
大好きな母が、85歳で人生の幕を閉じた。
私が結婚する時「頼むから遠くに住んで」と母に言わせた私は、最悪の子供だった。野放しに育った私は、小学生の頃、授業中なのに、一番前の席で下敷きにフケを集め、ノートの切れ端で箱を作り、ままごと遊びをしていた。休み時間になると私同様、アホな男の子と追いかけごっこをして、キャッキャと遊んでいた。通知表は、10点満点のうち1と2がバランスよく並び、評には「忘れ物多し、注意力散漫」と卒業するまで同じ事が書かれていた。好奇心の強い私は何でも口にした。砂までは食べたが、ウンチはお箸で分解したら薄い繊維みたいで食べる気にならなかった。人形ケースのセルロイドが気になり、燃えたらどうなるのか知りたくなって、火を点けた。隣のラジオが燃えだし私は慌てて公園に逃げた。家は無事だったが近所の人にこっぴどく怒られた。鼻の穴に親指を入れて「ほら見てみー、入るねんでー」っと自慢していたら、鼻の穴が大きくなった。
そんなどうしょうもない私を、母は一度も叱らなかった。
それをいい事に、脱いだら脱ぎっぱなし、出したら出しぱなし、歯も磨かず、顔も洗わない行儀の悪い人間に私は成長した。中学生になった私は、少し人間らしくなり歯を磨き、顔も水で洗うようになった。部活にも入り人並みになった。だが母への甘えたは続いた。クラブ活動で疲れていた私は、食べると直ぐに寝てしまう。当時は外で練習していたのでお風呂に入らない私の体は、砂と泥で真黒に汚れていた。見かねた母は、小さな体で私をおぶり、銭湯に連れて行き、まだ眠っている私を綺麗に洗ってくれた。
高校に入り、早朝練習が始まった。何時も遅刻気味の私は、自転車で20分掛かる坂道をグングン飛ばし、駅に自転車を放り投げていた。母は私の後を走って追いかけ、投げられた自転車を家まで押して帰っていた。それでも、母は叱らなかった。そんな怒らない母が一度だけ手をあげた事がある。夜中にお腹が空いて、目を覚ました私は「おにぎりが食べたい」と母に言った。母は縫物をしながら「お米がないの」とサラッと言った。腹が立った私は「そんなら前の梶さんに借りてきて!」と切れた。それと同時に、私の鼻から血が流れていた。たまりかねた母の一撃は、見事なものだった。それ以来私は母に無理を言わなくなり親離れに成功した。
親離れはしたが、私は全く家事の出来ない人間になっていた。
一人暮らしをした時、泥棒に入られた。犯人は同じアパートに住む隣の若い男女だった。
警察が来て私の部屋を見渡し「こんなに散らかしてるのが、いかんのだ」と
一緒に来ていた義兄と2人で怒られた。もちろん「取られたんは私やでー」っと言い返したが、たしかに何を取られたのか、全部は把握出来なかった。
母の口癖は「働かざる者食うべからず」だった。私が勤めを辞めると言ったら、何時も反対した。
我儘に育った私は「人の人生にゴジャゴジャ文句言わんといて」と小さな母に怒鳴った。
私に、貰い手がないと諦めていた母は、結婚が決まった時手放しで喜んでくれた。
私は母の元を離れたかった。何故なら「親は子供より早く死ぬ」。
私は母を愛しすぎていたので母の死を受け止める勇気がなかった。
私は早くから、母が死んでも大丈夫な人間になろうと思っていた。
母の事を思うと涙が出る。小学6年で奉公に出て
、評判の悪い父と結婚して、働き蜂のように働き
父の暴力にも、文句ひとつ言わず、
ただただ、忙しそうに動いていた。
母が亡くなる2年前、お見舞いに行った私に
「今度来る時は葬式で良いからね」
と貧乏になった私を気遣った。そして
「何にもしてあげられなくてごめんね」
と涙を流した。私は恥ずかしかった。
親孝行出来ない自分が情けなかった。
母のように謙虚になりたい。
母のように可愛くなりたい。
母のように良い人になりたい。
母のように人を愛したい。

