷信、ですか」
「町史にも載せる価値もないような、どうでもいいことですよ。研究といっても、あまり個人のことについて取り上げるのはよくないんじゃないんですか」
 それ以上は何も聞き出せそうになかった。博は礼を言って部屋を出るとまた図書室へ行った。
 昨日と同じように『古事記』を広げ、昨日の続きをざっと読んでいく。須佐の男(お)の話、大国主の話、山幸と海幸の話と読んでいき、中つ巻に入った。最初は神武の東征だ。次にその死後の話になる。読み進んでいった博は、
「あった」
と、小さな声でつぶやいた。
 博が読んでいたのは、当芸志美美(たぎしみみ)の命(みこと)の変のくだりで、当芸志美美に命をねらわれた兄弟が当芸志美美を殺そうとするが、兄の神八井耳(かむやいみみ)は手足がふるえて殺すことができず、弟の建沼河耳(たけぬなかわみみ)が兄の持っていた武器を取って敵を殺したのだった。

 ここに かむやいみみ
神八井耳
みこと
いろと
たけぬなかわみみ
建沼河耳の命に譲りてまをしたまはく、

は仇をえ殺せず、
が命は既に仇をえ殺せたまひぬ。かれ吾は兄なれども、 かみ
上と
あるべからず。ここを以ちて汝が命、上とまして、天の下
らしめせ。 やつこ
は汝が みこと
たす
扶け、
いはひびと
忌人
となりて仕へまつらむ」
とまをしまたひき。

「いわいびとか……」
 博は立ち上がり、本を書架に戻すと、公民館を後にした。

 公民館を出た博がバスを待っていると、少女が話しかけてきた。昨日図書室にいた少女だ。
「調べものですか」
「え。……ああ」
「わたしもさっき図書室にいたんです」
「そうだったのか。気がつかなかった」
「民俗学って、昔話を集めたりもするんですよね」
「そうだよ。興味あるの」
「わたし、うちのおばあちゃんに小さい頃からいろんな話をしてもらったから、けっこうこの町の昔話も知ってるんですよ」
「そうなんだ……。この町に、一つ目小僧の話はないかな」
「一つ目小僧って、お化けの」
「まあ、たいていお化けだけど。一つ目小僧でなくても、片目か片足の怪物が山に住んでいるというような話でもいいんだ」
「さあ、そういう話は……」
 そこにバスが来た。博が乗り込んで後ろを向くと、少女は乗らずにいる。バスを待っていたわけではないらしく、博に軽く手を振って歩いていってしまった。

 午後。博と准一は川岸の岩場の上にいた。
「あの二人はあんまり話したくないかもしれんで」
「たぶんそうだろう。でも、二人を解放してあげられるかもしれないんだ」
「解放するって、何から解放するんや」
「何というか、因習から」
「因習って何や」
「昔からのしきたりってやつだ。剛くんはお兄さんと同じ会社に就職することが決まってるって言ってたよね」
「ああ、そうや。そう言うとった」
「三宅くんはどうなんだろう」
「健くんは、なんやこの町から出られへんようなこと言うとった。何でやろ。剛くんは健くんに町から出てもええ言うとったのに」
「たぶん、三宅くんは因習にしばられているんだ。剛くんがお兄さんと同じ会社に就職しなくちゃいけないっていうのも因習だ」
「何でそんなことがあるねん」
「それは分からない。もっとも、それを調べ上げるのが研究者の仕事ではあるわけだけど」
「その研究で何かええことあるんか」
「金にはならないさ。でも、人助けはできるかもしれない。この間も言ったけど、歴史を知れば、人を苦しめるような因習はなくせるかもしれないんだ。何もかも昔のままがいいというわけじゃない」
 そこに、自転車の止まる音がした。目を向けると、剛と健が土手を降りてくるのが見えた。降りてくる途中で、剛は博に気付いて、一度立ち止まった。しかし、准一が手招きしたのでそばに来た。
「何だよ、用事って」
 剛の質問に、准一が答えた。
「博さんが、剛くんと健くんに教えて貰いたいことがあるっちゅうことなんや」
 博が、
「比良坂神社のことで聞きたいことがあるんだけど」
と言うと、健は剛の顔を見たが、剛は博の顔を見たまま、
「俺たちは何も知りませんよ。神社なんて興味もないし」
と答えた。
「でも、お兄さんはしょっちゅう行ってるようだね」
「兄貴は兄貴、俺は俺です」
 険悪なムードに、准一は少し慌ててた。
「博さん、あんま変なことは聞かんといて」
 博は准一に向かってほほえんで見せ、
「大丈夫だよ」
と言うと、今度は剛に向かって、
「君たちは、坂本の家と三宅の家に生まれたことで悩んでいることがあるんじゃないかと思うんだ。もしかしたら、力になれるかもしれない」
と言った。
「悩んでなんかいません。仕事を探す必要がなくて助かってますよ」
「でも、君自身が望んでいることなのか」
「……望もうが望むまいが関係ないでしょ」
 博は黙った。健は何か不安を感じているようだった。
「俺も健もこの町で生まれてこの町で育ったんです。この町が好きだからこの町にいる、それでいいじゃないですか」
「君も同じ気持ちなのかい」
 博は健に尋ねた。健はそれには答えず、空を見上げた。
「揺れてる。揺れてるよね、剛」
 剛もまわりを見回して、
「揺れてる」
と言った。しかし博と准一には揺れは全く感じられなかった。
「行こう」
 剛は健の手を引いて歩き出した。健は黙ってそれについていく。
 二人がいなくなると、准一が言った。
「剛くん、あないにむきにならんでもええのに」
「何か隠してるよね」
「こないだは、この町におらなならんようなこと言うとった」
「もう一度比良坂神社に行ってみよう」

 日はだいぶ傾いてきたが、暑さは残っている。博と准一は比良坂神社の中をのぞき込んでいた。
「なぜ二枚なんだろう」
 博は、それぞれ丸が三つ描いてある二枚の絵馬が気になってならなかった。
「念のためやろ。三つでは足らんのでまた三つ足したんや」
「なるほど……」
 その時、宮司が建物から出てきた。
「熱心ですね」
 博は笑顔を向けて、
「ええ、実に興味深い神社ですね。論文が書けるかもしれません」
と言った。宮司はうれしそうに、
「ここも有名になりますか」
と言ったが、博はそれには苦笑するしかなかった。
 階段を降り、博は宮司に尋ねてみた。
「裏の岩のところから、何か出てきたことがあるという話があるそうですね」
 宮司は少し驚いて、
「誰に聞きました」
と言って博の顔をじっと見た。
「いろいろお年寄りの話を聞いて回るのが調査の基本ですから」
「そうですか……。そのことは、わたしもちょっと教えられただけで、詳しいことは知らないんです。記録に残してもならないそうで……。それに、出てきたんだかこちらから入っていったんだかはっきりしないところもあって……」
「今日は、坂本さんはいらっしゃいましたか」
「ええ、先程。何か坂本さんにごようですか」
「あの岩のことをずいぶん気になさっているようですね」
「ああ。それは岩じゃなくて、崖のことでしょう。先週の大雨で、崖が緩んでやしないかと心配しているんです。もしこの神社がつぶれたら、再建するのは大変ですからね。文化財に指定されているわけでもないし」
「そうなんですか。またうかがうことになると思いますが、よろしくお願いします。失礼します」
 そう言って博は境内から外に出た。准一も後に続く。
「あの崖のことなんだけどね」
「ん」
「崖崩れをおこしそうなところに思えるかい」
「そうやなあ。それほど急な所とは思わんかったけど」
「やっぱりそう思うか」
「どないしたん」
「きっと、気になるのは崖じゃなくて、やっぱり岩なんだ。それにしても、丸を三つ描いた絵馬のことは気になるな」
「自分で言うとったやん。三に意味があるって。三匹の子豚とか三人兄弟とか」
「三人兄弟……。もしかして……。そういうことだったのか……?」
「何一人で納得しとんねん」

(続く)