文明16年(1484)ころ本佐倉城築城 〜 天正18年(1590)、小田原城落城に伴い千葉氏没落
千葉輔胤(馬加康胤の次男 岩橋殿と尊称される)
千葉孝胤(陸奥の守と称す 輔胤の子 文明16年ころ本佐倉城主となる ← 『中世の佐倉』による)
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
【江戸本】 『利根川図志』(巻4 49頁) 赤松宗旦著 安政5年 阿部正路・浅野通有訳 昭和53年
『佐倉誌』(25頁) 林 壽祐 大正13年
『ふるさと歴史読本 中世の佐倉』(27、28、40頁) 佐倉市総務部総務課市史編さん室 平成12年
千葉勝胤(千葉介と称す。孝胤の子 本佐倉城主)
【江戸本】 『利根川図志』(巻4 15頁、16頁、17頁) 赤松宗旦 安政5年 阿部正路・浅野通有訳 崙書房 昭和53年
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁、51頁、57頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
『佐倉誌』(26頁) 林 壽祐 大正13年
『ふるさと歴史読本 中世の佐倉』(56、58、66頁) 佐倉市総務部総務課市史編さん室 平成12年
千葉昌胤(千葉介と称し、勝胤の子 本佐倉城主)
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁、57頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
『佐倉誌』(26頁) 林 壽祐 大正13年
千葉利胤(千葉介と称し、昌胤の子 本佐倉城主 北条氏康の娘を妻とする)
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁、57頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
『佐倉誌』(27頁) 林 壽祐 大正13年
千葉親胤(千葉介と称し、利胤の子 本佐倉城主)
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁、57頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会 昭和49年
『佐倉誌』(27頁) 林 壽祐 大正13年
千葉胤富(千葉介と称し、昌胤の子 上杉謙信が臼井城を囲んだとき、胤富は臼井に援軍を出す 本佐倉城主)
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁、57頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
『佐倉誌』(27頁) 林 壽祐 大正13年
千葉邦胤(千葉介と称し、胤富の子 本佐倉城主)
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁、57頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
『佐倉誌』(28頁) 林 壽祐 大正13年
千葉重胤(初め千鶴丸と称する 邦胤の子 小田原の戦いに参加し降伏する)
【江戸本】 『佐倉風土記』(32頁)磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
『佐倉誌』(29頁) 林 壽祐 大正13年
【小説】 『嗚呼江戸城』 柴田錬三郎 文芸春秋 昭和48年
* 『佐倉風土記』によれば、千葉の猪鼻にあった城を佐倉郷将門山に移したのは、輔胤とも、胤将(胤直の子)とも、
勝胤とも記しています。ここでは、『ふるさと歴史読本 中世の佐倉』にある「千葉氏の本佐倉城築城と弥富氏の登場」(28頁)
の説に従い、孝胤としました。
* 『ふるさと歴史読本 中世の佐倉』には、「平将門の乱と佐倉」「本佐倉城の発掘調査」「本佐倉城下の人々」「臼井氏と原氏」
「里見氏と北条氏」「臼井城における二度の合戦」「臼井城の発掘調査」「妙見信仰と千葉氏」
「市内の主な中世城館」「年表」
* 『印旛郡誌』(千葉県印旛郡役所 大正2年 影印版崙書房 昭和50年)によれば、大佐倉の勝胤寺に、勝胤、昌胤、利胤、
親胤、胤富、邦胤の墓があると記す(前編 591頁)。ただ、現在は判別しかねます。
この一群の墓は、市の指定文化財となっています。
また、佐倉市の海隣寺にも供養塔があり、同じく指定となっています。
詳細は、『佐倉市の指定文化財』(佐倉市教育委員会 昭和62年)をご覧ください。
忠左衛門(小説登場名 佐倉の新炭問屋亭主)
【小説】 『白蛇 新人斬り弥介』 峰 隆一郎 集英社 平成8年