あなたが世界の全てではない。
あなたが居れば何も要らない、とは思わない。
けれど、あなたが居なければ、何かを手に入れたときの喜びの大半が失われるのだ。

どうしてだろう。



非現実的な灯火の揺らぎは人の日常の感覚を麻痺させるのか、人目も憚らずに、自分たちのすぐ横で身を寄せ合い、唇を合わせる恋人同士から、伊角は決まり悪く眼を逸らす。和谷はそれにも気づいていないようだった。
ただひたむきに伊角を見つめ、続く言葉を探していた。
「伊角さん、オレ……」
不自然な形で繋いだ指先は痺れて冷えてきたが、二人のうちのどちらもそれを解こうとはしなかった。
和谷が探そうとしている言葉を、伊角はとうに知っていた。弟のような彼の、拙い感情表現の端々が指し示す自分への好意が辿りつくだろう結論を、知っていると思っていた。
だが、もっとゆっくり選ばせてやらなければいけない。
もっと違う選択肢もあるのだと、ゆっくり考えさせてやらなければいけないと思っていた。
今、和谷は答えを急ごうとしている。
それが分かっているのに、この非現実の灯火の下で、懸命に和谷がその言葉を見つけ出すのを、じっと待っていた。

まだ早いのに。
まだ決断の季節には早いのに。

「伊角さん」
夜風がさやさやと灯りを揺らす。
今このタイミングで答えられなければ、いけないのだと思った。突発の事故のように、結論のタイミングが来てしまったのを感じた。
「伊角さん」
伊角は和谷を見上げている。
チャコールグレイのマフラーと対比になる白い肌。寒さでいくらか赤くなった頬。絹糸のような黒髪。青みがかった瞳。整った眉に長い睫毛。このひとはこんなに綺麗だったろうか、と、和谷は戸惑った。訳も無く切なくて仕方がなかった。
いつもなら、こんなに和谷が困っていれば伊角が助け舟をだしてくれる。伊角の促す通りに任せてしまえば、大抵のことが上手く収まった。自分にとって一番良い方法を、伊角はいつでも知ってくれているようだった。
けれど今、伊角はただ黙って和谷を見上げるばかりだ。
「伊角さん、オレ……」
もどかしくなって和谷は伊角の指を引っ張るように強く握った。
「伊角さん、オレは……」
「和谷」
ようやく伊角が口を開いた。普段の、暖かい笑顔だった。
「オレもだよ」

さやさやと、灯りを揺らす。

伊角の指も、和谷の手を強く握り返した。
非現実の灯火の下で、初めてのキスをした。提示も許容も、あやふやに先延べになった。
恋人同士、あるいは友人と同行して、楽しげに行き交う人の流れ。人目から大事なひとを守ろうと、和谷は自分のコートの裾に伊角を抱きこんだ。体温の暗がりのなかで伊角が笑い声を漏らすのが聞こえる。胸元の隙間から覗きこむと、伊角が和谷を見上げて笑っていた。
「何すんだよ?」
和谷は答えなかった。そのまま和谷も身を沈ませて、コートの中で二度目のキスをした。三度目も。

寒風に幾らか乾いていた和谷の唇を、伊角の柔らかな舌が湿らせて舐める。慣れないその感覚に、和谷の呼吸が震えた。もう一度、上から唇を重ね直して恐る恐るも伊角の唇を舌でなぞると、誘い込むように伊角が口をそっと開く。訳がわからないままに深いキスをした。
男二人でコートのなかに頭を突っ込んで、さぞ目立つのではないだろうかと思うと、再びその暗がりから顔を出すのが怖いような気もした。そして、こんな時にそんなことを考える間抜けさが、和谷は自分でも少しおかしかった。


宿り木が、幸福を強要している。
まだ何も準備出来ていないのに。



4へ続く。