
松下電器を辞めた私は自分探しに出かけた。不思議なもので、自分に目を向けたとたんあれだけ、親友作りに奔走していた私が、友を求めなくなった。
19歳の時、着物の知識は皆無だったが、舞台や舞踊の着付け見習いとして松竹衣装に入社した。そこは新卒で入った松下電器とは違い、周りは職人で大人ばかりだった。勉強をサボった罰なのか、私は皆が話している言葉が全く理解出来なかった。何でもチンプンカンプンの私に「春分の日は何月何日だ?」なんて質問をして、大人達は私をからかった。実際、私は何一つ答える事が出来なかった。恥ずかしかった。生まれて初めて、勉強しなかった自分を後悔した。しかし、私には勇気が出る言葉があった。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」。私はメモを片手に聞きまくり、ポケットには国語辞典を忍ばせ、一つ一つ覚えて行った。えらいもので学びたいと思って学ぶとスースー脳に入って行く。何時の間にかポケットの国語辞典は消えていた。研修期間の3ヵ月が過ぎ、私は現場で仕事をするようになった。裏方の仕事はハードだった。新米の私は朝の8時に楽屋に入って夜の11時まで働いた。公演が始まると1ヶ月、休みなしで働いた。一度休みなしが2ヶ月続いた時があった。いくら若いと言っても私はバテた。会社に電話して「盲腸で入院します」と嘘をついて病院に駆け込んだ。「盲腸を切って下さい」と医者に頼んだが、症状がないため断られた。会社には「盲腸は散らしました」と言い訳をし、1日だけだが休む事が出来た。1日だけの休みでも私は元気になった。そして「1週間に1日の休みがあるのは、理にかなっている」っとそれを考えた人を尊敬した。職人は厳しいものだが、何をやってもドジな私に皆は優しくしてくれた。私は一生の職業にしようと決心した。しかし着付けの際、固い帯を無理やり結んでいたのが悪かったのか、私は腱しょう炎になった。わずか1年で、私の道はあっけなく終わった。
アメリカンフラワーが初めて日本に入った時、それを普及する小さな事務所に入った。20歳になった私の理想は「空気のような存在になりたい」だった。自己主張せず、文句を言わない素直な良い子になりたかった。夏の暑い日、クーラーもない所で花を作っていたらデザイナーの先輩達が「暑い」と文句を言った。すると上司が「まんがちゃんを見てみろ、文句ひとつ言わないぞ」。私はしてやったりと、思った。完全に成功したと思った。ちなみに私は、昼休みになるとスケッチブックにマンガを描いていたので「まんがちゃん」と皆に呼ばれていた。空気のような存在は、心地好かったが営業が苦手で辞めてしまった。
細かいバイトは色々したが、21歳の私は、手に職を付けたかった。
週刊誌によく載っている「住み込みの美容師」
を目指し埼玉県に行くことにした。
当時、姉夫婦が同居しており、私が居なくなる事で、
部屋が広く使えるのが嬉しかったのか、ニコニコと「頑張れよ」
なんて言って送り出してくれた。
私は1日で夜逃げした。
店主に「床を拭いてね」、「お米を買いに行ってね」
と言われたのがいけなかった。家の手伝いを全くしていなかった
私は「人の家でそんなんするんやったら、
自分の家で親孝行するわ」なんて思ってしまった。
1日で帰った私に姉夫婦は顔を見合わせあんぐりとし、母は先方に電話で誤っていた。
そして、私は家でも親孝行はしなかった。
しばらくは交換手の免許を取ったりして、クサクサしていた。
すると「交換台の席が空いたから面接に来ない」っと親友が言った。
私は彼女が勤めている会社に入る事が出来た。
当時の私は何をしても「ながら族」だったので
仕事を早く覚え、交換台で仕事をしながら色んな事をした。
しかし、漫画を描いたら飲みかけのコーヒーを機械にぶっかけ、
アメリカンフラワーを作ったら床に液をこぼし
編み物をしたら編み針がお腹に刺さり人形を作ったら
針がないと大騒ぎをして真面目に働いている人達に迷惑をかけていた。
飽き性の私が3年半勤めた会社はラクで楽しかったが
私が求めているものとは何かが違った。(続く)

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