第1回

「あっついなあ」
 准一は額の汗を拭って空を見上げた。どうやらバスは少し遅れているらしい。予定の時間になったのに、まだ見えない。
 畑や田んぼの中を真っ直ぐ通っている道で、准一はバスを、いや、バスに乗っているはずのいとこを待っていた。いとこは、隣の市の駅からバスに乗ってここで降りるはずだ。バス停にはほかに人はいない。
 少し離れたところにある小高い山の茂みからは蝉の声が聞こえてくる。絵に描いたような田舎町の夏だ。見回すと、ぐるりと山に囲まれた盆地になっているのが分かる。准一は、小さい頃に過ごした大阪の町中とどちらがよかったか考えてみた。住んでいた時には気づかなかったが、ここに比べればだいぶごみごみしていたような気がする。それに比べ、ここは家も少なく、うるさいということもない。自分には都会よりものんびりした田舎町の方が合っているのかもしれない。
「やっぱ、この町でよかったな」
 そう思った時、バスがこちらへ来るのが見えた。時計を見ると八分の遅れだ。バスが止まると若い男が降りてきた。男は、すぐに准一に気づいて笑顔を向けた。
「やあ、久しぶり」
「いらっしゃい、博さん。何や、よっぽどの田舎と思っとったんやな」
 博は大きなリュックを背負っていた。
「そういうわけじゃないよ。いつもこれぐらい持ってないと不安なんだ」
「こっちや」
 准一は先に立って歩き出した。博がすぐに隣に並ぶ。
「しかし、暑いところだな」
「ほんま。今日は特に暑いで」
「盆地だから暑いんだろうな。何だか、盆地のせいか、独特の雰囲気のある土地だね」
「どんな雰囲気」
「そうだなあ。時間が止まったままっていうか……」
「そうやね、のんびりした町やもん。時間の流れるのが遅いかも」
「こういう土地の方が、研究にはありがたいんだ」
「ゾクガクとか言うとったね」
「民俗学、だよ」
「民俗学って、何を研究すんの」
「何って言われてもね。まあ、日本人というのはどういう生活をしてきたのか、何をどう感じてきたのか、そういうことを研究するんだ」
「ようわからんなあ」
「こっちもうまく説明できないんだよ」
「それを大学院で研究しとるんやろ」
「そうだよ」
「それを研究して、それでどうなるん」
「どうって言われてもなあ。何か結論が出ても、ああなるほどそうだったのか、で終わることが多いね」
「ふーん」
「准一くんは、高三だよね」
「うん」
「卒業したらどうするの」
「まだ、決めとらんのや」
「でも、もう決めないといけない時期だろう」
「そうなんや。あさってから夏休みやのに……。でも、大学行くとなると金もかかるし」
「お母さんは何ていってるの」
「大学は行った方がええ、って。でも、大学行く友達はおらんし、行ってどうなるのかわからんし」
「そうだよね。行ってみないとわからないよね」
「行くとなったら、あんまり金出して貰うわけにはいかんやろから、自分である程度稼がなあかんし。それやったら就職した方が簡単のような気もするんや」
「大学に行くことになれば下宿しなくちゃならないしね。お金はかかるだろう」
「おとうが生きとったら金の心配はなかったかもしらんけど、でもな、そうやったらこの町には来られんかったやろし……」
「この町が気に入ってるんだ」
「うん」

 准一の家に着くと、准一の母が出迎えた。
「あら、博さん。もう一人前の大人ね」
「どうも、お久しぶりです。おばさんたちはお変わりないようですね」
「お父さんたち、お元気」
「はい、おかげさまで」
 准一の母に案内されて座敷に入ると、准一の祖母がいた。
「お久しぶりです」
「ああ、生きてましたか。准一はこんなに大きくなりましたよ」
 博が驚いていると、准一の母が、
「准一の父親と間違えているんです。少しぼけちゃって」
と囁いた。
 准一の父は博の母の弟で、大阪に住んでいた。准一が中一の時に亡くなり、その後、准一の母は准一を連れて故郷のこの町に戻って暮らしていたのだった。
「お昼食べたら、どっか行こか」
 准一が尋ねると、博は答えた。
「うん。できるだけ古い神社がいいな」
「古い神社か……。ばあちゃん、どこが一番古いかな」
「そりゃあ、比良坂(ひらさか)神社よ」
「分かった、そこに行こ」

 比良坂神社は、後ろに山を控え、茂みに囲まれていた。ここも蝉の音はうるさいほどだが、木陰が多いので少しは涼しい。
 博は縁起などを熱心に読み、写真を撮ったりしていたが、全く興味のない准一はあたりを歩き回っていた。
「坂なんぞないのに何で比良坂っていうんやろ」
「比良坂というのは、黄泉(よみ)の国の出口にある坂のことなんだ」
「よみって何やねん」
「あの世、死んだ人の世界だ」
「ここであの世と繋がっとるんか」
「普通、黄泉比良坂(よもつひらさか)は出雲の国にあると言われているんだが……。この縁起には、ここにあると書いてあるな」
「お、誰かおるで」
 准一が指さした方を見ると、宮司が箒を持って出てきたところだった。
 博は近づいていって、
「失礼します。わたくし、民俗学を研究している者ですが、中を見せていただけないでしょうか」
と言うと、名刺を差し出した。宮司は名刺を見て、
「民俗学会会員……。長野さん、ですか。そんなに大したものはありませんが。どうぞご自由にごらんください。正面から入って構いません。写真もどうぞ」
と言って社を指さした。宮司にしては非常に若く、三十前に見える。
 博は礼を言うと、階段を上り、靴を脱いで中に入った。准一も続いて入る。
 中はひんやりとしていて薄暗かった。奥には鏡が光っている。博は壁のスイッチを見つけて照明をつけた。建物は非常に古いらしいが、特にこれと言った装飾が施してあるわけではない。両側の壁の上の方には、奉納された絵馬らしいものが一枚ずつ掛けてある。しかし、図柄はどちらも丸が三つ描いてあるだけだった。博の目を引いたのは、鏡の前に供えてあるものだった。
 一つは櫛であることはすぐに分かったが、一つは緑の木の葉で、もう一つは植物の蔓で作った装身具のように見えた。
「何の葉っぱやろ」
と言って准一が無造作に手を出したので、博は慌ててその手を押さえた。その時、後ろから、宮司の声がした。
「桃の葉です」
 博はそれに頷いて、蔓を編んだものを指さし、
「なるほど、そうすると、これはかずらですね」
と言った。
「そうです。よく御存知ですね」
「かずらって何やねん」
「髪飾りのようなものだ。この三つで抑えているわけだ」
 博はそう言うと照明を消し、外に出た。宮司は感心したらしく、
「その通りなんですよ。何しろ伊耶那美命(いざなみのみこと)を祀っていますからね」
 博は質問してみた。
「祀っているのは、伊耶那美命だけですか」
 宮司は少し思案したようだったが、興味を持って聞いてくれる相手がいるのがうれしいらしく、
「あまり人に話してはいけないらしいんですが、黄泉醜女(よもつしこめ)も祀っているんですよ」
「ほう、それは珍しいですね。伊耶那美命はよくありますが」
「そうなんです。これは本社でも余り知っている人はいないそうです」
「本社?」
「ええ、ここは小さな神社で、これだけではやっていけないんで、隣の市の大社から交代で宮司が派遣されて来るんです。私も去年の春に来たばかりで、来年には本社に戻ります」
 退屈していた准一がそこで口を挟んだ。
「桃の木があるんですか」
 宮司は笑って、
「裏にあります。ご案内しましょう」
と言うと、先に立って歩き出した。
 社の裏には、桃の木が一本あった。准一は一つぐらいなっていないかと、木の枝を調べ始めた。宮司はそれを見て、
「どうしたことか、今年は一つもならないんですよ。去年はなったし、毎年なっているらしいんですけどね」
と言った。それを聞いた岡田が、
「その桃食えるんですか」
と言うと、宮司は笑って、
「去年なったのを食べてみましたが、売ってるような改良された品種とは違って、硬くて食べられません」
と言った。それを聞いて、准一はとたんに桃への興味が失せたようだった。
 さらにその奥は崖になっており、一人の若い男が崖を見上げていた。
 宮司は顔見知りらしく、声をかけた。
「坂本さん、どうしました」
 男は長野を一瞥すると、宮司に向かって、
「いや、ちょっと崖が気になったもので」
「この間の雨で緩んだかもしれませんね」
「ええ……。とりあえずは大丈夫のようです。では」
 そう言うと、坂本と呼ばれた男は長野に会釈して横を通り過ぎた。准一は男の顔を見て、
「あ、こんにちは」
と声をかけた。男は准一がいるのが意外だったらしく、じっと准一を見て、それから頷くと、最後にまた岩に目をやり、立ち去っていった。
 准一は博のそばへ行き、
「同級生の兄貴や」
と言った。宮司は、准一が男を知っていたことで安心したらしい。
「坂本さんは、この神社の氏子の総代なんです。若いのに熱心にお参りされます。この崖のことも気にかけてくださって、しょっちゅう様子を見にいらっしゃるんですよ」
 そう言われて崖を見ると、中央には大きな岩があった。
「これが千引(ちびき)の岩、というわけですか」
 博が言うと、宮司はますます感心したらしく、
「その通りなんです。いやあ、分かってくださる方がいるとほんとうにうれしいですよ。子供に話して聞かせてもあまり興味を持ってくれないし。ほら、この崖のまわりに植えてあるのは桃だけじゃないんですよ」
 宮司は、博にどれだけの知識があるのか試すつもりもあるらしく、植物の名は言わなかった。一つが竹であることはすぐに分かった。もう一つは、棚を作って絡ませてある植物のことだった。
「何やろ、これ」
 准一は、棚の下に立って、蔓を絡ませている植物を見上げた。
「山ぶどうだ」
 博が言うと、宮司は手をたたいた。
「いやあ、うれしいなあ。皆さんがそうやって興味を持ってくだされば、これだけ由緒のある神社なんですから、独立しても経営が成り立つんじゃないんですかねえ」
 経営という言葉に博は苦笑したが、宮司は気づかないようだった。
 神社からの帰り道、鳥居の下をくぐりながら准一が尋ねた。
「ここの伊耶那美っちゅう神様は何ぞ御利益あるんかいな」
「うーん、御利益目当てじゃなくて、祟りをなす神を鎮めるのが目的のように見えるな」
「祟り。恐ろしいな。剛くんの兄貴は、何でこんな神社にしょっちゅう来るんやろ」
「剛くんの兄貴……さっきの人か」
「そうや、坂本さんや。神主もあの人のことはえらい丁寧な言葉でしゃべっとったな」
「大事な氏子だからだろう」
「そうか。でも、あの兄弟には、なんかみんな丁寧な口をきくんや」
「ほう」
「で、氏子って何や」
 博は苦笑して、教えてやった。
「氏神っていって、その土地の者を守る神様がいるわけだ。それで、同じ氏神を祀る人のことを氏子と言うんだ。お寺で言えば、檀家のようなものだ」
「それなら、ここの土地を守っとんのはあの伊耶那美って神様なのかいな」
「そういうことになるな」
「けど、ここは伊耶那美が祟りをせんように祀っとんのやろ」
「そうだね。そう言われてみれば不思議だな」

 翌日、准一は終業式のために高校へ行った。短い終業式が終わり、恒例の大掃除をして、教室で担任から通知票などを貰うと、後は帰るばかりとなったが、准一と坂本剛は教室にいた。一緒に帰ろうと思っていた三宅健が担任に呼ばれていたのだ。
 窓の所に立つと、町のはずれの高台にある校舎から、町を見下ろすことができる。町の中心部以外は水田が広がっている。
「きれいやなあ」
 准一がつぶやいたとき、健が入ってきた。
「何の用だった」
 剛が聞くと健が答えた。
「大学に行かないのかって」
 准一はくるりと振り向いて、
「何や、俺にはそんなこと言うてくれんのに。ま、健くんと俺とじゃ成績が違いすぎるけどな」
 剛はすぐに鞄を持って立ち上がった。准一もすぐにそれに続き、三人で教室を出た。
 校門を出ると、剛が言った。
「健は大学に行かないのか」
「この町にいるよ。剛もそうだろ」
「俺はそう決まってるからな……」
 それを聞いた准一が、
「何や、もう就職決まっとんのか」
と言うと、剛は苦笑して、
「准一は知らなかったのか。兄貴たちと同じ会社に入ることになってるんだよ」
「そうやったんか」
「准一はどうするんだよ」
と、健が聞いた。
「俺か。どうすればいいのか自分でもわからん。健くんは? どうして大学行かへんの。勉強できるのに」
「行かない。この町に大学があれば別だけど」
「町から出たくないんか」
「そういうわけじゃない……」
 剛が口を挟んだ。
「健は出てもいいんだよ」
 健は首を振った。
「そういうわけにはいかない」
「いいんだって」
「我慢してこの町にいるって言ってるんじゃないんだ」
 そう剛に言った健の、思いがけない強い調子に、准一は驚いた。
「どないしたん。何ぞあったんか」
「ごめん。じゃ、また」
 そう言うと、健は脇道に消えていった。それを見送り、剛と准一は肩を並べて歩き出した。
「進路のことでは、みんな悩んどるんやな」
「まあな」
「でも、剛くんみたいに決まっとったら安心やろ」
「決まってるから悩むことだってあるんだぜ」
 そういうと、少し剛は寂しそうに笑った。

(続く)