第5回

 「……ただいま」
 遠慮した声でそう言ってドアを開ける剛。そっと二階に行こうとすると、良枝がリビングから出てきて、言う。
 「お帰りなさい」
 だがそれきり、良枝は黙って剛が靴を脱いでいるのを見ている。まだ、土曜日のいさかいがあとをひいて、剛は気まずい。
 「あの」
 「え?」
 「すみません、電話しないで遅くなっちゃって」
 「……」
 「健たちと店でしゃべってたら、つい連絡するの忘れちゃって」
 「……」
 「メシ、もうすませて来ましたから」
 良枝が答えないので、剛はそのまま二階に行こうとする。すると、
 「あのね、剛くん!」
 後ろから、急に良枝が元気な声を出す。驚いて振り向く剛。
 「一度剛くんとゆっくり話さなきゃいけないことがあるの。時間とれるかしら」
 そう言う良枝は無理して作った笑顔である。
 「は、はい」
 「早いほうがいいんだけど……。あしたは帰り、早い?」
 「あしたも9時です」
 「そう。じゃあ、あさっては?」
 「……あさってなら……、6時にあがれると思います……」
 「じゃあ、あさってにしましょう」
 良枝の真意がわからず、剛は少し警戒しながら頷く。 
 「それに、あしたはちゃんとうちで晩御飯食べてちょうだいね」
 「……はい」
 言うだけ言うと、良枝は奥に姿を消す。階段を上りながら、不審そうに首を傾げる剛。
 良枝は食堂に入り、テーブルの上の剛のための料理を見て、ため息をつく。それから顔をあげて、壁の大きな家族写真を眺める。
 良枝はそのまま食堂のイスに座り込んで、ぼんやりなにかを考えている。

 さて、そのあさって。剛が良枝と約束した日。
 剛が家の玄関を入ると、奥から、聞き慣れない女性の笑い声が聞こえてくる。剛が足もとを見ると、良枝のではない、女物の草履がきちんと置かれている。
 剛は、そっとドアを開けて客間をのぞく。
 「ただいま帰りました……」
 ソファで歓談していた良枝と客がこちらを振り向く。客は、先日菊兆であった、和服の婦人、加藤治子である。
 「あ、帰ってきましたわ」
 良枝が、客にそう言ってから、剛に言う。
 「剛くん、先日お会いした加藤さんの奥様。覚えてるでしょ?」
 ドアの影で、剛は加藤に会釈する。品よく会釈を返す加藤。
 「実は今日、わたしからじゃなく、奥様からあなたにお話があるの。剛くん、こっちに来てお話を聞いてちょうだい」
 「え……」
 剛は女2人の自分を見る目にびびる。
 「あ、その前に俺ちょっと、着替えてきていいですか……?」
 逃げ腰の剛に、加藤が笑顔で声をかける。
 「話はすぐ済みますから。そのままで聞いてちょうだい。どうぞ、ここにすわって」
 口調は柔らかいが、とても断れない迫力だ。剛はしぶしぶ良枝の隣に座る。
 「急に押し掛けてごめんなさいね。でも、善は急げと言う言葉がありますからね」
 加藤が話し始める。にこにこする良枝。緊張する剛。
 「今日はわたし、お使いとして参りましたのよ」
 「使い……」
 「ええ。この間、菊兆さんでお会いになった、井ノ原さん。もちろん、覚えてらっしゃるわよねえ」
 「はあ……」
 「その、井ノ原さんからのお使いなの」
 「……」
 「大事なことだから、よく聞いてね」
 なんだか嫌な予感がする。加藤の目を見て、剛は背筋をぶるっとふるわせる。
 「あのね。……快彦さんが、あなたのことが大変お気に召したそうなの。快彦さんだけでなく、社長さんもね」
 「……??」
 「……それで、井ノ原さんから、ぜひ、あなたを井ノ原家に頂きたいというお話なのよ」
 加藤が言い終わると、一瞬、座がしんとする。
 ぽかんとする剛。そんな剛の表情をちらっと盗み見る良枝。落ち着き払ってお茶を一口飲む加藤。
 「……はあああ!?」
 やっとものが言えるようになった剛が、素っ頓狂な声を出す。
 「いた、いた、いただくって、なんですか、それ……!!」
 剛の大声に、加藤はおかしそうに口に手を当て、ほほ、と笑う。
 「まあまあ、若い方は元気がいいこと」
 「笑ってる場合じゃないですよ、あの、それは、あの、俺、いただ……!?」
 「剛くん、落ち着いてちょうだい」
 「お母さん、でも、なんですか、これ。だって、なんのことだか……」
 「だから、井ノ原さんが剛くんに、結婚の申し込みをされてらっしゃったのよ」
 「けっ……」
 結婚、と言おうとして、剛はあわてすぎてごほごほと咳き込む。
 「大丈夫、剛くん」
 あわてて剛の背中を叩く良枝。   
 「ご存じの通り、井ノ原さんは社長と言っても、そのへんの雇われ社長ではなくてオーナー社長でらっしゃってね、たいへんな資産をお持ちなの。戦前からずっと続いた、立派なご家名なのよ」
 剛にかまわず加藤は平然と続ける。
 「その一人っ子の快彦さんには、降るようにご縁談があるのよ。わたしも何人かお嬢さんをご紹介したことがあるんだけど、なかなか快彦さんの気持ちに沿われる方がいらっしゃらなかったのね。……それが、今度ばかりは快彦さんの方から、ぜひ剛くんをってそれは熱心にお願いされたの。昨今、男の方同士結婚するのは、ちっとも珍しいことではありませんものね。私も、剛くんなら井ノ原さんのお宅で立派にやっていけると思うのよ」
 「……」
 「どうかしら。剛くん」
 「……」
 「考えてみてくれるわね?」
 「え……」
 咳の止まった剛は、とまどいながら加藤と良枝の顔を見る。二人とも真剣だ。嘘や冗談ではないらしい。
 しばらくして剛は、うつむいて答える。
 「……俺、井ノ原さんと結婚なんて、考えられません」
 「ま……」
 「剛くん!」
 「俺、やっと保父として働きだしたばかりでいろいろ勉強してる途中だし、まだはたちにもなってないし、今まで一度もけ……、(咳払い、)結婚のことなんて考えたこともなかったし……、無理です」
 「剛くん……」
 「失礼します」
 剛は立ち上がりかける。だが、加藤は穏やかに、しかし、有無を言わせない調子で言う。 
「……ちょっと待ってちょうだい」
 「……」
 「もう一度すわってちょうだい」
 客である婦人にそう言われてしまうと、剛はもう、これ以上強く言えない。少しの間ためらうが、結局剛はもう一度腰掛ける。
 「あなたはまだ若くてわからないでしょうけど、こんないいお話は滅多にないのよ」
 「……」
 「それに、おつきあいもろくにしてないうちから、無理だと決めつけることはないんじゃないかしら」
 「……でも!」
 「あたしの立場、とは言いません」
 「……」
 「お父様とお母様の立場を考えてさしあげて」
 「……」
 剛は良枝の顔を見る。それまで良枝は困惑したように剛を見ていたが、剛に見られて、視線を自分の膝におとす。がっかりしている表情である。良枝のその表情を見ると、剛は自分がまちがいを犯した気がする。
 「いつもあなたのお噂は伺ってたわ。森田さんの奥様はいつも、あなたのことしかお話にならないくらい、あなたをかわいがってらっしゃるのよ」
 「……」
 「お父様お母様思いの、自慢の息子だって。それは、聞いている私まで幸せな気分になれるくらいに」
 「……」
 「ほんとうの親子だって、断絶とか、家庭内暴力とか、いろいろあるのに、なんてすばらしいご家族かしらって、いつも感心していたの。実の親子以上だわ。こんなやさしいお母様、他にいらっしゃらなくてよ」
加藤は首をまわして壁を見る。客間にも、家族3人の写真が飾ってある。
 「あなたが保父さんになるときも、お母様は、それは心配してらしたのよ。ほんとうはちゃんと大学も出た上でお父様の会社にお入れになりたかったのに、あなたのお気持ちを大事にされて、あきらめられたわ。いつもいつもあなたの幸せだけを考えておられるのよ」
 「……」
 「井ノ原さんだって、そう。あなたが森田さんの実子じゃない、ご養子だってこと、ちゃんとご存知よ。でも、そんなことはちっとも気にしないって言って下さってるの」
 「……」
 「剛くん」
 剛が黙り込んでしまうと、やっと良枝が小さな声を出す。
 「井ノ原さんとのご縁談のこと、今まではっきり言わないでしまって、ごめんなさい。でも、お母さん、あなたに幸せになって欲しかったの。最初からお見合いだって言ったら、剛くん、きっとすぐ断ってしまったでしょ」
 「……」
 「井ノ原さんみたいな方にのぞまれて結婚できるなんて、願ってもできないことなのよ。きっと二度とないわ、こんなお話。そう思ったからお母さん……」
 自分の膝を見つめる剛の横顔。
 「でも……」
 良枝はうつむく。
 「やっぱり余計なことだったのね……」
 良枝の悲しそうな声に、剛は顔をあげる。良枝の瞳がうるんでいる。
 「ごめんね、お母さん、剛くんの気持ちも考えずに……」
 剛は唇を噛む。加藤が言う。
 「……ね。どうかしら、快彦さんと、もっとおつきあいしてみてから考えるわけにはいかないかしら。どう?」
 剛はうつむいたまま、しばらくの間、答えられない。
 剛を見つめる良枝。
 剛はやっと決心して、言う。
 「わかりました。おつきあいだけは、してみます」
 剛の返事に、笑顔の加藤夫人。良枝も、緊張していた表情をやっと崩し、ほほえんで剛の顔を見る。

 朝。ダリア保育園。
 健と准一が庭の落ち葉を集めていると、剛のスクーターが道をやってくるのが見える。剛はいつものようにスクーターを置いて保育園に入ってくるが、どこかぼんやりしている。
 「剛、おはよう!」
 健が声をかけるが、剛はなにか考えていて気がつかない。
 「?」
 顔を見合わせる健と准一。
 「剛、おはよう!!」
 健はもう一度剛の耳元で叫ぶ。剛はやっと気がついて、健を見る。健が言う。
 「今日は午後から栗拾いだね。朝のうちに、持ってく道具確認しようよ」
 「あ、ああ……」
 剛はそう言って、だが、それだけで、あとはなにも言わずクラスに入っていく。
 「……どうしたんだろ、剛」
 「なんか変やなあ……」
 庭に残った二人は、剛の去った方を見てつぶやきあう。

 いつものように昼休み。
 休憩室で、剛はぼんやり庭の落葉を見ている。健と准一は顔を見合わせながら、剛のカップにコーヒーをいれる。
 「はい、剛」
 健が剛に声をかけると、剛は驚いたように顔をあげる。そして健がカップを手渡そうとしているのに気がつくと、それを受け取りながら、礼を言う。
 「あ……、サンキュ」
 「ねえ、剛、どうしたの」
 健はイスに腰掛けながら尋ねる。その隣に座りながら、准一も心配そうな声を出す。
 「そうや、どないしたん。剛くん腹の具合でも悪いんか?」
 「バカ。そうじゃないだろ」
 健は准一の頭をこづいて、
 「なんか悩み事でもあるの、剛。よかったら聞かせてよ」
 もう一度真剣に言う。剛は顔をあげ、そんな二人の顔を見て、やっと答える。
 「なんだよおまえら、そんな顔して。……なんでもねえよ」
 「嘘。だって剛、朝からずっとぼんやりしてるよ。なあ、岡田」
 「うん」
 「なんかあったんだろ。俺たちにも教えてよ。少しは力になれるかも知れない」
 そんな真剣な健の顔を見て、剛はちょっとだけ表情をゆるめる。
 「だから、なんでもねえって言ってるだろ」
 「でも……」
 「……そんなに言うなら言うけど、ほんとにたいしたことじゃねえよ」
 「うん。いいよ、別に」
 剛は健の顔を見て一瞬だけためらって、そしてぼそっとつぶやく。
 「……俺さ、もしかしてポルシェと結婚するかも知れねえ」
 「えええええーーーーー!!!」
 のけぞって驚く健と准一。   
 「なんか、そういう話になってきちまって……」
 「け、結婚!?」
 「ポルシェのやつって、こないだの……!?」
 「うん、そう」
 剛はつまらなそうに言って、それから健の顔を見る。
 「こないだ、健、俺とポルシェが2回目に会ったこと、見合いだって言ったろ」
 「……うん」
 「あんとき俺怒ったけど、そのとおりだったんだ。仕組まれてたみたい」
 「……」
 「なんかなあ。わけわかんなくなっちゃった」
 剛が淡々と言うので、健と准一はかえって声が出ない。
 「だ、だって、まだ決まったことじゃないんやろ」
 やっと自分を取り戻して准一が言う。
 「うん。とりあえずつきあうことになった」
 「つ、つきあう……」
 健がつぶやく。
 「な、なにしてつきあうの……?」
 「バカ。なに想像してんだよ」
 剛は健の頭を軽く叩いて、
 「さあ。メシ食ったり、どっか行ったりするんじゃねえの?」
 「それから?」
 「それだけだよっ」
 剛は不機嫌に言うが、健はまだおろおろと続ける。
 「やだよ、剛、変なことしちゃ」
 「しねーーつってんだろっ」
 今度は力を入れて健の頭をはたく剛。 
 「あー、やっぱり健になんか話すんじゃなかった。おまえらに言ったって、どうにもなんねえもんなあ」
 「そんなあ……」
 健は叩かれた頭を押さえながら、情けない声を出す。
 「で、どうなん。剛くん、今の気持ちとして、自分は結婚したいん?」
 准一が建設的な質問をする。剛は詰まって、
 「したくは、ねえ」
 「じゃあ、つきあうだけで、結婚するかどうかは全然わからんのやね」
 「まあ、そう」
 その答えに、健は元気を取り戻す。
 「なんだよ。剛、したくないなら、早く断っちゃえば」
 「それが、そううまくいかねえんだよ!」
 剛はまたいらいらと健に怒鳴る。
 「俺にもよくわかんねえんだけど、そううまくいかねえんだ。ほんと言って、俺、最後まで断れねえような気がするんだよな……」
 「なんで……」
 「なんでって。俺が無理に断ったら、お母さんが泣いちゃうんじゃないかと思うと……」
 「……」
 健と准一は声が出ない。  
 「だけど、そんな、結婚なんて一生の大事だろ」
 「断るときは、いくらお母さんに泣かれたって断わらな!」
 「そう言うけど」
 剛は、どうでもいいように言う。
 「条件は確かにいいらしいんだ。お母さんが泣くほどポルシェと俺を結婚させたいんなら、別に、したって今とたいして変わりはねーかもよ? 保父だって続けられるかもしれねえし」
 「そんなの……」
 「だってさ、お父さんもお母さんも、ほんとの親でもないのに、俺のこと、小さい頃からめちゃくちゃかわいがって育ててくれたんだぜ? 高校出て保父になりたいってがんばったときも、結局最後はゆずってくれたし。それなのに、俺、なにも喜ばせてやるようなことしてねえんだもん。もしかしたら、結婚くらいは親の言うとおりにしてやらなくちゃいけないのかも知れねえって思うんだ」
 「……」     
 黙りこくってしまった健と准一の前で、剛は時計を見上げる。
 「もうこんな時間かあ……。じゃあ、俺、クラスに戻るよ」
 「う、うん……」
 剛は二人を置いて、さっさと部屋を出ていってしまう。
 「剛って、親の言うとおり結婚しちゃうタイプだったんだ……」
 まだ放心状態で健がつぶやく。
 「剛くん、なにもあんなにお母さんに義理立てすることないのになあ……」
 准一もため息をつく。
 「な、なあ、岡田。剛がほんとに結婚しちゃったらどうしよう!」
 健は急に泣き出しそうな声を出す。
 「どう……って。剛くんが自分で納得して結婚するなら、しょうがないのとちゃうか」
 「しょうがないじゃすまないよ。剛が結婚しちゃうんだよ、剛が!」
 「あ、ああ……」
 「俺、どうすりゃいいんだよお!」
 「は? なんで健くんが泣くんや?」
 「だあって俺、剛と高校から一緒で、剛が保父になるって言うから、一緒に保父になったんだよ!」
 「……」
 「あーー! 剛がよその誰かになにかされるなんて、俺、絶対に耐えられない!」
 「健くん……。健くんかて、前、金持ちのいい男と結婚したいって言うてたやんか」
 「そりゃ言ったけど! 誰も剛がこんな急に結婚するなんて思わないだろ! 願望言うくらい別にいいじゃんか!」
 「願望って……」
 「いいの、俺は! 金持ちと結婚したって心は自由! 最後は慰謝料ふんだくって離婚すればいいんだしさあ」
 「……」
 「剛はだめなの! ああ見えて、親の言うとおり結婚しようなんて考えるほど古風なんだから。結婚しちゃったら終わりだよ。浮気なんてしようと考えないよ」
 「ええことやん……」
 「だあっ、よくねえ! 畜生、こんなことならもっと早くどうにかするんだったのにーー。マジ、俺って超要領悪い……」
 机に突っ伏す健。なんと声をかければいいのか全くわからない准一。   

(続く)


 12月10日でひるねくらぶも開設1周年になります。(泣)
 hiruneとhongmingのHPに遊びに来てくださっているかた、どうもありがとう。おもしろかった作品について感想などありましたらどうぞ聞かせて下さいね。
  

(1998.12.6)


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