第2回

 准一が家に帰ると、博は新聞を読んでいた。博は准一が出かけたときにはまだ寝ていたのだ。
「博さん、今起きたん」
「違うよ、だいぶ前に起きた」
 准一が博の手元を見ると、博は、新聞に折り込まれていたタブロイド紙を読んでいる。
「地方に来ると、こういう独特のミニコミ紙があって面白いね」
「なんやねん、それ」
「読んだことないの」
「テレビ欄とマンガ以外は読まん。あ、スポーツ欄も見るで」
 博は、ミニコミ紙を准一の方へ向け、
「革新系の政党が出してるんだね。町政を批判している」
 興味はなかったが、准一は博がそのタブロイド紙を自分に向けてくれたので、一応形だけでも目を向けてみた。すると、そこに見慣れた文字があったので驚いた。
「あ、これ、剛くんの兄貴の会社や」
「やっぱり、昨日の坂本さんのことか」
「そうや。な、おかん、これ坂本さんやろ」
 准一が紙面を指さすと、昼食の皿を並べていた母親は、ちらっとそれを見て、
「そうだよ。何もそんなこと書かなくたっていいのにね」
と言った。
 准一は、剛にも関わることなので記事に目を通してみた。
 記事によると、坂本の勤めている会社は、社員は剛の二人の兄だけで、肥料を調達する目的で、農協と町が半分ずつ出資して設立されたものらしい。しかし、今では流通機構が充実しているので必要はなく、町は無駄に金を使っている、また、特定の家柄の人間を雇用するようになっているのは問題である、という論調だった。
「そうか、あの家の人間はここに就職することに決まっとったんか」
 母親が、
「剛くんもそこに勤めるんでしょ」
と言うと、准一は、
「そうなんや。今日聞いたら、もう決まっとるそうや」
と言ったが、母親は、
「なんだ、今日まで知らなかったの」
と言った。
 准一は、博に向かって、
「剛くんとこは両親とも亡くなっておらんのや。お兄さんが二人この会社で働いとる。剛くんも就職すれば三人同じ職場や」
と言い、博が、
「ほかにも職員はいるの」
と尋ねると、母親が、
「坂本さんの兄弟だけなんですよ」
と答ええた。
「すると、これに書いてあるように、坂本家のための会社なんですか」
 博がそう尋ねると、母親は黙ったが、今度はそばで聞いていた祖母が口を開いた。
「坂本の家の暮らしはみてやらねばならん。それが昔からのしきたりじゃ。あの家はいわいびと……」
「おばあちゃん」
 准一の母が強い調子でたしなめるように言ったので、祖母は黙った。母親は、博に向かい、曖昧な笑いを浮かべながら、
「古くて小さい町なもんで、いろいろあるんですよ」
と言った。博は、
「古い習慣が残っている方が、研究者としては助かります」
と言うと、今度は、准一に向かって、
「明日から、家庭教師になってやるよ。国語と日本史なら得意だから」
と言った。准一は驚いて、
「そんなんいらん。自分で勉強する」
「博さんに教えて貰いなさい。大学のこととか、よく聞いて早く決めなきゃだめでしょ」
 母親の言葉に、准一は首をすくめた。

 翌日、朝食を済ますと、准一は、友達と約束があると言って釣り道具を持って家を飛び出した。
 准一が向かったのは、自転車で十五分ほどのところにある川の岩場だった。上から覆い被さるように大木の枝が伸びていて日陰になっている。最近は、バスフィッシングがブームなので、川でエサ釣りをする人が少なく、一人になれる場所だった。剛や健を誘って連れてきたこともある。
 自転車を止め、川の方へ降りていくと、岩の上に人影が二つ見えた。剛と健だ。
「何や、二人で来るんなら、俺も誘ってくれたらええのに」
 准一は面白くない気持ちになり、足音を忍ばせ、できるだけ姿を見せないようにして近づいていった。驚かそうと思って二人の声が聞こえるほど近づいたが、剛も健も釣り竿を持っていないのを見て、准一は立ち止まった。
 幸い弱い向かい風なので、風に乗って二人の話が聞き取れる。剛が健をなだめているらしい。
「いいじゃないか。この町から出たって。健は気にしなくていいんだよ」
「でも……」
「町の外にも親戚がいるんだろ」
「よそに行った親戚とは付き合いがないんだ」
「もう、俺たちの家のことは終わりになったんだよ。だから健は男に生まれてきたんだ」
「僕が男に生まれたせいで、母さんはずいぶんいろいろ言われたらしい」
「なんでそうやって全部自分でかぶろうとするんだよ。かぶるのは俺の家の仕事だ」
「ほら、自分だって、自分の血筋に縛られてるじゃないか」
 二人は黙った。しばらくして、准一は我慢できなくなり、声をかけた。
「二人で何やっとんのや」
 しかし二人は驚かなかった。振り向きもせず、静かな声で剛が言った。
「ずっと聞いてたんだろ、准一」
「知っとったんかいな」
「お前の自転車のブレーキの音はすぐ分かる」
 健は黙って川面を見つめていた。

 准一に逃げられた博は、一人で町を歩いていた。博が准一の出迎えを受けたバス停から四つ先のバス停を降りたところが、町の中心部だった。中心部といっても、四階建て以上の建物と言えば、役場と公民館、それに警察署だけで、あとは小さな商店街があるだけだ。民俗学研究会で小さな町ばかりを巡ってきた博にとって、喫茶店がない町は初めてではなかったが、役場には驚くことがあった。観光課がなかったのだ。今まで、どんな小さな町へ行っても、役場へ行けば観光課があり、主な神社仏閣や町の歴史を簡単に紹介したパンフレットなどが置いてあったのだが、ここにはそれがなかった。
「ここにはよその人が来ても面白いようなものはありませんからねえ」
 博が声をかけた職員は、そっけなく答えた。
「それに、あまり、よその人が出入りすることを好まないんですよ。古い町なもんで」
 よその人である博にとってはありがたくない言葉だったが、博は、それだけ古い民俗が保存されている可能性があるのではないかと思った。
 博が町の中心部をぶらぶら歩いていると、すぐに町外れに出てしまった。農協の建物があり、その隣に小さな倉庫のような建物があった。その建物の前で、首にコルセットをした若い男が台車を押している。倉庫から、道路に止めた軽トラックに肥料を運んでいるらしい。
「無理するなよ」
 軽トラックの荷台の男が声をかけた。そちらは見覚えがある顔だった。
 コルセットをした方が肥料の紙袋を持ち上げたが、バランスを崩して落としてしまった。
「俺が一人でやるよ」
 そう言って荷台の男が降りようとした時、博はそばによって声をかけた。
「手伝いましょうか」
 二人は驚いて博を見た。
「昨日、比良坂神社でお目にかかりましたよね」
 博は、荷台にいた男に向かっていった。
「あ、あの時の。確か剛の友達の……」
「岡田准一と一緒にいました。准一のいとこなんです」
 そう言うと、博は袋を抱きかかえ、荷台の坂本に渡した。コルセットの男は不審そうに博を見ている。坂本はその男を指さし、
「弟の快彦です」
と言った。博が、
「長野博です」
と名乗ったが、相手はちょっと頷いて見せただけで、黙って袋を抱え上げた。博はそれを荷台に乗せるのを手伝った。
 台車の荷物がなくなると、快彦は黙って倉庫に消えていった。荷台の坂本は、博に、
「准一くんのところに遊びにきたんですか」
と声をかけたが、どことなく警戒しているような響きがあった。
「民俗学の研究で、調査に来たんです」
「民俗学……伝説とか、昔話とか聞いて歩くんですか」
「はい、そういうこともやります」
「この町にも面白いものがありそうですか」
「来たばかりでまだ分かりません」
 坂本はじっと博を見て、
「よかったら乗りませんか。お礼に送っていきますよ」
と言った。
「でも、お仕事は」
「配達に行く途中ですから」
 博は遠慮なく乗せてもらうことにした。

 准一は剛と健と三人で岩の上に座っていた。准一は釣り糸を垂れてはみたが、釣りに集中する気にはなれない。
「さっき、何の話をしとったん」
 剛はそっけなく答えた。
「聞いてただろ」
「俺が聞いとるの知っとって話とったんか」
「まあな」
 健は剛の顔を見た。しかし、剛はじっと川面を見つめている。剛が黙っているので、健が言った。
「准一はよそから来たから僕たちのことを知らないんだ」
「何やそれ。俺たちって。二人だけ何かあるんか」
 健は黙り、しばらく沈黙が続いた。
「揺れてる」
 突然剛が言った。健が頷く。
「え、地震か」
 准一には揺れは感じられない。剛が言った。
「そのうち俺に……俺たちに何かあるかもしれない。でも、気にするな」
「何やその『俺たち』っちゅうのは。その『たち』には俺は入っとらんのか」
「……入ってない」
「何でや」
 剛はそれには答えなかった。健は立ち上がり、
「行こう、剛」
と言って歩き出した。

 軽トラックの助手席で、博は坂本にもらった名刺を見ていた。坂本昌行という名が記されている。昌行は、前を見たまま、
「長野さんは、こういう町を調べて歩いているんですか」
「はい。この町は古いものがいろいろ残っていそうですね」
「でも、ここにはあまり伝説はありませんよ。お寺も神社も少ないし」
「何かこの町独特の習俗のようなものはありませんか」
「昔はあったんでしょうが……。今はもうありません」
「何かこれを食べてはいけない、というようなタブーの話はありませんか」
「ありませんね。もっと山奥にでも行かないと、収穫はないでしょう。こんな町じゃ……」
 博は思いきって昨日見たミニコミ紙のことを話題にしてみた。
「一方的に批判されて、大変ですね」
「いやあ」
 昌行は苦笑した。
「たしかにもう必要ないのかもしれません。農家そのものが減っているし、わざわざ配達しなくてもみんな車で取りに来ますからね。そろそろやめてもいいでしょう。……こんなこと……。着きましたよ」
 トラックは、岡田の家の前に止まっていた。

 昼食の間、准一が面白くなさそうにしているので、博は話しかけてみた。
「町で、剛くんのお兄さんに会ったよ。あの神社にいた人」
 しかし、准一は黙っている。
「何だ、僕が家庭教師をやるって言ったのが気に入らないのか」
「そないなことやないっ」
 その強い語調に、母親も驚いて准一の顔を見た。
「どうしたの、准一。何かあったの」
「何でもない」
 そう言って茶碗の飯を掻き込むと、准一は席を立ち、自分の部屋に戻った。

 午後から准一の母親は仕事に出かけた。職場はすぐ近くの工場で、准一の祖母のこともあり、昼休みには家に戻って昼食をとっているのだ。
 博は、午後は出かけずに祖母の話を聞いてみることにした。
「おばあちゃん、何か昔話をしてくれませんか」
「はあ、昔話かい」
「はい、おばあちゃんが子供の頃、家の人にしてもらった話なんかないですか」
「そうだねえ、いろいろあったような気がするけど……」
「比良坂神社のことなんか、何か知りませんか」
「あそこのことは、よその人には言ってはならんのです」
「どうしてですか」
「そりゃあ、あんた……。町のためです。あそこのおかげでこの町は空襲にもあわなかったし」
「神様のおかげですか」
「いや、坂本の……」
「坂本さんのことを、いわいびとって言ってましたよね」
「そりゃあいかん。人に言うてはいかん」
「どういう家なんですか」
「ああ、何だか眠くなりました。昼寝させてもらいますよ」
 祖母は障子を開けて出ていってしまった。それを見送った博は、障子の後ろの階段に准一が腰掛けているのに気付いた。
「何だ、そこにいたのか」
 准は昼食の時にも増して不愉快そうな顔をしていた。
「何や、家とか血筋とか、みんなそんなことにばっかりこだわりよって」
「みんなって、どういうことだ」
「みんなはみんなや。俺の知らんところであれこれ言いよって」
「あれこれって……、准一くんのことを?」
「違う。剛くんや健くんも自分らのことを、こういう家に生まれたからどうこう言うとる。うちの婆ちゃんまで剛くんの家のことを何や差別しとるようや。そんなこと調べて面白いんか」
 准一は階段から下りて博をにらんでいる。博は穏やかに説明した。
「世の中には、特定の地域や家柄に生まれたことで差別されている人がいる。それは事実だ。でもね、もとをたどっていけば、そういう人たちは、特別な技能を持った人たちの子孫なんだ。最初は貴重な存在だったのか、いつのまにか差別されるようになってしまったんだ。民俗学の世界では、むしろそういう人たちを尊重している。歴史を知れば、差別が間違っていることがわかるんだ。その、剛くんや健くんたちが差別されているのかい」
 准一はそれを聞いて首を振った。
「そないなことはない」
「じゃあ、さっき言ってた家柄っていうのは」
「それが分からんのや」
 博が、テーブルを隔てた席を指さすと、准一はおとなしくそこに座った。
「何や知らんが、二人とも、生まれたときから人生が決まっとるようなことを言うんや」
「特別な家柄に生まれたということなのか」
「そういうことらしい。でも、みんな差別はしとらん。逆や。なんか、特別扱いっちゅうか……」
「特別扱い」
「そうや。俺が中学んときここに来て、大阪弁をずいぶんからかわれたんや。でも、剛くんがやめろいうたら、ぴたっと止まった」
「剛くんて怖いのか」
 准一は首を横に振った。
「人望があるのかな」
「人望っちゅうか……。なんとなくみんな逆らわんのや。剛くん自身はあまり人と口きかん」
「准一くんとは」
「俺とはしゃべる。あと、健くんとも」
「その二人はいつも一緒にいるの」
「俺もいれて三人いつも一緒や」
「三人か……。どう、暇だったら、もう一度比良坂神社に行ってみないか」

(続く)