第8回

 冬の街。
 そろそろクリスマスが近い。街のイルミも華やかになってきた。
 そんな中を井ノ原と剛が楽しそうに話しながら歩いている。
 だがふと、街角のトイショップの前で剛が足を止める。
 華やかに飾り付けられた高価なおもちゃやぬいぐるみたち。その隅っこに、小さなピエロが忘れられたようにすわらされている。剛がしばらくそんなピエロに見入っていると、井ノ原がうしろから声をかけてきた。
 「そうだ。……剛くん、今度俺んちに遊びに来ない」
 剛はふりむく。ショーウインドウの隅のピエロがカタンと首を傾げた。
 「井ノ原さんちに?」
 「そう」
 「俺、早く剛くんが俺んちにいるのが見てみたいんだよね」
 自分でそう言って、井ノ原は変なことを言ったかと、あわてたように言い足した。
 「あ、ほら、なんかあるじゃない、そういうの。うちは家政婦さんとかのぞけば俺と親父ふたりきりだし、剛くんがうちの人間になっていっしょに住んでくれたらすごくにぎやかになるだろうなって、俺、楽しみなんだ」
 「……」
 「ね? いいかな」
 「もちろん、いいですけど……」
 「じゃあ、今度の土曜日。いい?」
 「はい」
 「気を使わなくていいんだよ。まだ正式に婚約発表したわけじゃないんだから。俺と結婚するとか関係なく、ただ遊びに来てくれれば……」
 そう言いながら井ノ原がうれしそうなので、剛はちょっとおかしい。
 ……俺なんかと結婚していっしょに住むのがそんなに楽しみなのかなあ、井ノ原さんは……。
 ふと気がつくと、ショーウインドウの小さなピエロが首をかしげてこちらを見ている。
 なんだか心を見透かされたような気になって、剛はちょっとどきっとする。そして、心で言い返す。
 ……俺はまだ、結婚するって実感が湧かないだけだよ……!
  
 土曜日。
 森田家では、部屋で着替えた剛がリビングに降りてきたところ。それを見て良枝が口を出す。
 「剛くん、ネクタイは?」
 「あー、いいですよ、タイは」
 「そんなわけにはいかないわよ。どなたにお会いするかわからないし、初めて伺うのに」
 「でも、快彦さんも、正式に婚約するまではさりげない方がいいって」
 「そうなの? でも、やっぱりネクタイくらい」
 「ネクタイあんまり好きじゃないんです」
 「そんなこと言って」
 そこへ面倒そうな顔をして入って来たのは敬三である。
 「いいじゃないか、良枝。それでおかしくないよ」
 「でも、あなた」
 良枝は今度は敬三に矛先を向ける。
 「これから長いおつきあいなんだし、はじめから少しでもよく思われた方がいいに決まってるじゃありませんか。特に、誰か親戚の方でもみえてたら」
 「大丈夫だよ」
 と敬三は新聞を読み出す。
 「剛くんは我々が育てた立派な青年じゃないか」
 「ええ、まあ……」
 と良枝は剛の方を見る。
 「もちろんそうですけど」
 剛の方は、ふたりがなにを話しているかなど気にもとめないで、向こうで腕時計をはめたりしている。
 そこに、電話のベルが鳴る。受話器を取ったのは、ちょうど近くにいた剛である。
 「もしもし森田です」
 「剛?」
 受話器の向こうから聞こえてきたのは、長野の声だった。だが、なんだかいつもののんびりした声ではない。
 「長野くん!?」
 剛は思わず声に出して、それからあわてて良枝の方を見る。良枝が、剛が長野とつきあうことをあまり快く思っていないことに気づいていたからだ。
 剛は、体の向きを変えて、声を低める。
 「どうしたの? 俺、ずっと連絡しなかったけど……、なにかあった?」
 「うん……。今、大丈夫?」
 「うん」
 「さっき携帯のほうにかけたけど留守電になってから、考えたけどこっちに電話した」
 「?」
 「あのね。……うちのじいちゃん、今入院してるんだけどね」
 「え……。いつから?」
 「一月ほど前から肺炎でね。それで……、もう……、だめだと思う。いろいろ併発してて」
 あまりにも突然の長野の言葉に、剛は棒立ちになる。
 「そんな……」   
 「忙しいと思ったけど、剛、この間じいちゃんのこと懐かしがってたし。やっぱり連絡したほうがいいと思って……」
 「……」
 「? もしもし? 聞こえてる?」
 「……。そんな大事なこと、なんでもっと早く言ってくんねえんだよ!」
 剛が急に怒鳴る。驚いた良枝と敬三がこちらを向く。
 「え?」
 「俺、すぐ行くから。どこ?」
 「……市立病院」
 「わかった。すぐ。すぐ行くから」
 受話器を置くと、剛はもう玄関に走り出しながら、良枝に怒鳴った。
 「俺、ちょっと出かけます!」
 「え? ……なに? 剛くん!?」
 良枝があわてて追いかけてくる。
 「どこへ行くの? 快彦さんは? もうすぐお迎えに来るんでしょ?」
 「あの! 急用ができたって言っといて下さい!」
 剛は後ろを振り向きもしないで玄関を飛び出す。
 良枝もあわてて玄関のドアを開ける。だが、剛のスクーターはもう、門を出て行くところだった。 

 市立病院。
 剛はスクーターを降りるとすぐ、建物の中に駆け込む。中はすぐ広い待合室で、剛は左右をきょろきょろと見回してから、受付の看護婦に聞く。
 「すみません! 長野さんのおじいちゃんの病室……、どこですか?」
 「長野さん……?」
 尋ねられた看護婦はすぐにはわからなかったようだが、隣の看護婦になにか耳打ちされ、うなずいて、剛に答える。
 「5階です。5階の集中治療室」
 「……ありがとう!」
 すぐにエレベーターに走る剛。 
 
 集中治療室。
 ドアが閉まっていて、剛は入っていいものかどうか迷う。そこで、ちょうどドアが開き、看護婦が出てくる。看護婦が剛に気づき、声をかけてくる。
 「長野さんのご親族の方ですか」
 「ええ、まあ……」
 中にいた長野がこちらを向き、剛に気がつく。
 長野がうなずくので、剛は中に入る。
 長野の祖父は、骨と皮に痩せて、鼻にチューブをつけて横たわっている。その周囲にはさまざまの医療機器。
 「……?」
 大丈夫なのか? という問いを込めて、剛は長野を見る。
 「ほんとにすぐ来てくれたんだね。ありがとう」
 そう小さく言って、長野がかすかに微笑む。
 「今朝方から急変してね。でもさっきから落ち着いたんだ。大丈夫かも知れない」
 「よかった……」
 剛と長野に軽く会釈して、医者が部屋を出ていく。その後に続きながら、看護婦が長野に言う。
 「先生は他の患者さんを見に行かれます。わたしはナースステーションにいますから、なにかあったらブザーを押して下さいね」
 医者と看護婦が出ていくのを見送ってから、剛と長野は無言のまま傍らの椅子に腰を下ろした。
 「知らなかった」
 剛がぽつりと言う。
 「教えてくれればもっと早く……、見舞いに来たのに」
 長野はすぐにはなにも言わず、しばらくしてから言った。
 「剛、結婚するんだって?」
 いつものやさしい声である。
 「……え?」
 剛は顔をあげる。
 「どうして?」
 「一度、お母さんから電話があって」
 予想外の長野の言葉に剛は目を見張る。
 「……なんで?」
 「さあ」
 長野は指を顔の前で組みながら、静かに眠る祖父を見た。
 「なにかと……、心配なんじゃないかな、お母さんにとっては」
 「……」
 「だから、じいちゃんのことも剛に言うつもりはなかったんだけど」
 「……」
 「じいちゃんどんどん弱ってるからさ……。うちはこんなとき来る親戚もないしな。剛にだけは言っとこうと思って……」
 「なんで……」
 思わず剛は大声になる。
 「言うつもりなかったって、なんだよ! それと俺が結婚することと、全然関係ねえだろ!」
 「剛」
 「こんな、こんな大変なこと……、知らせるつもりなかったって、なんだよ!」
 「……」
 「……俺、じいちゃんが自転車なおすの見るのがほんとに好きだったって……、この前言ったばかりじゃねえかよ!」
 「剛……」
 「じいちゃんが、あのがさがさした手を頭に置いてくれるの、俺すげえ好きだったんだよ……!」
 困惑した長野の瞳に、隣のベットで眠る老人を思いだして、剛は謝った。
 「ごめん、大きな声出して……」
 ふたりはまた黙った。そしてそのまま老人の顔を見つめる。
 「じいちゃん」
 長野が声をかける。
 「剛いるの、わかる?」
 老人は動かない。時を忘れたように静かな顔である。
 長野と剛は、もう、しゃべらなかった。

 何度か医者と看護婦が来て、計器をチェックし、老人の様子を見て、出ていった。
 冬の日が翳り始めた。
 落ち着いた老人の様子に長野と剛が安心しきった頃、老人は急に顔をしかめた。突然呼吸がうまくできなくなったらしい。ひゅう、ひゅうっと胸の音がして、老人は仰向けのまま、枯れ枝のような腕で弱々しく布団を叩く。
 あわてて顔を見合わせてから、長野が老人の枕元のブザーを何度も押す。剛は、すぐ隣のナースステーションへと飛び出す。   

 夜。病院の駐車場も車の数がめっきり減っている。冷え冷えと暗い闇の中に、病院の窓の灯りだけが白く輝く。

 深夜。ひとつのドアが開き、暗い廊下に細長い光が伸びる。
 ドアから出てきたのは、片手で顔を覆った剛。剛はそのまま、廊下のベンチに崩れるように座り込む。
 ドアはさらに大きく広げられ、人の話し声が響いてくる。徐々に医者や看護婦などの病院のスタッフが出てくる。
 しばらくして、長野が出てくる。長野は、暗い廊下のベンチにうなだれている剛の肩に手をかける。剛が顔をあげると、そこには、深い影をおとした、長野の静かな顔。

 早朝。
 剛のスクーターが自宅に戻ってくる。
 ヘルメットをはずした剛の顔は、寝ていないせいもあってどこかむくんでいるようだ。
 そっと玄関のドアを開けて家に入る剛。ひとりでキッチンに入り、ケトルを火にかける。 そこに、あわただしくキッチンのドアが開き、良枝が入ってくる。
 「剛くん!」
 良枝の声に振り向く剛。
 「……。どこに行ってたの。連絡もしないで……」
 「……」
 「快彦さん、あなたを心配して夜までずっと待ってたのよ。快彦さんだけじゃない、お母さんもお父さんも……、ずっと眠れなかったのよ」
 「……すみませんでした」
 「どこに行ってたの。なんで連絡してくれなかったの……!」
 「……」
 うなだれる剛。
 敬三も入ってくる。
 「剛くん、どこに行ってたんだ。それは教えてやってくれ。お母さん、ほんとうに心配していたんだ」
 「……市立病院です」
 「病院? どうして?」
 尋ねる良枝。だが剛は、まだ言うのがつらい。唇をかみしめるようにつぶやく。
 「長野くんちのおじいちゃんが……」
 「長野さんの……?」
 「2時過ぎでした。亡くなって……」
 「まあ」
 予想外の言葉に、良枝は一瞬言葉を失って敬三と顔を見合わせる。
 「でも、どうして剛くんが……」
 「……」
 「どうして言ってくれなかったの。病院からうちに連絡しようと思えば、いくらでもできたでしょ」
 「すみません」
 「……すみませんじゃなくて」
 「……すみません」
 ケトルのお湯が沸き始めた。電話したら、良枝はたぶん、自分に帰って来るように言っただろう。だから電話したくなかった。でも、剛はそれを口に出さずにいた。
 良枝はため息をつきながら、ガスを止める。
 そのまま無言でキッチンを出ていく良枝。
 良枝を見送ってから、敬三が剛に言う。
 「たいへんだったんだな」
 剛が、顔をあげる。敬三が続ける。
 「快彦くんに、あとで電話するといい」
 「……はい」
 「もう、休みなさい」
 「……はい」
 敬三も出ていって、剛はひとり残される。食堂の壁には、笑顔の良枝と敬三にはさまれた、どこか不安そうな子供のころの剛の写真。

 翌週。
 剛の家の前には、井ノ原のポルシェが止まっている。
 玄関から出てくる剛と井ノ原。それを見送るように出てくる良枝と敬三。
 「じゃあ、お父上によろしく」
 快彦にそう言うのは敬三。
 「あちらさまによくご挨拶してね」
 剛にそう念を押すのは良枝。
 助手席に乗り込むとすぐ、剛は運転席の井ノ原に謝る。
 「すみませんでした、先週は……」
 言われた井ノ原はやさしい笑顔である。
 「しかたないよ。……剛くんの知り合いの人が急に亡くなったんだろう? 誰でもあわてて、他のことどころじゃなくなるって」
 「……」
 剛の顔に翳が差す。だが井ノ原は気がつかずに車を出す。
 車は、すべるように走り出した。少し走り、車は長野の家のある小さな通りを過ぎる。黙って窓の外を見る剛。

(続く)


 新年あけましておめでとうございまーす(^^)
 年賀状を下さったみなさま、ありがとうございました!
 楽しみにしていてくれる方もいるんだ、よっしゃがんばらにゃーと励みになりましたです。

 「剛くんの結婚」の方は、新年早々暗い話になってしまってすみませんでした……。
 この世界では、これからクリスマス、年末、お正月です(^^;;
 いつもながら季節はずれなのがマヌケですが……、どうぞ今年もよろしくお願いいたします! 

(1999.1.9)


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