diary
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5月7日 (金)  朗読の授業

今日の桑沢の講義は、建築と本について。と言っても、建築と言葉、建築と本というテーマの抽象的な話を長々とするのではなく、実際に僕がいくつかの本を数ページずつ読み上げるという趣向。内容もさることながら、いい文章というのは、いいリズムを持っている。それを知るには、音読してみせるのがいい。本に慣れていないと、なかなか本に入れないといった経験は、誰にでもあるだろうが、それはその本のリズムにうまく乗れないというのも、理由の一つだと思う。だから実際に読んでみせるということが、なかなか効果的なのだ。こうした講義は、これまでに何度かしてみたことがある。

まずは、ボルヘスの『砂の本』。建築に限らず本を手に取ること、そして実際(当たり前だが)、いい本というのは建築以外の本の方がずっと多い。一方で、ボルヘスのこの話のように、小説でありながら、空間的なものなど、建築や都市を考えるのに、いいきっかけとなるものもある。

実際、どの本を読むかという選択は、難しい。といいつつ、どれにしようかと、いろいろ本をめくるのがまた楽しいのであるが。小説としては、カルビーノの『見えない都市』がまず浮かんだが、どのページを読んだらいいか迷ってやめた。露伴の『五重塔』は、文体が古すぎて難しくて、断念。三島の『金閣寺』は何度か取り上げたことがあるのだが、今回本棚の中に埋もれて出てこなかった。

引き続き、取り上げた本は、
安藤忠雄『旅』
乾久美子「ウサギをめぐる秩序の話」
リベスキンド『ブレイキング・グラウンド』
篠原一男『住宅論』
鈴木了二『建築家の住宅論』
ルイス・カーン『私は元初を愛する』
アドルフ・ロース『装飾と犯罪』
井上靖『きれい寂び(村野藤吾論)』
原広司『空間〈機能から様相へ〉』

(イマム)


5月6日 (木)  ジェネリック・シティ豊洲 / 土曜オープン・アトリエ

午後、打合せのために豊洲の芝浦工大へ。豊洲は数カ月ぶりに訪れると、新しい巨大な塊が出現していて、街の密度が変わっているという不思議なところ。レムが、ジェネリックと名付けるような、まさに無個性なビルが自動的に次々とできてくる。そうした状況が何年も続いている。(写真左)

そういえば、丹下健三さんの赤坂プリンスホテルの閉鎖のニュースが最近あったが、数日前に前を通りかかったところ、青空の中にすくっとしていて美しかった。おそらく取り壊しとなってしまうのであろうが、できた当時よりも今の方が、このデザインは受けいられる気がする。丹下さんの先見の明かそれとも、単に時代が変わっただけか。(写真右)

新宿に移動し、久しぶりに美術評論家の小倉正史さんとお会いしておしゃべりをする。

(イマム)


5/29に、アトリエ・アンプレックスにて下記の土曜オープン・アトリエを開催します。

http://www.atelierimplexe.com/openatelier.html

(みなみ)

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5月5日 (水)  悲夢

一昨日のことだが、DVDで韓国映画「悲夢」を観た。キム・ギドクという監督の近年の作品で、韓国の映画監督で誰がいいかと聞いたところ、この監督を薦めてくれた兄の話しでは、初期作品の方がベターとのことであったが、確かにストーリーとしては今一つ終わりの方に納得できないところがあるものの、飽きさせずに見せる展開と、画面の美しさから、はじめて観たキム・ギドクという監督の実力はうかがい知れる。この監督の映画を、続けて観たいと思う。

主演のオダギリジョーは、まさにはまり役といった感じであるが、オダギリジョーは毎度そのように思える不思議な俳優だ。

映画のサイトにて予告編が見られます。
悲夢 http://www.hi-mu.jp/

今日の夜は、TVで韓国ドラマ「アイリス」を観る。

(イマム)


5月4日 (火)  建築はどこにあるの?

昨日のことだが、国立近代美術館にて、7人の建築家によるインスタレーション「建築はどこにあるの?」を観た。一昨年の青木淳とペーター・メリクリの展覧会が同館におけるはじめての建築展と聞き、その時はそうかと思ってが、実は1986年に「ポストモダンの建築展」という大規模の話題を呼んだ展覧会が行われている。なので、新作展もしくは自主企画展という点では、それまで行われていなかったということかもしれない。いずれにせよ建築展の開催は歓迎すべきことだ。

インスタレーションとうたわれているし、建築家が手掛けるのであるから、単なる大きなオブジェではなく、空間を上手く使っての展示が期待される。(そうした点からは伊東豊雄さんの展示は不足であるし、これまでいくつもの画期的なインスタレーションを手掛けていることからするとかなり意外であった。)

早くも多くの好意的な評が見受けられる中村竜二さんの今回の展示は、この規模であることからオブジェと空間の間の微妙な位置を得ている。

鈴木了二さんも、実際に設計中の住宅を縮小して展示することで、実際の建築と模型の中間の状況によって、空間の構成を際立たせている。

であれば、中山英之さんの、計画案をやはり縮小した展示も面白かったかと問われれば、メルヘンやファンタジーで語りうるある一群の作品群には、個人的に興味が持てないので、きちんと見なかった。

実際に作品の力ということでいうと、たまたま機会を与えられた建築家と比べると、常にそうした状況と向かい合っているアーティストの方が格段に優れていると思う。そう言ってしまうと身も蓋もないが、妻有トリエンナーレなどで、僕自身も参加する中では、その実感はまず間違いない。であるにもかかわらず、建築家がインスタレーションをする意味は、建築家なりの感性なり視点がなしには見出せないと思う。上述の伊東さんが20年前にロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート・ミュージアムで行ったインスタレーションは、まさに建築家でなければできない表現と視点があったし、そうした点からすると、今回の展示でもかなり美しいものであっても、なぜ建築家がそういう表現を行ったかが見えないものは、何かが足りないように思えた。

(イマム)


5月3日 (月)  理科大エスキース

午後、近所の喫茶店にて、理科大の4年生二人のエスキースをする。

この授業は今年から担当しているのだが、専任教員が小嶋一浩さんと伊藤香織さん、それに非常勤が、僕のほか西沢大良、藤本壮介、藤原徹平、柳瀬純孝(SANAA)、福屋粧子、長田直之、藤村龍至、長谷川豪(敬称略)の計11名という贅沢な陣容。と言っても、学生はこの全員の指導を受けられるわけではなく、自分が属するスタジオが決まりその先生と一学期過ごすという仕組み。外国のユニット制のようなやり方だ。しかも、課題内容、エスキースの日時、回数もすべて教員に一任されており、エスキースはどこで何度でもいいという自由さ。メンバーを見てもわかる通り、多忙を極めた人が多いので、その建築家の事務所で隔週でエスキースをするというのが、標準的なパターンの様だ。それは、理科大のキャンパスが、都心から離れているためでもある。最初のガイダンスと最終講評会のみ、全員一緒に行われることになっている。

GWの前の週のユニット・ミーティングを南洋堂の4階をお借りして行ったのだが、この二人は不測の事情で参加できなかった。しかし、その後連絡をしてきて、休み中だがエスキースをして欲しいとのことだったので、そのように意欲的であるならばと、本日行った次第。

僕も大学四年の前期の課題が、非常勤の先生を一人選びプロジェクトを行うというものであり、僕は運よく内藤廣さんの指導を受けることができた。そして、プロジェクトの終盤、授業とは別の日にエスキースを希望したところ、内藤さんも時間を割いてくださり、事務所の下の喫茶店で付き合ってくれた。そうしたことを思い出した。

(イマム)


5月2日 (日)  『ヒューマニズ建築の源流』などを借りる

2週間ほど前、設計製図の授業で工学院大学に行った際に、同校の図書館で、アンソニー・ブラント著『イタリアの美術』とルドルフ・ウィットコウアー著『ヒューマニズ建築の源流』を借りた。

なぜこれらの本かという背景を簡単に説明すると、建築批評家コーリン・ロウがマニエリズムを理解するにあたって参照としたのが、ブラントとペヴスナーであり、ウィットコウアーの『ヒューマニズ建築の源流』は、パラディオのヴィラの平面分析のダイアグラムなどによって、直接的にロウの「マニエリズムと近代建築」に影響を与えている。つまり、ともにロウに関連してということである。

『ヒューマニズ建築の源流』は、建築ブックガイド『建築の書物/都市の書物』にも4ページを割いて取り上げられている通り、ルネサンス建築に関する基本文献であり、古典であろう。

さて、工学院の図書館は、いまだに貸出システムが旧来で、昔はどの図書館でも使っていた貸出期限票が付いていて、今でもそれに返却日がスタンプされる。(返却日をすぐに確認できるので重宝する。)

『ヒューマニズ建築の源流』のものを見ると、僕の前に借りた人の返却日は、昭和54年11月13日となっていて、今から30年も前の日付。本が読まれなくなったとか、その後写真も豊富な類書がいろいろあるという事情を考慮しても、基本文献が大学の図書館から、30年も借りられていないという事実はかなり意外である。

僕の選書が偏狭過ぎるのかと動揺しつつ、『イタリアの美術』の方も確認すると、前回の返却日は平成5年7月と5年前。ほっとしつつも、前々回は昭和44年6月7日。しかもそれが初回の貸出であり、この本はこれまで40年間で、僕を含めて3人しか借りていないことになる。

2冊とも、図書室にある書架ではなく、地下の倉庫に並んでいたもので、ここで僕が読まなければ、次に読む人はいないかもしれない。

(イマム)


5月1日 (土)  1Q84 BOOK3 と翻訳

村上春樹著『1Q84 BOOK3』読了。BOOK3を読むにあたって、BOOK1から読み直し、今日BOOK3を終えた。

村上春樹については、すでに多くのことが知られているから、文章を練り上げる描写や、体のメンテナンスをする描写において、著者と重ね合わせることも楽しみながら、読み進めることとなる。

BOOK1のかなりはじめのところに、以下のような文章がある。天吾がふかえりの文章を書き直すくだりだ。

「一読して理解しにくい部分に説明を加え、文章の流れを見えやすくした。余計な部分や重複した表現は削り、言い足りないところを補った。ところどころで文章や文節の順番を入れ替える。形容詞や副詞はもとよりもともと極端に少ないから、少ないという特徴を尊重するとしても、それにしても何らかの形容的表現が必要だと感じれば、適切な言葉を選んで書き足す。(p127)」

僕はこのところずっと翻訳に取り組んでいて、この内容の感触が結構わかる気がする。もともと自分の文章でないものに手を入れ、直訳のままではものにならないので、意味が通るようにしたり、リズムが良くしたりできないものかと、工夫し改稿し、とはいえどこまで原文からいじっていいのか躊躇し。

当初は、呆然とするほど先が見えなかったが、少しずつ輪郭がはっきりし出し、まだ最終形は見えないものの、手応えはある。まだまだ全部を終えるにはかなりの時間が必要ではあるものの。

(イマム)


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