いつかあなたはオレを理解しなくなるかも知れない。
それでも、あなたの腕の中に、本当は、全て収まる。


今日は帰りたくないのだと言ったら伊角が笑った。それでは女のコの誘い文句のようだと言って。
しかし、結局は伊角の家に泊めてくれることになった。二人で歩く伊角の家までの通い慣れた道筋に、何故かぎこちない違和感を感じた。

伊角の家族はいつも通り和谷を迎えてくれた。家族ぐるみで可愛がってくれている。
だけどそんなふうに顔をあわせるのは、今日は、嫌だった。
伊角の母親の手料理を食べて、パジャマを借りて、風呂に入る。時間経過が間延びする。夢のなかのように頼りない日常性。後ろめたく、気まずい。
伊角と目が合うたび、会話を交わすたびに切ないみたいな気分になった。それから、緊張した。
伊角が風呂に入っているあいだ、和谷はパジャマ姿で居間でテレビを見て待った。普段そうしているから、半ば義務的に同じように行動したのだ。伊角の父親が話しかけてきたが上の空で生返事をした。なんだかバツが悪くて仕方なかった。
しばらくして脱衣所のほうから伊角が出てくる物音がしたので、そそくさと立ちあがってオヤスミナサイと言った。居間から出て行こうとした和谷を扉のあたりで捕まえて、伊角の母が「和谷君、おめでとうね」と小さく言った。一瞬、心臓が跳ねた。その動悸はなかなか静まらなかった。

階段を上がり、二階にある伊角の部屋のドアを開ける。伊角はまだ戻っていない。二階には伊角の部屋と、あとは納戸がわりにしている部屋だけで、多分、今日はもう、誰も上へ上がってこない。伊角以外は。
伊角の母親は、和谷がプロ試験に合格したことを知っていたのだ。今日、和谷が泊まるのだと聞いて、嬉しそうに何度も頷いていた。
だからきっと、今夜はもうこの部屋には来ない。
遅い時間帯まで話し声がしたとしても、きっと、不審に思うこともない。
動悸が静まらない。
手のひらが汗ばんで冷たい。
伊角の部屋にはもう何度も泊まったことがあるのに。

「和谷」

ドアが開いて、いつも通りの声で伊角が和谷を呼んだ。
「伊角さん……」
自分の声は何て擦れているんだろう、と思った。
「ストーブも点けないで…寒くなかったか?」
伊角は暖房のスイッチを入れ、ベットの上へ腰掛けた。和谷も続いてその隣へ座る。程なくしてファンヒーターが短くうなるような音をたてると石油くさい匂いと伴に暖かな風が起こる。
「何て顔してんだよ」
伊角はそう言って和谷の頭をくしゃくしゃと撫でた。和谷は返事しない。無言のまま目があうと、和谷は伊角の袖を引き寄せて唇を合わせた。不器用にキスを味わう和谷に、伊角はそっと目を閉じることで応えた。
次第に、和谷の額にじっとりと汗が浮かぶ。身体中からもどかしい感覚が湧いてくる。
「もう寝ようぜ」
無意識に表情を隠そうとして顔をそむけて、熱っぽい唇を噛み締めながら和谷が言った。伊角が電気を消した。
和谷はさっさと布団のなかに潜りこむと、
「オヤスミ」
と手早く言った。それはやんわりと一線をひいて伊角との距離を作る。伊角が微笑んでいるのが気配で分かる。からかわれているようで悔しい。
布団から覗くふわふわとした和谷の髪をまたくしゃくしゃと撫でて、伊角も眠るための姿勢を整えた。

「なあ、伊角さん」

「何?」
「あ、起きてた?」
「当たり前だろ?だってお前、まだ10時だぜ?」
「そうだっけ」
部屋の電気を消しても、外からの灯りで結構明るい。本棚も、年季の入った勉強机も、タンスも、全ていつも通りの伊角の部屋だった。机の上に読み止しの文庫本が伏せて置かれている。
「あのさ、伊角さん」
「何だよ?」
「あの……ストーブ、つけっぱなしで平気?」
「ちゃんとタイマーにしてあるからもうすぐ切れるよ。いつもと同じ」
ああ、そうだよね、いつもと同じ。と、拍子抜けした返事をどうにか返して、その後和谷が口をつぐむと、あとはもう、沈黙だった。
5分も経たないうちにカチっというスイッチの音をたててファンヒーターが自動で消火する。また、石油の匂いがしてくる。

「切れたね、ストーブ」
「ああ……」
「あ、まだ起きてた?」
「当たり前だろ」
伊角が笑う。和谷は暫くまた黙っていたが、ふいに起きあがって伊角の顔を覗きこんだ。
「何?」
伊角が優しく和谷を促す。仰向けに横たわる伊角の髪はいくらか乱れて広がり、長めの前髪がほどけて白い額がのぞいていた。
ごく遠慮がちに和谷の手が伸ばされ、うかがうようにそっと、その髪を掻きあげた。
案外綺麗な額が露わになって、伊角が困ったように微笑した。
少し反らした顎。首は細い。なだらかな輪郭と喉許の窪み。夜着のあわせを、ゆるやかに留めるボタンの光沢。
「どっちかが女なら良かったのに」
どうにかそこから視線を外して、思わず和谷が呟いた。
「どうして?」
「だって……」
和谷は顔を赤くして口篭もる。
「だってさ、そうしたら、もっと……」
「和谷?」
「……オレ、伊角さんと、したい」
まだ子供っぽい声音の台詞に、伊角は曖昧に頷くだけ頷いて見せた。

「ごめん」

ややあって、慌てるようにそう言うと和谷はぱっと布団を被る。伊角に背を向けて横になった和谷へ
「しなくていいのか?」
と、伊角が穏やかに問い掛けた。
「だって……だって、男同士じゃ……」
和谷は戸惑った。
「だって、男同士じゃ、出来ないよな?」
伊角は吹き出した。
「何……何だ、それで悩んでたのか」
「笑うなよ!伊角さん」
「出来るよ」
「え?」
「出来るんだよ、男同士でも、女同士でも」
さも可笑しいというように伊角が言う。
「和谷、お前、囲碁ばっかりやりすぎたな。友達とかとそういう話しないの?」
「え……するよ!するけどさ、だって、男同士のこととか、誰も話さねぇよ!」
「えー、話さないかなあ」
「話さない!」
「そうなんだ」
伊角は寝返りをうち、和谷としっかり顔を合わせた。髪が、さらりと流れる。
「伊角さんは……知ってるんだ……」
和谷は大きな眼をいっぱいに見開いて伊角を見つめる。
「うん……でも」
何も知らない中学生に教えて良いことかどうか、暫く伊角は考えを巡らせた。今この場で知識を与えるということは、そのまま、実際の行動を促すことと同義になる。ついさっきまで、当然和谷は知っているものと思っていた。だが知らないというのなら……
「まだ、はやい、かな」
伊角は和谷を抱き寄せた。
抱き寄せられると、自分よりもしっかりと青年の体つきになっている伊角の胸に鼻先が当たって、伊角の匂いと伊角の体温に和谷は目を閉じる。その襟の合わせ目から覗く素肌に額を擦りつけた。
溜め息が漏れる。
身動ぎの拍子に伊角の腿に和谷の性器が触れた。そこが熱く、硬くなっていたので、伊角は困って視線をさ迷わせた。
「伊角さん」
和谷が呼ぶ。
「教えて」
今が、答えるべきタイミングなのだろうか。
「和谷……」
和谷は伊角から身体を離して仰向けに姿勢をとり直すと、切なそうに平静の呼吸に整えようとしている。
「そうだな……お前、春からもう社会人だもんな」
冗談めかして伊角が言った。和谷はなんと答えたら良いのか分からず、唇をきゅっと結んだ。



これから行く道の先にあなたは居ない。もう一緒じゃない。
先のことは分からない。何も。
あなたはいつか、オレを理解しなくなるかもしれない。道が、分かれたんだ。


身体を合わせれば、一つになれるんだと思ってた。


5へ続く