第15回

 良枝が心配そうに時計を見上げた。時計の針は、11時を差している。
 「……」
 森田家のリビングに招き入れられた健と准一は、冷めた紅茶を前に、黙りこくって目と目を見合わせる。
 玄関のベルが鳴った。
 「あ、帰って来たみたいだわ」
 良枝が健と准一を見て、ほっとした声をあげた。
 大急ぎで玄関に出た良枝が、ドアの鍵を開けながら言う。
 「剛くん、ずっと三宅くんと岡田くんが……。あら」
 だが、ドアの向こうに立っていたのは敬三である。敬三もこのごろは帰りが遅い日が多く、疲れた顔をしている。
 「……お帰りなさい」
 「なんだ、どうした」
 がっかりした顔の良枝の後ろに健と准一を見つけて、敬三も目を丸くする。
 「なんかあったのか。剛くんは?」
 「それが、まだなんです……」
 良枝が答える。
 「職場でケンカしてしまったんですって。お友達がわざわざ謝りに来て下さっているのよ」
 「小学生じゃあるまいし」
 良枝に脱いだコートを預けながら、敬三は苦笑する。
 「君たち、もう遅いだろう。帰った方がいい」
 「わたしもそう言ったんですけど、おふたりともとても気にして下さって」
 「ケンカじゃなくて、俺たちが悪いんです」
 「俺たちが剛くんに誤解されるようなことをしてしまったんで、どうしても今晩中に謝っておきたくて……」
 健と准一が口々に言う。敬三と良枝は顔を見合わせる。健と准一が真剣なのはふたりにもわかる。だが、敬三が大人らしく言う。
 「ま、詳しいことは息子から聞いてみよう。君たちが謝っていたことはわたしたちからもよく言っておくから」
 そのとき、門の方から、物音が聞こえた。4人は口をつぐみ、はっとして顔を見合わせる。
 健と准一は考えるまもなく、良枝と敬三の間をすり抜けて、すぐに玄関を飛び出した。
 「剛!?」
 「剛くん!」
 冷たい夜気の中で、スクーターを下りた剛がヘルメットをはずして、駆けてくるふたりを見つめた。険しいまなざしである。
 「剛くん、俺ら、ほんとに悪気やなかったんや!」
 息を白く弾ませた准一が、必死で言う。だが、剛は険しい表情のままで言った。
 「……おまえたちなんでこんなとこにいるんだよ」
 「……」
 「剛、ごめん、俺、剛の気持ち考えないで……」
 うなだれた健の言葉にも、剛は答えない。
 ふたりに遅れて歩いてきた良枝と敬三が、少し離れたところで立ち止まった。
 「剛くん、三宅くんも岡田くんも、2時間もあなたを待ってたのよ。なにがあったのか知らないけど、話を聞いてあげたら?」
 良枝の声に、剛は、ゆっくりと顔をあげた。剛のまなざしを受けた良枝は、突然、嫌な予感に胸がつぶれる。しばらくそのまま良枝と敬三を見つめていた剛が、かすれた声を出した。
 「お父さん、お母さん……」
 「……」
 「教えて下さい、俺を生んだお母さんのこと」
 「……」
 「なぜ俺がこの家に引き取られたのか」
 「……」
 「お願いです、教えて下さい!」

 ごく狭いマンションの一室。カチャカチャと鍵を回す音が聞こえて、ドアが開く。
 「全く!」
 毛皮のコートの女が、坂本を支えている。
 「酔っぱらいのくせにケンカなんかして!」
 なぐられて顔が腫れあがった坂本が、そのまま、ベットに倒れ込む。顔だけではなく、全身がケガだらけらしい。
 女は急いでタオルを絞って来ると、そんな坂本の顔をふいて、心配そうな声を出す。
 「大丈夫? お医者行こうか?」
 「バカヤロ」
 目をつぶったまま坂本が答える。
 「これくらいほっとけば平気なんだよ!」
 「ふ〜ん」
 邪険に言われて、女はちょっと不満そうである。
 「だけど、あのときあたしがいかなかったら、あんたどうなってたかわかんなかったわよ」
 「……」
 「一匹狼気取るなら、組のちんぴら共には頭下げなきゃいけないくらいわかってるでしょ。あいつらが自分の女にヤク打つからってなんなのよ。あんたに関係ないじゃない」
 「嫌いなんだよ、そういうのは」
 「それは知ってるけど……」
 女の声が急に小さくなる。
 「知ってるけどさあ……」
 女は坂本の隣に座り込む。気の強そうな顔が、急に泣きそうになった。
 「あたし、あんたしか頼る人いないのに」
 「……」
 「あんたになにかあったらどうすればいいのよお……」
 「……」
 「ねえ。教えてよ。どうしちゃったの。……このごろあんたがおかしいの、気がついてたよ。ねえ、昌行。なに荒れてんの」
 「……」
 坂本は黙り、それから唐突に尋ねた。
 「ユリ、おまえ、いくつだ」
 「? ……26よ。あんたより一個下だもん。忘れたの?」
 「そうか……」

 森田家のリビング。
 剛を心配しながらも、健と准一はすでに帰宅している。
 サイドライトしかつけていない薄暗い部屋で、剛は、並んですわる敬三と良枝に向かい合ったソファに一人ですわっている。
 「あの手紙を見たんだな」
 敬三が尋ねる。剛がうなずく。
 「じゃあ、なにも気にすることはないだろう。君のことも、デタラメだらけだ」
 「……」
 黙りこくって下を向く剛を、心配そうに見つめ、良枝がつぶやく。
 「剛くん……」
 「……」
 「なにが聞きたいの……?」
 「良枝」
 「全部……」
 剛は下を向く。
 「全部教えて下さい。お母さんの知っていることを、全部」

 「……今のおまえより若かったんだなあ……」
 「……なによ急に」
 「23だったはずだ」
 「……?」
 「確かそうだ。23なんてまだ、これからだよなあ……」

 「俺を生んだ母親は、あんなことを書かれるような人だったんでしょうか。俺、どうしてこの家に引き取られることになったんですか?」
 「……」
 「俺、母親と別れるとき、どんなふうでした? 平気でしたか? 泣きましたか? 俺の親は、なんで俺を手放したんですか? 俺、そういうことも……、なんにも憶えていないんです」
 
 「死んだときは、どうしてだか、そばに俺しかいなかったんだ。……俺はなんの考えも浮かばなくて、じっと顔を見て、手を握ってることしかできなかった」
 「……」
 
 良枝が、呆然とした瞳で剛を見つめる。剛はふと、その視線に気づき、良枝を傷つけまいと言い足した。
 「いやだったわけではないんです。俺、この家に来たときから、このうちはすごく好きでした。お城みたいに広くてきれいなうちだと思った。こんなにやさしい人たちははじめてだと思った。しょっちゅう、部屋でひとりで、とか、兄ちゃんと、とかで留守番してたから……、夢みたいなところだと思ってました。でも、やっぱり、小さかったから、母ちゃんに会いたかったんだと思います……。母ちゃんと、兄ちゃん。しょっちゅう俺をおいてどっかに行っちゃう兄ちゃんだったけど……」
 良枝の顔を見て、それから剛は小さな声で謝った。
 「ごめんなさい、こんなことを言うつもりじゃありませんでした」
 「……」
 「物心ついてからは、ほんとの子供でもない俺をこんなに大切にしてくれるお父さんとお母さんに、いつも感謝してました。お母さんはやさしくて、お父さんは頼りがいがあって、俺なんかには過ぎた家だって思ってました。ふたりとも俺を大学に入れてお父さんの会社に入れたかったのに、俺の、保父になりたいってわがままも聞いてくれた。お父さんとお母さんに、なんの文句があったわけでもないんです」
 「……」
 「俺を引き取ったときから、連絡は取り合わないと決めてあったんなら、もう、……俺を生んだおかあちゃんは……、どこにいるかはわからないんですね。お母さんにそう言われて、納得しようとしたけど……、あの手紙を見たら……、こんなことを書かれるような……、そんな人だったのかどうか、それだけでも……、お父さんとお母さんが知ってることだけでも……、知りたくて……」 

 「誰か23で死んじゃったのね? 誰のこと? あんたが昔好きだった人?」
 女が言った。ごく、やさしい声だった。坂本は答えた。
 「そんなんじゃねーよ……」

 「剛く……」
 しゃべろうとして、良枝は声をつまらせると、泣き出した。敬三はそんな良枝を見て、それから剛を見た。剛は、険しいとも見える表情で、敬三を見ていた。敬三も剛を見返す。
 「わたしから、大事なことだけ答えよう。その手紙には、君の実父はわたしではないかと想像させる部分があるが、それは全くのデマだ」
 「……」
 「わたしと良枝は君がほんとうにかわいかった。君のほんとうの父母だったらよかったとずっと思ってきた。しかし残念ながら、わたしたちは君を引き取っただけだ。それは、信じてくれるね」
 剛がうなずく。人一倍仲のいい夫婦である敬三と良枝の間に、そんな秘密があるわけはなかった。
 「ただ、君を生んだ方のことは、私はよく知らないんだ。わかっているのは、君がその人の私生児だったことだ。それはほんとうだ」
 「お父さんがよく知らないって、どういう。……じゃあ、俺、どうやってこの家に引き取られて……」
 「剛くん」
 良枝が赤い目をあげた。
 「あたし、あなたがかわいくて」
 敬三が困惑したように良枝を見る。だが、良枝は、今まで押し隠してきたものをはきだすように、話し出した。
 「あたし、ずっとずっと子供が欲しかった。でも、あたしには子供ができないってわかって。……だからあたし、いつも、子供を連れている人を見るとうらやましくてたまらなかった」
 「……」
 「あなたとはじめて会ったのは、あなたがまだ四つの時だった。その年、避暑に出た先で、あたしだけ、知り合いのお宅に寄ったことがあったの。そのおうちは病院だったのだけど、そこであなたに会ったのよ」
 「病院……?」
 「ちょうどあなたのお母さまが検査でそこに入院中だったの。それまで検査を勧めても、あなたがいるから入院するのは嫌だっておっしゃってたんですって。でもどうしても3、4日は入院しないといけないからって、そこの奥様がその間だけあなたの面倒を見ることを約束なさったらしいの。おとなしい子だし、病院だから人手もあるし、なんでもないからっておっしゃってたわ。ほんとにあなた、おとなしい子供だったのよ」
 「……」
 「あたしが見たとき、あなたは誰もいない奥の座敷で、ひとりでぬいぐるみと遊んでた。四つだったはずだけど、とても小柄で、三つより大きくは見えなかったわ。気がついたらわたし、あなたをずっと見ていた。なんてかわいいんだろう、こんな子供がうちにいれば、って、きっとそんなことを考えてたんでしょうね。そのうちあなたが私に気がついて、わたしをじっと見たの。黒い目で不思議そうにじいっとね。わたし、泣きたいほどうれしくなって、声をかけた。「お名前は?」って。あなた答えないで、まだ、わたしをじいっと見てたわ」
 「……」
 「そして一日中いっしょにいたの。小さな子供と手をつないで街を歩くのが誇らしかったわ。「かわいい坊ちゃん」って何度も言われた。わたし、あなたに麦藁帽子を買って、アイスクリームを並んで食べた。あなた、うれしそうな顔をしたわ」
 良枝の声は、だんだんはっきりしてきた。敬三はなにも言わなかった。剛は、息を止めて話の続きを待った。
 「でも、もちろん、それだけ。次の日にわたし、あなたがお母様と病院から帰っていくのを二階の窓から見たの。あなたがお母様の顔を見上げて、うれしそうに笑うのが見えたわ。あたしといるときより、ずっとうれしそうな顔だった。あなたを見たお母様の顔は見えなかった。わたしはとても悲しかった」
 「……」
 「うちに帰ってから、そのお医者様の奥様にすぐに手紙を出したわ。あなたのこといろいろ知りたかったの。そして、あなたにお父様がいないこととか……、お母様の病気が悪性だってことを知ったの」
 「……?」
 「……それを聞いたとき、ああ、やっぱりって思った。なんとなくはじめから気がついていたの。この子のお母さんはもう治らないんだって……」
 誰もなにも言わなかった。いつものリビングが暗い闇に沈んでいるように見えた。
 「敬三さんにも相談して、お医者様からお母様にお願いしてもらったの。あなたを引き取りたいって。返事はもらえなかったけれど、私たちがあなたを育てた方がどれだけいいか、何度も何度もお手紙を書いた。あなたのお母様はホステスとか、そういうお仕事をして、女一人であなたを育てているって話だったわ。詳しいことはわからない。検査の結果がわかってからもまだ無理をして働いていたみたいだったけど、病気がどんどん悪くなるのはどうしようもないでしょ。とうとう倒れて病院に運び込まれたと聞いたとき、わたしは急いで駆けつけた。もちろん、あなたを引き取るためよ。……いけなかったかしら……」
 良枝は敬三の顔を見上げた。敬三は苦虫をかみつぶしたような顔で、良枝の肩を抱いた。
 「いけなかったかしら。身よりもお金もなくちゃ、病気だって直せない。あなたのことだって、あたしたちがちゃんと見てなければ、あの人一人じゃどうしようもなかったはずよ……」
 「良枝……」
 「その方の苦しみが、あたしの幸せだったのね。あたし、それからほんとに満ち足りたの。もう、どんな子供を見てもうらやましくなかった。あたし、あなたを引き取って、幸せだったわ、ずっと」
 良枝が口をつぐんだ。剛が、不思議そうに良枝を見た。
 「俺、それからこのうちに……?」
 良枝がうなずいた。
 「それで……?」
 剛に尋ねられ、少しの沈黙のあと、良枝が、やっと聞き取れるくらいに小さな声で言った。
 「一度だけお手紙をもらったわ。子供をお願いしますって。ただ、どうかひとめ会わせて下さいって」
 「良枝……、もういいじゃないか」
 敬三が言った。だが、良枝は続けた。
 「その手紙を読んで、あたしは迷った。せっかくあなたはうちに慣れてきていたのに、今また母親に会わせるのが怖かった。会わせたりしたらもう永久にあなたの心をつかめないような気がして。でももちろん、その人の気持ちは誰よりわかってたのよ。ほんとうは、毎日だって子供の顔が見たかったに決まっているの。闘病するのに、どんなに励みになったかわからないの。それなのにわたしは迷って……」
 剛は、ただ黙ってそれを聞いていた。良枝が、再び両手で顔を覆った。敬三が良枝の肩を抱いた。
 「そうしてある日、その方が亡くなったって電話を受けて……」
 「……」 
 敬三が、もういいと言うように良枝の肩を抱いた手に力を込めた。剛は、無表情に目の前のふたりを見つめた。 
 今までにも、何度も考えたことだった。
 おかあちゃんは死んでいるのかもしれない、と。今もそうだ。良枝の話がどこに行き着くのか、そんなことは聞き終わる前にわかっていた。だから自分は、そんな話でなにも変わらないはずだった。
 「……ごめんなさい……」
 良枝が掌の下からつぶやいた。
 剛は、黙って良枝を見たままだった。
 「君にこのことを知らせなかったのは、お母さんのせいじゃない」
 敬三が、苦々しい表情で言った。
 「わたしがそっとしておいた方がいいと言ったんだ。君はまだ子供だったんだよ」
 「……」
 「小さな子供に理解できることではなかったんだ。しようがなかった。そんなに急にその方が亡くなるとは誰にもわからなかった。私たちは出来る限りのことはした。君にもわかってもらえると思う」
 剛は、うつむいたまま素直にうなずいた。
 「もう、あんなくだらない手紙のことは忘れた方がいい。君を生んだ方もいろいろ苦労しただろうが、すべて終わったことだ。君はもう、わたしと良枝の息子以外のなにものでもない。森田家の一人息子で、近々井ノ原家の跡取りと結婚する。それが、現在の君だ。昔のことはそっとして、徐々に忘れるしかないんだ」
 はい、と答えようとして、剛は、その声がでないのに驚いた。
 剛は、顔をあげて、敬三と良枝の顔を見た。
 「……ません……」
 自分でも想像しないつぶやきが、口から漏れていた。敬三と良枝が、不審そうに剛の顔を見た。
 「忘れられません……。俺……」
 「剛くん……?」
 「俺、俺の憶えていることは……」
 なんだかわからないものが胸に突き上げてきて、剛は、自分を止めることができなかった。
 「……この家に来たころ、おかあちゃんはいつ迎えに来てくれるんだろうって、そう思って毎日待っていたことだけです……」
 小さな声だったが、静まり返った部屋の中で、その声は敬三と良枝にはっきりと聞き取れた。
 「そのうちだんだん、おかあちゃんはもう来ないってわかってきて……、それでも、大人になれば会えるんじゃないかと……、いつも、そう……」
 「ごう……」
 良枝が声をかけようとしたとき、剛が立ち上がった。
 「忘れたり出来ません。俺、俺はずっと……!」
 「剛くん待って!」
 良枝が呼び止める間もなく、剛はあとも見ずに部屋を飛び出している。良枝と敬三は顔を見合わせると、すぐにそのあとを追う。
 だが、ふたりが部屋を出るとすぐに、ばたん、と大きな音が廊下に響いた。玄関のドアが閉まった音だ。良枝はあわてて玄関に急ぎ、ドアを押して自分も外へ駆け出す。
 「剛くん!」
 外は、身を切るような寒さである。スクーターのエンジンの音が小さくなる。 
 「剛くん、帰ってきて!」
 良枝が叫ぶ。
 「お願い!」
 良枝は門を出て、ぼんやりと外灯の並ぶ道路を見回すが、冬の深夜の道には人影もなく、もちろん、もう剛の姿はどこにもない。気がつくと、隣に敬三もいる。
 「あなた……」
 良枝はすがるように敬三を見上げる。
 敬三は、黙ったまま良枝の肩を支える。
 「もし剛くんが……」
 「……」
 「もう帰ってこなかったら……」
 「バカな」
 そう言ってから敬三は、身を翻した。
 「捜してみよう。君は中で待っていなさい」
 敬三は一度玄関に入ると、ジャケットを羽織って、駆け出していく。それを不安そうに見送る良枝。

(続く)


 まだ風は冷たいけれど、気がつくとずいぶん日が延びていますね。「剛くんの結婚」も、だんだん終わりに近づいているような……

(1999.3.13)


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