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【柴田 徹 : 中沢貝塚における主要石器の岩種組成 2003年3月】


2003年3月31日発行『鎌ヶ谷市史研究』第16号より。自ら石材鑑定を行った鎌ヶ谷市内の縄文時代遺跡、中でも充実した資料を提供してくれる中沢貝塚について、出土石器の石材岩種を分析し、その組成について検討した。

その結果、縄文時代人たちは、石器の用途に応じて用途にあった石材を選択し、石器の種類に適した石材のある場所や地域から、遺跡に運び込んでいたことがあきらかになった。
縄文時代人たちの石材を選ぶ目は確かなものである。

鎌ヶ谷市の位置する下総台地やその周辺には、石器に使えるほどの硬さや丈夫さを持った石はない。

また、中沢貝塚はじめ下総台地の遺跡を見る限り、石鏃を除き石器を作った痕跡がない。石材としてではなく、
石器として持ち込まれたとしか考えられない。

また、縄文時代の中期と後期・晩期では、石材の移動に少しの違いが存在する。このことが意味することについては、明確に言うことはできないが、何らかの時期による変化を示している。

実は、
石器石材の採取できる場所をはっきりと知ることは、黒曜石のような特別な種類の石を除いて、現状では極めて困難なことである。

しかし全く不可能なわけではない。研究方法を工夫することにより、石器石材が採取できるおおよその場所、もしくは石材のやって来た方向について推定することができれば、おおよそではあるが、石器時代における石材の移動や人の移動、地域間の交流がどうであったか知ることができるはずである。

鎌ヶ谷市内の代表的な3遺跡の分析結果と、松戸市、市川市、我孫子市、そして東京都調布市の遺跡を比較しながら検討してみると、
縄文時代において、古東京湾、さらに古鬼怒湾などの入り江は障壁ではなく、通路としての役割を果たしていたと考えられる。

岩種組成からは
いろいろな場所との交流が見えてくる。自給自足の社会ではなく、当時の人々にとっての合理性をもった社会活動が行われていたのではないだろうか。



※ 図をクリックすると拡大図がご覧になれます。

中沢貝塚における主要石器の岩種組成(柴田徹,『鎌ヶ谷市史研究』第16号,2003.3)




※ 図をクリックすると拡大図がご覧になれます。

打製石斧の岩種組成(柴田徹,『鎌ヶ谷市史研究』第16号,2003.3)




鎌ヶ谷市内出土の石器に使用された主な岩石の移動

石器
使用される岩石
推定される産地と移動ルート
打製石斧 ホルンフェルス、砂岩、片状砂岩 多摩川流域の武蔵野台地方面から、石器の形で奥東京湾を越え運び込まれたと推定される。
緑色岩 荒川中流の長瀞近辺の地域から
安山岩、石英斑岩 渡良瀬川中流域もしくは利根川中流域から(データ不足のためどちらかは不明)
磨製石器 石器自体がかなり広い範囲を動いている可能性がある。石材の分布のみから言えば、荒川中流域の長瀞付近から群馬藤岡付近までの地域、茨城県北部の町屋周辺、更に遠くの石材が使われた可能性を考えられる。
磨石類 砂岩 採集可能な場所が多く限定できない。
石英斑岩、流紋岩、安山岩 渡良瀬川中流域もしくは利根川中流域から。一部、鬼怒川中流域からの可能性も否定できない。利根川もしくは渡良瀬川を下り、奥東京湾を舟で運ばれたと推定される。
花崗岩 渡良瀬川もしくは筑波山周辺から
斑れい岩 筑波山周辺
石皿 多孔質安山岩 渡良瀬川中流域もしくは利根川中流域から。
結晶片岩(緑泥片岩、絹雲母片岩) 長瀞周辺
石鏃 黒曜石 ほとんどは神津島から古東京湾を経由して舟で運ばれたと推定される。
チャート 足尾山系のものが渡良瀬川を下り、奥東京湾を舟で運ばれたと推定される。確実性を高めるため奥東京湾沿いの遺跡の検討が必要。
石剣
・石棒
緑泥片岩 長瀞周辺から奥東京湾を経由し舟で運ばれたと推定される。
粘板岩 産地不明。茨城県中部に製作遺跡が多く発見されている。茨城県中部地域から何らかの方法で運び込まれた可能性あり。今後の課題のひとつである。



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