

18歳の時、淀川長春さんの言葉が胸に染みた。「私はすべての人を同じぐらい愛したいので結婚はしません」確かそんな内容だったと思うが、「何と美しい考え方だろう」と衝撃を受けた。良い子に憧れていた私は、その時から性別を失くした。25歳になった時、フト寂しくなった。大好きな母には父がいる。大好きな姉には義兄がいる。私にも、私だけを見つめてくれる人が欲しいと思った。それは世間で言うと「結婚」だと分かった。良い子になるより、淋しさを埋める決心をした。顔見知りの男の人を、勝手にリサーチした。「何色が好き?好きな食べ物は何?血液型は?干支は何?星座は?」なんて聞きまくり,その中で気に入った人に聞いてみた。「結婚してくれへん?」。私は見事に断られた。しかし運命は始めから、決っているのかも知れない。最後に、はじめちゃんに聞いたら簡単に「うん」と答えた。私は「じゅあー明日結婚しょう」と言った。すると17歳のはじめちゃんは「まだ養えないから、もう少し待って」とシッカリした事を言った。毎日一緒に居たいのに「バイバイ」と帰らないといけない状況が、私には耐えられなかった。逢う度、グジグジ文句を言って終電まで彼を引きとめた。その頃のはじめちゃんは父親に勘当されていた。彼の父親は京都の奥の奥で高校の教師をしていた。彼はそこの高校に入ったが、馴染めず高1の始め、学校に行かなくなった。それまで優しかったであろう父親は、人間が一変し彼の人格を認めなくなった。漫画家になりたいと言った彼を、父親は激怒した。その時、彼の中で何かが壊れた。彼は大阪に住む伯母を訪ね、15歳で家を出た。私は伯母さんともすぐに打ち解けた。伯母さんの火鉢で作る善哉は絶品で、私は、伯母さんが大好きになった。すぐに調子に乗る私は、さっそく伯母さんに「はじめちゃんと私どっちが好き?」なんて聞いた。伯母さんはハッキリした声で「はじめちゃん」と答えた。結婚はしたいと思ったが、私は母や姉が大好きだったので、他の籍に入るなんて考えてもいなかった。それに、はじめちゃんの事は大好きだが「誰誰の奥さん」と呼ばれるのがたまらなく嫌だった。たぶんそれは自分自身に確固たる自信がなかったからだと思う。何をしたいのか、どうなりたいのかなど、全く掴めずにいた。しかし結婚してすぐ彼の籍に入った。何故なら、私は交通事故に遭い、加害者の人から「主婦の方が1日の補償金が多く出る」と教えてもらったからだ。聞いたとたん私は市役所に飛んで行った。そんないい加減でズボラで、サボりの私は、何時も私を引っ張ってくれる「尊敬出来る師」を求めていた。半年間、待たされてやっと結婚した時、彼にそれを求めたが、彼は「自分で見つけなければ意味がない」と言った。彼は私のする事に一度も口を挟まず、私が何をしても何の反対もしなかった。彼によって救われた言葉がある「自分のやった事に後悔をしない」。気性の激しい私は、よく友達と喧嘩別れをした。その度、その言葉を思い出した。だから何時も、スッパリと明るく生きてこれたような気がする。それと私がいちばん恐れていた「死」についても彼の言葉で怖くなくなった。「死後の世界は自分が望む、そのままの姿で存在し、自分の魂も望めば続いて行く」死んでしまったら自分の存在がなくなるのではないかと思っていたので「生きているうちに、しっかりした自分の世界観さえ持っていれば、自分に終わりはないのだ」と、すごく安心した。私の結婚生活の理想は「作家同士が切磋琢磨して成長していく」事だった。だから詩を書いたりして、何となく他の人とは違うタムムちゃんを同居人に選んだ。家なきっ子のタムムちゃんは2つ返事で乗って来た。私の結婚生活はまさに理想そのものだった。彼とは映画鑑賞の趣味も、テレビのお笑い番組の
趣味も、落語の趣味も、音楽の趣味もすべて気が合い
まるで私達は一心同体だった。彼は頭もよく、何を質問しても
スラスラ答えてくれるので「人間百科事典」と呼んでいた。
彼はどんな時も、私が頼み事をするとニコニコ笑って
何時も機嫌よく聞いてくれた。幼児癖の抜けない私は
クッパや尻取り遊びが大好きで、彼の顔を見るたび
「グッパ」っと手を差し伸べた。もちろん彼はどんなに
忙しくても、すぐに乗ってくれた。
30年間ズーット一緒だったのだもの。幸せすぎて
幸せすぎて、人生に悔いはないのだが、残された身としては
もうひと頑張りしなければ、ならない何かがあるような
気がする。彼のように命を掛けて生きていかなければ
ならない何かがあるような気がする。その何かを追い求めて
生きてきたのだから、早く見つけて努力して掴んで
彼に逢った時
「よく頑張ったね」って言ってもらいたいなー。
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