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漫画は映画で言うと脚本からカメラ、照明、演出、おまけに出演者や景色までの全てを、何も描いていない一枚の白いページに息を吹き込む。そんな大それた世界に私のようなアホな子が通用する筈はないと思っていた。始めから諦めている私がプロになれる訳はないが、当時は4コマブームが到来して私の漫画も6、7回は雑誌に載った。しかしそれ止まりだった。42歳になってしまった私はさすがに焦った。積極的な自分になってみようと思った。漫画の新作を3作描き、持ち込みをしょうと決心した。しかし私はそんな事をする人に、憧れているだけの自分を知っていた。土台無理だと分かっていた。それでもやらなければならないと何故だか意味は分からなかったが行動に出た。結果はもちろん1社も引っかからなかった。何でも、ながら族の私は売り込みのついでに、武道館で行う筋肉少女隊のライブを計画の中に入れていた。と言うより本命はそっちだった。だから「今度違う作品を持ってきなさい」なんてある出版社から言ってもらったのに、重く受け止めなかった。人生は真剣に生きていないと結果は出ない。私は、はじめちゃんの庇護の元、ただ、ただ、甘えて遊んでいただけだった。そしてとうとう私は50歳になってしまった。笑い事ではもうすまされない。人生の最終章に入ってしまった私は賭けに出た。漫画の応募作品に落選したらキッパリ漫画を諦め、平行して作っていた、人形の道に進もうと心に決めた。私の漫画は見事全社に落選した。そして私は50歳にしてやっと人形作家を目指した。物語の好きな私は、人形をカメラに収め1冊の本にしょうと考えた。当時はじめちゃんは漫画界から外され新天地を求めていた。彼の書く詩が大好きだった私はコラボを申し出た。そこで誰が写真を撮るのかが問題になった。機械音痴の私はタムムちゃんにカメラ担当をお願いした。他人に厳しいタムムちゃんは「自分で責任を持たなあかん」とあっさり断った。何の力にもなってくれないタムムちゃんに腹が立った。散々タムムちゃんをけなしたがタムムちゃんは知らん顔していた。仕方がないので、自分でカメラを覚える事にした。私はカメラにのめり込んだ。私は毎日、毎日一日も欠かさず、リンゴちゃんの紐を腰に括り付け、ベルトに折りたたみの椅子をぶら下げ人形片手に、カメラを首に掛け、雪の中でも何時間もリンゴちゃんを連れて撮影にのめり込んだ。1年を掛けて「ビリン」と言う1冊の本が仕上がった。そして売り込み。名のない詩集は、自分よがりと取られ会ってさえもらえなかった。私は人形の完成度の低さを知っていたので今度は人形創りにのめりこんだ。生まれて初めての個展は、心臓がドキドキして足がすくみ、自分で立つ事が出来なかった。横を見るとポーッとしたタムムちゃんがいたので在廊をお願いした。私は今でも個展は苦手だ。何だか自分の作品を売ることが、買ってもらう相手の人に「悪いなー」なんて思い、とっても恥ずかしい。それでもそれで食べていくためにはこの考え方を払拭しなければならない。そのためには自分の作品に自信を持つことだと思った。私は、より以上人形制作に打ち込んだ。そして、この道を進んで行こうと決めた時、
はじめちゃんが亡くなった。残されたのは私とタムムちゃんと
リンゴちゃん、ネコちゃん。母に甘え、はじめちゃんに甘え我儘
一杯に暮らしていた私は、借金の残った一家の大黒柱になっていた。
私は1年間、1日中迷子になった子供のように、頼りない自分を
見つめてポロポロ泣いていた。2年目、残金がなくなった。
泣くことも許されなくなった私は、出稼ぎに行こうなんて
未知の世界に少しウットリした。
だが私は東京のネットカフェに1泊した朝、立ち食いうどんを食べて
職安に行って、何も決めずその足で那須の我が家に帰った。
タムムちゃんは頼りない私に呆れた。
タムムちゃんは、やっと重い腰を上げ、パート人生に突入した。
私も負けじとパートに挑戦したが、疲れ果て1日で根を上げてしまった。
今は以前からやっていたカットの仕事で何とか生活している。
つくづく思う。人は生きるため食べ、食べて行くために働く。
それは皆同じ。しかし人は片隅に夢を持っている。
それがあるから、辛くても明日を信じ今日を乗り越えているのだと
思う。何時かその夢が叶うよう、何歳になっても
人は諦めないで生きている。
だから人は永遠と続いて行くのだ。
私の「自分探し」も違う私にバトンタッチして
終わりのない永遠をズーット、ズーット歩いて行くのだろうなー。
