上野三郎左衛門(佐倉藩士)屋敷
【江戸本】『古今佐倉真佐子』(25、26頁) 渡辺善右衛門守由 佐倉市史編さん委員会編 昭和58年
植松果堂(名は彰 字は有章 佐倉藩士 代々家老職 明治維新後、三重県津師範学校教諭、
仙台師範学校教諭、岩崎家設立の静嘉堂文庫の編輯に携わる)
『佐倉誌』(41頁) 林 壽祐 大正13年
植松当太郎(佐倉藩大砲頭)
『明治に生きた佐倉藩ゆかりの人々』 (78頁) 内田儀久 聚海書林 平成9年
植松求馬永見(佐倉藩執政)
『明治に生きた佐倉藩ゆかりの人々』 (57頁) 内田儀久 聚海書林 平成9年
臼田理兵衛(佐倉藩士)屋敷
【江戸本】『古今佐倉真佐子』(23頁) 渡辺善右衛門守由 佐倉市史編さん委員会編 昭和58年
臼井常康(臼井を開発した領主 臼井六郎と称す)
【江戸本】『佐倉風土記』(60頁) 磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
【江戸本】『利根川図志』(巻4 39頁、40頁) 赤松宗旦 安政5年 阿部正路・浅野通有訳 崙書房 昭和53年
臼井常忠(常康の子)
【江戸本】『佐倉風土記』(60頁) 磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
【江戸本】『利根川図志』(巻4 40頁) 赤松宗旦 安政5年 阿部正路・浅野通有訳 崙書房 昭和53年
臼井盛常(常忠の子)
【江戸本】『佐倉風土記』(60頁) 磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
臼井祐胤(盛忠の子)
【江戸本】『佐倉風土記』(60頁) 磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
【江戸本】『利根川図志』(巻4 46、53頁) 赤松宗旦 安政5年 阿部正路・浅野通有訳 昭和53年
臼井久胤(景胤の子)
【江戸本】『佐倉風土記』(52頁) 磯部昌言 享保7年 佐倉市教育委員会編 昭和49年
内田又五郎(佐倉藩士 幕末に英学修業)
『明治に生きた佐倉藩ゆかりの人々』 (78頁) 内田儀久 聚海書林 平成9年
うめ(臼井の人 雷電為右衛門の妻)
『さくらの女 二四人』 松裏善亮 平成元年
【辞典】『千葉県女性人名辞典』 新羅愛子 青史社 昭和59年
*雷電為右衛門の妻は、一般的には八重で通っている。ただ、松裏氏、新羅氏は、
うめとして紹介している。
新羅氏によれば、東京赤坂の報土寺に雷電の妻八重が葬られており、臼井の浄行寺
(廃寺)には、雷電の墓と並んでうめの墓(戒名「声意院妙関日為信女」)があり、
いずれも命日は同じであるという。
このことから、うめは本名で、八重は奉公をしていたときの源氏名か、と記している。
この他、小島貞二氏の『雷電為右衛門』によれば、八重の前名は「おはん」であったという。
雷電の妻が一人と考えるか、複数と考えるかによっても見解が異なってくるが、
私は、判断を持ち得ない。読者の判断に任せたい。
なにせ、雷電の墓だけでも全国に7、8か所あるのだ。
浦岡 忠(旧佐倉藩士 堀田家家令)
『明治に生きた佐倉藩ゆかりの人々』 (11、14頁) 内田儀久 聚海書林 平成9年
千葉常忠太郎(千葉常康の嫡子)
千葉与一(千葉常忠の子)
【江戸本】 『利根川図志』(巻4 40頁) 赤松宗旦 安政5年 阿部正路・浅野通有訳 崙書房 昭和53年