第17回
男が、意外そうな顔で振り向いた。
「……はあ?」
「若いのに体は弱いし、子供かかえて、女ひとりでさ。もし俺がいなかったら、もう少し楽だったろうけど……」
「……あのなあ」
男があきれたような声を出した。
「おまえ、なに言ってんだ?」
「? ……なにが?」
「かわいそうな人とか言ったら、なんだかめそめそした暗い女みたいじゃねえか」
「?」
「んなことなかったぞ。よく笑って……、おまえといるのが楽しそうだった。子供が好きなんだって言っていた。言ったろう、俺が結婚もしてないで子供作ったくせにって言ったこと。あとで俺に言ったんだよ。結婚するわけにはいかなかったけど、こうやって子供だけでもいるんだから、ずいぶんよかったでしょって。この子いなかったらあたしどうなってたと思うって。そんなことを、楽しそうに」
「……」
そして、ふと思い出したように、男がつぶやく。
「最後に、でも、まあちゃんは奥さんと子供を大切にする人にならなきゃだめよってにらんだっけな……」
ちょっと口を閉じて、それから男は剛を見た。
「そんな女が、かわいそうなんて息子に言われたら、怒るんじゃねえか? あたしはかわいそうなんかじゃないって言って」
「……」
「死ぬときだって、俺に言った」
「……」
「神様ってすごいって。ちゃんと剛の行き先を作ってくれてあるって。剛は、いい人にすごくかわいがってもらってるからもう心配ないって。……まあちゃんは大きいから大丈夫だよね、ごめんねって、そう謝った……」
「……」
「この場所は医者から聞いていたが、なんだか墓なんて見る気もしなくてな。来たのは初めだ。……まあ、今日が最初で最後になるだろうが……」
突然、白い墓碑にオレンジ色の光が当たった。ふたりが振り向くと、雲も海も、一面が夕陽でオレンジ色に輝いている。しばらくそのまま突っ立ってから、男がつぶやいた。
「……なんだか、すげえな。その一回でおまえと会っちまうなんて」
言って、男は気を取り直したように大きな声を出した。
「さて、と。俺は帰るぜ。まあ、おまえは御曹司と結婚してうまくやんな」
くるりときびすを返した男に、剛はあわてて声をかけた。
「待てよ!」
男が面倒そうに振り向く。
「なんだよ。まだあるのか」
「俺、……あんたの名前知らないよ。住所とか……」
「名前に住所だあ?」
男がバカにしきった顔で言う。
「俺たちは他人なんだぜ。そんなもの聞いてどうするんだよ」
「……でも……」
どこか別れがたいような剛の顔に、男は、だが、ほんの少し笑顔を見せて、言った。
「坂本っていうんだよ。坂本昌行だ」
「坂本昌行」
「そうだ。じゃあな」
「俺は、森田剛!」
後ろから剛が叫んだ。
「知ってるよ」
男が言った。
「あのさ! あんたが直してくれたぬいぐるみとか、まだ俺持ってるよ!」
坂本と名乗った男は、もう振り向かなかった。
すでに最後の夕陽が海に落ちようとしている。
そんな中、コートのポケットに両手を突っ込み、誰もいなくなった墓地でじっと母親の墓標を見つめている剛。
すでに暗くなった駅のホーム。剛が携帯で話している。
「井ノ原さん? おうちですか?」
相手がなにか答える。剛はうつむいて、答える。
「いえ、いいです。俺が伺います。はい、これから。ひとりです。……じゃあ」
大きな木造の井ノ原家の門の前。
外灯に照らされてその前に立った剛は、少しの間、井ノ原家の高い門とその奥の立派な屋敷を眺めてから、決心したようにインターフォンを鳴らす。すぐに家政婦の原の声がした。
「はい」
「あの、森田です」
「あ、どうぞお入り下さい」
言われて剛は門を入り、広い石畳の上を歩き出す。
かなり奥まった玄関はここからは見えない。しばらくして植え込みの影から、誰かの姿が見える。家政婦の原かと剛は思ったが、姿をあらわしたのは、ラフなセーター姿の井ノ原本人だった。剛は立ち止まった。
「剛くん」
剛を見て走り寄りながら、井ノ原が声をかけてくる。もちろんやさしい声だが、以前に比べ、表情にも声にもどこか疲れが見える。
「……こんばんは」
「どうしたの、突然電話してきて」
「……すみません」
「別に謝んなくっていいよ。わざわざここまで来なくたって、俺が車で迎えに出たのに。これからどこかに出ようか」
「いえ……、いいんです」
そう言いながらも、剛は動こうとせず、その場に立ったままだった。
「? どうしたの? 寒いだろう。早く入ろうよ。そう言えば、その格好、どうしたの?」
剛の黒いネクタイを見て、怪訝そうに井ノ原が尋ねる。
「まあ、話はこれからゆっくり聞くとして。飯、まだだろう。うちで夕飯食って行ってよ。……今日もおばさんたち来てるんだけどさ。気にしないでいいから」
「いえ。ここでいいです」
先に立って家に入ろうと歩きかけた井ノ原は、剛が動かないので振り返った。笑顔を作ろうとしながら、井ノ原はうまくそれができないようだった。
「なに? ……剛くん、どうしたの?」
「井ノ原さん、俺」
剛の声がかすれた。
「俺、誰より先に井ノ原さんに言うべきだと思って、今晩来たんです」
「……」
「……俺、井ノ原さんとの……」
剛が言いかけたとき、井ノ原が急にちゃかすように口をはさんだ。
「……やだなあ、真剣な顔しちゃって」
「……」
「寒いだろ? 入ろうよ。飯がいらないなら、俺の部屋で話そう。その方がいいよ」
剛を連れて井ノ原が玄関を入る。家政婦の原は笑顔でふたりを迎える。
「森田さん、いらっしゃいませ」
無言で頭を下げる剛。井ノ原が言う。
「あのね。俺の部屋に行くから」
「なにかお飲物は?」
井ノ原は、ちらっと剛を見てから答える。
「いいよ。俺が自分でやる」
「……はい」
井ノ原と剛は、無言で廻り階段を上っていく。いつもなら剛が来ると笑顔でいっぱいの井ノ原の表情が、今日は暗い。このごろ井ノ原が元気のないのを知っている原は、心配そうにふたりが二階に行く姿を見送る。すると、食堂のドアが開いて、まりこが顔を出す。
「あらあ。お客様?」
「……はい、あの」
「隠さなくっていいじゃない。ははん、森田くんが来たのね」
「……」
「どうしたのかしらね、夜になって突然ひとりで来るなんて。なんか妙ね」
まりこは腕を組んでドアにもたれるようにし、さもおもしろそうである。二階を見上げる原はますます心配そうな表情。まりこのいた部屋の中からは、紗英が眉をひそめてそんなまりこをじっと見ている。
ゆったりと広い、二間続きの快彦の部屋。
手前の部屋は一面が作りつけの棚で、快彦の趣味のキッチュなおもちゃが整然と並んでいる。剛は、そんなおもちゃのひとつを手にとって眺めた。
「なに飲む?」
部屋の奥のミニキッチンから快彦が声をかける。
「なにも……、いらないです」
剛の答えに、ちらりと剛を見て、井ノ原は冷蔵庫を開ける。
「ビールなんて、だめか。コーラは?」
剛が答えないので、とうとう井ノ原はあきらめたように小さなカウンターから出て、剛の隣に立った。
「……とにかく座れよ。立ったままじゃなんの話もできないよ」
剛が、おもちゃを棚に戻してから井ノ原を見る。鋭い、と言っていいまなざしだ。
「……井ノ原さん」
「……」
「俺、結婚のこと、もう少し考えたくなって、それをお願いに来たんです」
ふたりはしばらく見つめ合う。剛の視線は強い意志を秘めて、井ノ原の視線はさびしげに。
「……だめでしょうか」
剛が尋ねる。井ノ原がにやりとする。
「考えて? どうするの?」
「……それは……」
剛が、言いよどむ。井ノ原が、軽い調子で言う。
「やっぱり君、誰か、好きな人がいたんだ。……あの写真の人?」
思いがけない井ノ原の言葉に、剛が驚いて顔をあげる。
「いいよ、君のせいじゃないよ。君に恋人がいないなんて思ってた俺の方がおかしいんだよね、きっと」
「……」
「そう、はじめから俺が強引に君に近づいたんだ。お父さんの取引先の社長の息子だっていう立場まで利用して、見合いとか仕組んで」
「……」
剛はまだ、驚いた表情のまま井ノ原を見つめている。
「断れなかったんだろう。お父さんやお母さんも乗り気だったしね。君、ご両親思いだから」
「いのはらさ……」
「……でもさあ」
井ノ原の表情がみるみる曇った。剛は、話そうとして、だが、続けられない。
「なんで今なんだよ。いまさらそんなことを言われるなら、最初から相手にしてくれなかった方がましだったよ……!」
「……」
「気がついてたよ。あの写真見たときから。君さあ、相手の男の顔を見つめてて。俺、つらくて、でも、君の話を聞いたら君を信じられると思ってた」
「……」
「だけど、君、嘘をついたろ……?」
「嘘……?」
「相手のこと、知らないって嘘をついただろ」
「……」
「俺、君のこと好きだから、君が嘘をつけばすぐわかるんだよ。だいたい、もしあれが君の言うように誰かにはめられたんだとしたら、そんなことを君が誰にも言わないでおくなんて変じゃない。どうして俺に言ってくれないの? ねえ。嘘つくの、もっと上手になってよ」
「……」
「それでもさ。それでも、君が俺と結婚してくれるなら、俺、それでもよかったんだよ。……それをどうして急に今日」
「井ノ原さん!」
剛が怒鳴った。怒りで顔を紅潮させている。
「俺はずっとまじめに井ノ原さんのことっ」
そこまで言って、剛はあとが続けられなかった。握りしめた剛の拳がふるえている。
「……じゃあ、なにも嘘はつかなかった……?」
静かな井ノ原の言葉に、剛は唇を噛む。井ノ原は、黙ってそんな剛を見た。剛が、震える声で言った。
「結婚、できません」
「……」
「俺、井ノ原さんと結婚できません!」
そう言うと剛は、立ちすくむ井ノ原の横をすり抜け、部屋を出ていく。階段を駆け下りる剛の足音が聞こえても、井ノ原は動かなかった。
一階で人のあわてた話し声がし、剛が玄関を出ていった気配がしてから、のろのろと井ノ原は部屋を出た。階段を降りると、原が狼狽した顔で井ノ原を見る。
「ぼっちゃま、今、森田さんがなにも言わずに飛び出していかれて……」
「……わかってる」
「あの。ケンカしたのなら、すぐに追いかけられた方が……」
井ノ原の返事に原はますます不安そうになり、そう言う。まりこがドアを開けて、おもしろそうにこちらを見ている。そのうしろでは、いらついて爪を噛んでいる紗英。井ノ原はほんの少し、微笑さえ浮かべて原に言う。
「いいんだよ、原さん。……俺たち、結婚やめることになった」
「えっ」
「原さんも知ってるでしょう。この前のこと。……俺、ずっと彼を信じようと思ってたけど、やっぱり無理だったみたい」
「そんな。あんなに森田さんと仲良くされてたじゃありませんか」
「剛くんから言ってきたんだよ。結婚のこともう少し考えたいって。……やっぱり、他に恋人がいたんじゃないかな……」
「……」
原は言葉が出ない。
「もう、いいよ。俺、剛くんを疑ったり信じようとしたり、ずっと眠れないくらい考えて……疲れちゃった」
井ノ原があきらめたようにそう言ったとき、誰の声かわからない声がその場に響く。
「……ほんとうにいいんですか?」
驚いて振り向いたまりこが小さく叫ぶ。
「紗英……?!」
それは、紗英の声だった。そう言ってすぐ、紗英はまりこのそばを通り抜け、快彦の目の前に立つ。驚いている快彦を見つめ、紗英が言う。
「快彦さん、ほんとうにいいんですか?」
「……紗英ちゃん……!?」
「わたし、快彦さんが森田さんとつきあうようになって、ずいぶん変わったと思っていました。それまでは仕事そっちのけで遊んでばかりいたのに、急に落ち着いて」
「……」
「森田さんがそんな快彦さんにやさしくされているのを見て、なんだかとてもうらやましかった。誰かを大事に思って自分も大事にされるってなんて素敵なことなんだろうって、結婚なんか憧れたこともないわたしまで思うようになってました。……それなのに……、お願いです、がっかりさせないで下さい!」
「紗英ちゃん……」
井ノ原に見つめられ、紗英は口をつぐんでうつむいた。だが、もう一度顔をあげたとき、紗英の表情には決意がこもっている。
「あの写真を仕組んだのは、全部叔父さんと叔母さんです! 森田さんがだまされたって言うのは、嘘なんかじゃありません」
「紗英!」
あわてたまりこの声。
「安則叔父さんが電話しているのを聞きました。今まで黙っていてごめんなさい。……あたし、大学で勉強したかった。実家の借金にも、叔父さんがお金を出してくれたし、わたしは叔父さんには恩があります……。でももう……」
「紗英ちゃん……」
「この恩知らず!」
まりこが思わず紗英の頬をはたこうとする。紗英は身をすくめたが、井ノ原が咄嗟にまりこの手をつかんで止めた。
「叔母さん、なにするんですか!」
「この、この子は……」
なおも紗英につかみかかろうとするまりこ。まりこの腕をつかんだ井ノ原の手にも力がこもった。
「やめてください。それより、今紗英ちゃんの言ったことは本当なんですか……!」
そのとき、玄関の外で音がした。玄関のすぐ外まで乗り付けてきた車が、キキッと音を立てて止まったのだ。
すぐ車から人の降りる気配がして、玄関の大きなドアが開いた。原があわてて頭を下げる。
「旦那様、お帰りなさいませ」
あわただしく入ってきたのは、井ノ原雅彦だった。
「どうした、みんな」
雅彦は、玄関に人が集まっているのに驚いたようすだ。
「お帰りなさい。父さんこそ、なにかあったんですか」
「いや」
雅彦は口を濁して玄関の中を見回し、まりこの姿を認めると、すぐに言った。
「まりこ。段田くんは」
「え? 段田は出張中ですけど?」
「そうか……」
「兄さん? 段田がどうかしたの?」
「段田くんに逮捕状が出るらしい」
「……え?」
「今、車の中で連絡を受けた。官庁の役人への贈賄容疑だ」
「……なんですって……?」
雅彦の言葉に呆然とするまりこ。
「以前からとかくの噂は聞いていたがね。どうやら間違いではないようだ」
快彦も、周囲の一同も、驚いて雅彦を見つめる。
静かな住宅街を包む木々。
すっかり葉の落ちた冬木に、よく見ると柔らかな新芽が芽吹いている。
暖かな日射しのなか、庭木に水をやっていた良枝がうれしそうな声をあげる。
「あらあ」
リビングで真剣に新聞を読んでいる敬三。そこに良枝が庭から、うれしそうな声で呼びかける。
「あなた、あなた」
敬三はテーブルに新聞を置き、良枝が呼ぶ方にやってくる。
「あなた、見て。もう沈丁花につぼみがあるわ。いつもよりずいぶん早いわ」
「……」
「ここ数日暖かかったもの。もうすぐ、春なのねえ」
笑顔の良枝。敬三は、黙って見ている。
「おはようございまあす」
敬三の後ろで声が聞こえる。剛だ。
寝癖頭の剛が、敬三の隣になって外を眺める。
「外になにかあるんですか?」
「あのね、お花が咲きそうなの。……って、朝御飯作るわね」
いそいそと中に入ってくる良枝。
テーブルについた剛は、置かれた新聞を見て、思わず小さな声をあげる。
「あ、これ……」
「なあに?」
「いえ、なんでも……」
新聞の一面の隅に、逮捕された段田の初公判の記事が載っている。剛はその新聞を良枝に見つからないように脇に畳んで、明るい声を出す。
「今日もいい天気ですね」
「そうなのよ。気持ちがいいわ。……剛くん、今日の予定は?」
剛に朝食のご飯を差し出しながら、良枝が尋ねる。
「別にないですけど。……どっか出かけようかなあ。急に言っても誰もつかまんないか」
「あら。じゃあ、3人でどこか行きましょうか。……ねえ、あなた」
「ん? ……ああ」
「午前中に家のこと全部かたづけるから、お昼食べてからゆっくり、鎌倉の方なんてどう?」
敬三の返事も聞かず、良枝はひとりで勝手に段取りを決める。
「それで晩御飯を向こうで。久しぶりに一緒に外で、おいしいもの食べてきましょう。ね?」
剛と敬三は顔を見合わせる。良枝が話を決めだしたらこちらふたりには決定権はない。
「そうと決まったら、とにかくお掃除とお洗濯ね」
うきうきと流しを片づけはじめる良枝。
朝食を終えた剛が自分の部屋に戻ると、ちょうど携帯が鳴った。
「はい、もしもし」
「あ。……剛くん?」
剛は、黙った。聞こえたのは、井ノ原の声だった。
「……聞こえる?」
「……俺です」
「俺、井ノ原だけど」
「……はい」
「久しぶりだね。……元気?」
照れたような井ノ原の声は、以前と変わらずやさしかった。剛はほっとして、剛の声もやさしくなった。
「ええ、元気です」
電話の向こうの井ノ原も、ほっとして微笑んだ感じなのがわかった。
「なんだか急に、君に会いたくなって」
「……」
「一度ゆっくり話したいと思ってたんだ。……なんかね、俺たち、もっとなんでも話せばよかったって、そう思ってね」
「……」
「なんでかなあ。あのときは素直に話せなかったんだよね」
「……」
「今、だめ? 俺はいつでもいいけど」
剛は時計を見上げた。まだ時間はたっぷりあった。
「かまいません。……どこか近くで」
(続く)
今回、展開が早すぎた気もしますが……、これでワタシ的にいっぱいいっぱいなんです(泣) 次回、最終回をお見逃しなく!(笑)
(1999.3.27)
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