第3回
比良坂神社の境内では、蝉の声だけが博と准一を出迎えた。宮司は出かけているらしい。博は准一と一緒に階段を上り、神社の中をのぞき込んだ。薄暗い室内に、鏡が光っている。博は、両側の壁に掛けた絵馬を見上げた。どちらにも丸が三つだけ描いてある。
「あの丸、何だと思う」
「何やろな。伏せ字ってやつかいな」
「うーん、伏せ字ならバツを描くだろうな。たぶん桃なんだろう」
「桃」
「うん。夕べ思い出したんだけど、伊耶那岐は桃を三つ投げて伊耶那美を追い返したんだ」
「何で三つなんや」
「三という数には意味があるんだ。昔話にはよく三が出てくる。同じことを三回繰り返したり、登場人物が三人兄弟や三人姉妹だったりすることが多い。西洋でも同じだ。三匹のこぶたの話は知ってるだろう」
「偶然やないの」
「とても偶然とは思えないくらい、世界中で共通しているんだ。昔話でも、特に、三枚のお札の話は、お札が三枚あることで助かるんだ。伊耶那岐も、三種類のものを投げて助かったし、共通している」
「はあ、難しそうな話になってきよったな。桃太郎の家来が三匹っちゅうのもそれかいな」
「その通り。桃太郎も同じことを三回繰り返して三匹の家来を手に入れるわけだ」
「それで丸が三つかいな。けど、何で同じものが二枚あるんや」
「それが分からない。一枚は桃の数で、一枚は三種類のものということかもしれない。それが明らかにできれば、論文が書けるかもしれない」
「論文書いてどうすんねん」
「発表して人に読んでもらう」
「で」
「それだけだ」
「金になるんか」
「全くならない」
「どうも学問ちゅうのは俺には向かんな……」
博は苦笑したが、言葉を続けた。
「そこで、だ。准一くんと剛くん健くんとで三人だ。三人一緒というのは、無意識のうちに三という数に合わせているわけだ」
「強引やな。……けど、剛くんが、俺たち、言うた時にはその中に俺は入っておらんかった」
准一はそう言って俯いた。博はそのことには触れず、
「裏に行ってみよう」
と言って裏に向かった。
裏の崖はよく見るとそれほどの高さはなく、傾斜もなだらかだった。千引きの岩は安定しているように見える。
「この向こうにあの世があるんか」
「そういうことになっている」
博は少し崖を登って岩に触れてみた。日が余り当たらないためか、ひんやりしている。博が岩をたたいてみると、後ろから声がした。
「そういうことはやめてください」
驚いて振り向くと、昌行が立っていた。
「土地の人間にとっては特別な岩ですから」
博は、急いで降りると、
「申し訳ありませんでした」
と、素直に謝罪した。准一はだまってぺこりと頭を下げた。
昌行は少しだけ表情をおだやかにすると、近寄ってきた。
「ここが気になりますか」
「はい」
博は、昌行が話しかけてきたのに力を得て言葉を続けた。
「巨岩信仰は各地にありますが、その場合は岩そのものが信仰の対象になっています。しかし、ここの場合、ただこの岩が千引の岩だというだけで、この岩を直接拝むようにはなっていませんね。むしろ、あまり人が来ないようにしているようにさえ思えます」
昌行は博の横に立って岩を見上げ、
「その通りです。土地の者はあまり近寄りません」
「何か、この岩にまつわる伝説があるんでしょうか」
「伝説……そんなものはありません。ただ千引の岩だというだけです。それで充分でしょう」
「例えば、この岩に悪さをしてばちが当たったとか、岩の向こうから何かでてきて……」
「ありません」
昌行は強い調子でそういうと、挨拶もせずに立ち去ろうとしたが、はっとしたように振り向いて岩を見た。
「今、揺れませんでしたか」
昌行はそう言ったが、博も准一も揺れは感じていなかった。博と准一が顔を見合わせたのを見て、昌行は去って行った。
「地震に敏感な人のかな」
博がそう言うと、准一は少し何かを考えるように黙っていたが、それには答えず、そこに植えてある桃を指さして尋ねた。
「何で桃と竹と山ぶどうなんや」
「伊耶那岐(いざなぎ)と伊耶那美(いざなみ)の話は知ってるかい」
「知らん」
「伊耶那岐は男の神様、伊耶那美は女の神様で、この二人の神様が結婚して日本やたくさんの神様を産んだんだ……」
そこで博は、おのころ島のことなど、古事記の話をして聞かせた。
「しかし最初は失敗して蛭子(ひるこ)というのが生まれてしまった。ぐにゃぐにゃした肉のかたまりのようなものだったらしい」
「それはどうなったん」
「それは流してしまった。葦で作った船に乗せて。次には淡島(あわしま)というのが生まれたけれど、これも蛭子と同じだった。これも流してしまった」
「大変やな」
「でも次からは、やり方を改めて、どんどん島や神様を産んでいった。ところが、最後に火の神を産んだ時に、伊耶那美は体を焼かれて死んでしまったんだ。そこで、伊耶那岐は死んだ伊耶那美に会いに黄泉の国へ行ったわけだ」
「この世と地続きやったんか」
「そうなんだ。伊耶那美を連れ戻すために、伊耶那岐は黄泉の国へ行った」
と言うと、博は千引の岩を指さして言った。
「この土地の人はここが入り口だと思っているわけだ……」
伊耶那岐が会いに行くと、伊耶那美は、黄泉の国の神に相談してくるから決して奥へは入ってくるなと言って奥へ行ったが、待ちきれなくなった伊耶那岐は御殿の奥へ入ってしまい、蛆のわいた伊耶那美の体を見て逃げ出してしまう。それを知った伊耶那美は、黄泉醜女(よもつしこめ)に伊耶那岐の後を追わせた。
「逃げる途中、伊耶那岐は、まず、かずらという髪飾りを投げたんだ。すると、それがたちまち山ぶどうになって、醜女がそれを食べている間に距離を稼ぐことができた。でも、すぐに山ぶどうを食い尽くした醜女が追ってきたから、今度は櫛を投げると、たちまち筍が生えてきた」
「今度は筍を食わせたんか」
「その通り。そして最後が桃だ。雷神たちも後を追ってきたんだけれど、黄泉比良坂(よもつひらさか)の所で桃を投げるつけると、みんな逃げ帰って行った」
「桃は食わんかったんか」
「桃には魔除けの力があると思われていたんだ。最後には伊耶那美自身が追いかけてきたから、伊耶那岐は千人で引くような岩で穴を塞いだんだ」
「それがこの岩かいな。これやったら千人もいらんやろ」
「千人というのは具体的な数字じゃなくて、たくさんの人、ということだろうな。それで、ここ比良坂神社は伊耶那美と醜女を祀っているわけだ」
准一は感心して博の話を聞いていたが、桃の木に目をやった時に、その向こうの人影に気付いた。
「剛くん」
木の陰からは剛と健が姿を現した。
「ずっとそこにおったんかいな」
そう言うと、准一は二人を博に紹介した。博が名刺を渡すと、剛はすぐポケットにしまったが、健は、警戒するような目で博と名刺を見比べた。
「博さんは民俗学っちゅうの研究しとるんや。知っとるか、民俗学って」
剛は首を振ったが、健はこう言った。
「民話を集めたり、お祭りを調べたり……」
「あ、よく知ってるね」
博はうれしくなった。
「さすが健くん、大したもんや」
健はためらいながら、博に質問した。
「さっきの話ですけど」
「え」
「伊耶那岐が逃げてくる時の」
「なんや、健くんら聞いとったんか」
健は、准一には黙って頷いて見せ、質問を続けた。
「山ぶどうや竹は、本当は岩の向こうに生えているんですよね」
「そうだね、こうやって外側に生えているのは誰かがこの岩の意味をはっきりさせるために植えたのかもしれないね」
「山ぶどうと竹はそれからどうなったんでしょう」
「それからって」
「伊耶那岐がこっちへ戻ってきた後もずっと黄泉の国に生えているんでしょうか」
「それは考えたことがないな。あるいは生えているのかもしれない」
「生えていると、実がなったり筍が生えたりしたら、醜女に食われるわけですよね」
「そうかもしれないね」
「そうすると、竹や山ぶどうは、ただ食われるためだけに生えているっていうことになりますよね」
「……そうなるね。うーん、考えたことがなかったな」
健はまだ何か言いたそうだったが、剛が健に向かって首を振ると、健は黙った。
剛は、准一に向かって、
「俺がここに来たことは誰にも言わないでくれ」
と言い、博に向かって、
「長野さんも」
と念を押した。
「何でやねん」
「兄貴たちに、絶対にここには来るなって言われてるんだ」
「何でまた」
「危険だから……」
准一と博は崖を見上げた。そんなに崖崩れのおそれがあるのだろうか。准一と博が剛たちの方へ向き直った時、二人はもう背中を向けて歩き出していた。
博は黙ってもう一度岩を見上げた。さっきは感じなかった何かがそこにあるように思えてならなかった。
翌日、朝食を食べ終えると、岡田はまた友達と約束した、と言って出かけようとしたが、母親が引き留めた。
「一体誰と約束したの。高校三年にもなって遊んでばっかりいて」
「誰ってそりゃあ、剛くんと健くんと……」
「またあの二人なの。ほかの友達はいないの」
「ええやん、広く浅くより、狭く深くや。それとも何か、あの二人と付きおうたらあかんのか」
「そんなことないけど」
そこで、祖母が独り言のように言った。
「三宅の家に娘が生まれなかったから、もう終わりだね」
「おばあちゃん」
母親は、また、たしなめるように言い、祖母は黙った。
「何やねん、それ。健くんのうちに女の子が生まれなんだらあかんのか」
「人の家のことをあれこれ言うんじゃないよ。とにかく今日は博さんに勉強を見てもらいなさい。あの二人はどうなるか決まってるんだから、あんたは自分の心配をしなさい」
准一が言葉に詰まったので博が助け船を出した。
「今日は図書館に行こう。僕も調べたいことがあるし」
「この町には図書館なんてしゃれたもんはないで」
「え……」
「公民館に図書室があるでしょ」
母親に言われて思いだしたらしく、准一は、
「あ、そうや。公民館にあるで。そこ行こ」
と言って立ち上がった。
確かに公民館には図書室があった。入り口の案内板を見ると、博にとって役に立ちそうなのは、図書室と町史編纂室だけのようだった。公民館に入ってすぐの所がロビーになっていて、ソファーと飲み物の自動販売機が置いてある。
図書室に入ってみると、開架式の書架と閲覧室が一緒になっており、高校の図書室と同じような作りになっていた。机では、高校生らしい若者が問題集を広げている。
「あー、ここは涼しいわ」
准一は冷房が目当てだったらしい。博は苦笑して、古典文学の書架へ向かった。
「あら、岡田くんもこんな所に来るんだ」
准一は顔見知りの少女に声をかけられた。
「まあな、こう見えても図書室くらい来るで」
「勉強しに来たの」
「いや、付き合いや」
と言って、准一は博の方を見た。少女も博を見て、小声で尋ねた。
「ね、ね。誰、あの人」
「いとこや」
「へー。岡田くんて、徹底して男の人としか一緒にいないのね」
「なんやそれ」
「だって、いつも坂本くんと三宅くんと一緒にいるじゃない。坂本くんと三宅くんが一緒にいるのは何となく分かるけど、どうして岡田くんまでいつも一緒なの」
「あのな」
そこへ、本を持った博が来て、少女の向かい側の席に腰を下ろし、本を読み始めた。少女は博の顔を興味深く見ているが、博は全く気づかない。准一は、少女が博ばかり見ているので、しかたなく自分も書架の前をぶらついてみた。しかし、興味が持てそうなものはなく、とうとう、小学生向けの、マンガの日本史の本を持って来て博の隣に座った。それを見て、少女は吹き出しそうになった。
博が選んだのは『古事記』だった。冒頭の国産みの所を最初から読んでいき、黄泉の国の話の所まで読み進んだ。
ここに伊耶那岐の |
みこと
命、 |
みかしこ
見畏みて逃げ還りたまふ時に、その |
いも
妹 |
伊耶那美の命、 |
と言ひて、すなはち |
よもつしこめ
黄泉醜女 |
を遣はして追はしめき。ここに伊耶那岐の命、 |
くろ みかづら
黒御縵を投げ棄てたまひしかば、すなはち |
えびかづら
蒲 |
の |
み
子 |
な
生 |
りき。こをひりひ |
は
食む間に、 |
逃げ行でますを、なほ追ひしかば、またその右の |
みみづら
御髻に刺させる |
ゆつつま
湯津爪 |
櫛を引き |
か
闕き |
て投げ棄てたまへば、すなはち、 |
たかむな
笋 |
な
生 |
りき。こを抜き食む間に、逃げ行でましき。また |
後にはかの八くさの |
いかづちがみ
雷神 |
に、 |
ち い ほ
千五百 |
の |
よもついくさ
黄泉軍を |
そ
副 |
へて追はしめき。ここに |
みはかし
御佩 |
と つか
の十拳 |
の剣を抜きて、 |
しりへで
後手にふきつつ逃げ来ませるを、なほ追ひて |
よ も つ ひ ら さ か
黄泉比良坂 |
の坂本 |
に至る時に、その坂本なる桃の |
み
子 |
三つをとりて持ち撃ちたまひしかば、 |
ことごと
悉 |
にひき返り |
「坂本……」
博が声をあげたので、准一が尋ねた。
「どないしたん」
「いや……。あの坂本さんて、比良坂神社と深い関係があるんだろうな」
「なんとかの代表やいうとったやん」
「そうだったな……」
|
いやはて
最後にその妹伊耶那美の命、身みづから追ひ来ましき。ここに |
ちびき
千引 |
の |
いは
石をその黄泉 |
比良坂に引き |
さ
塞 |
へて、その石を中に置きて、おのもおのも |
むか
対ひ立ちて、 |
ことど
事戸を渡す時 |
「 |
うつく
愛 |
しき |
あ
我 |
が |
な せ
汝兄 |
の |
みこと
命 |
、かくしたまはば、 |
な
汝 |
ひとくさ
の国の人草 |
、一日に |
ちかしら
千頭 |
くび
絞り |
とのりたまひき。ここに伊耶那岐の命、のりたまはく、 |
「 |
うつく
愛 |
しき |
あ
我 |
が |
なにも
汝妹 |
の |
みこと
命 |
いまし
汝 |
しか
然 |
したまはば、 |
あ
吾 |
は一日に |
ち い ほ
千五百 |
の |
うぶや
産屋 |
を |
博は顔を上げてため息をついた。
「偶然とは思えないな」
「何がや」
「神社と坂本さんのことだ」
「だって関係あるんやろ」
「そうなんだけど……」
博は『古事記』をそのままそこに置くと、辞書類の棚へ行き、古語辞典などをひっくり返し始めた。准一は博の置いていった『古事記』を見てみたが、さっぱり理解できない。少女は、興味深そうに博と准一の話を聞いていたが、博が席を立ったので、准一に声をかけた。
「ねえ、あの人、何をしらべてるの」
「民俗学の研究や言うとった」
「大学生なの」
「大学院生や。院生やで」
「すごいのねえ」
「けど、研究は金にはならんらしい」
「岡田くんみたいに現実的な人が、よく三宅くんたちと一緒にいられるわね」
「なんやそれ」
そこへ博が、大きな古語辞典を持って戻ってきた。再び少女は黙る。
博はしばらくいろいろページをめくっていたが、
「おばあさんは、坂本さんの家のことを、いわいびとって言ってたよね」
「そうやったかな。なんなんやろ」
そこへ少女が口を挟んだ。
「わたしも聞いたことありますよ」
少女は、博と口をきいてみたくてたまらなかったらしい。博が驚くと、准一が、
「同級生や」
と紹介した。少女は続けて、
「家の人が、何か、秘密みたいに言ってました。それに、三宅くんの家は坂本くんの家に関係があって、健くんは女の子に生まれてこなくちゃならなかったんだって。これはみんな言ってます」
「みんなって」
博は少女の話に興味を持って尋ねてみた。
「みんなって、みんなです」
「君たちも」
「はい。だって……」
と言って少女は頬を赤らめ、
「三宅くんて、女の子みたいにかわいいんだもん」
「つきあいきれんわ」
准一はあきれた顔で少女を見た。
(続く)



