

三人姉妹で末っ子の私には、2人の姉がいる。長女として生まれ姉は時代が悪かったのか、幼い時から自分を抑え続けていた。そのせいか私は今でも姉の心が掴めない。下の姉は何処か母に似ている。私は昔からこの次女が大好きだった。我が家は貧しかったので、姉達は中卒で働きに出た。給料はおこずかいを少し残し、後は全部家に入れていた。それでも私のお気に入りの姉は、給料日になると高校生の私に、毎月必ず食事をおごってくれた。行儀の悪い私はこの時ばかりと、食べられもしないのにあれも、これもと注文した。そして最後には「美味しくない」と言って殆ど残し、姉を何時もガッカリさせていた。
姉の外見は私とは似ても似つかない。小柄で色白のキュートな女性だ。結婚式の時、姉の幸せそうな顔が、あまりにも美しくて思わず見とれてしまった。私は自分を知っているので、結婚式には何の興味もなかった。しかし姉は「式を上げないと結婚祝いがもらえない」と言い「私が家で親戚を招待する」と私に宣言した。姉は料理からセッティングまで、全て一人でお膳立てしてくれた。今から思えばあの後、膨大な洗い物や片付けをどうしたのだろう。きっと深夜までかかってやったのだと思う。私はお腹いっぱい食べお祝金を受け取り「それじゃーバイバイ」と軽く言ってはじめちゃんと一緒に帰って行ったっけ。それにあの後、姉に何のお礼もしなかった。その上姉はローンを組んで私の新居の電化製品を全部買いそろえてくれた。恐るべし気前のいい姉だ。お互い結婚をした後でも、タムムちゃんと3人でプールに行ったり、姉のパートの終わり時間に合わせて、一緒に食事に行ったりしていた。私は姉と話をするのが大好きだった。気の良い姉は、私の頼みを一度も断った事がない。高い化粧品を買わされたり、合わない服や物を買ったりした時は、姉の出番だ。姉はそれらを全部買い取ってくれた。
「女ばかりで跡継がいない」と嘆げいていた父に、姉夫婦は「養子縁組」を快く引き受けてくれた。それから姉は母と40年間同じ屋根の下で暮しあの気難しい父の面倒も、文句ひとつ言わず最後の最期まで見てくれた。
母のC型肝炎が見つかり亡くなるまでの14年間
姉は有り余る思いやりで母を看護してくれた。
母には最高のものを身につけさせ最高の物を食べさせ
「お母ちゃんの喜ぶ顔が見たい」とパートを辞めず
母に出来る限りの事をやってくれた。
なのに姉は母が亡くなった時「もっとやって上げれば
よかった」と泣き崩れた。母に迷惑と心配だけをさせた
私は姉の愛情の深さに立ちすくんだ。
母が姉を産んで60年
二人の絆の強さに立ちすくんだ。
私は知っている。
母の看護で姉の体がもうボロボロだった事を。
私は知っている。
子供に帰った母が何時も姉を探していたのを。
母は姉夫婦と暮らすようになってやっと幸せになれた。
優しい姉と、優し義兄と、可愛い孫とその孫の家族に
囲まれ母は幸せだった。
「1日でも長く生きたい」と母は口癖のように言い
「これが今の私の仕事」と一生懸命食べる努力
をしていた。母は一番お気に入りの娘と暮ら
せたのだ。こんな幸せは何処にもない。姉はズート
親孝行し続けていたのだ。こんな良い娘何処にも居ない。
姉は今でも「おかあちゃーん」と子供みたいに
母を恋しがっていると思う。恋しがればいい。
「おかあちゃーん」と叫べばいい。
母は何時も姉の傍に居ると思う。
幸せだった日々は消えることはないのだから
泣きたい時は思い切り泣けばいい。
お姉ちゃんには泣く権利があるのだから。
胸を張って泣けばいい。
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