中途半端な時間を持て余して、ぼんやりと文庫本のページを繰る。
部屋が冷えてきたので暖房の設定温度を上げようと伊角がベットから起きあがったとき、丁度階下から母親の声がした。
和谷から電話なのだという。
ずっと、連絡をとっていなかった。今はそのほうがお互いのためのような気がした。まだ、何かを決断するには時間の流れが半端なのだ。
母親から子機を受け取って部屋へ戻り、勉強机の椅子へ腰掛けながら
「どうしたの?」
と用件を聞く。
「………」
受話器の向こうから、和谷が何かを言おうとするのが伝わってくるが、何と言っているのか聞き取れない。
「何?」
思わずこちらも大きな声をだして問い返す。
「聞こえない。何?」
雑踏のざわめきと不安定な電波が、和谷の言葉を途切れ途切れにする。
「和谷?今ドコ?」
「新宿」
ようやく、和谷の言うことが聞き取れた。
「新宿の……」
「何?聞こえないよ」
和谷の声が一瞬だけ、ふっとクリアに入った。
「綺麗なんだ!」
せきこむように必死な声が訴える。
「伊角さんも……」
また、かき消される音声。
ざわめきの中に、クリスマス、と言う単語が聞き取れた。

すぐに来て欲しい、と和谷は言った。わけがわからないままに、とりあえずコートを着て家を出た。外はすっかり日が暮れて風が冷たく感じられた。
最寄駅から電車に乗れば、新宿はすぐだ。
和谷は時々こうやって急に伊角を呼び出したりすることがあるので、今回も別に、そんなに特別な出来事じゃない。だが、プロ試験の前と後との時間の流れが、ふいうちで、繋がろうとしている。まだ何の準備も出来ないままに。

南口の改札を出て、横断歩道を渡る。大型のデパートの入り口のところに、和谷がぽつんと立っていた。
「和谷」
伊角が呼ぶと、和谷は少しこちらへ向かって歩きかけた。すぐに伊角が傍までたどり着く。
「伊角さん……」
和谷が上目遣いに伊角を見上げる。
「どうしたの、今日は」
「うん……」
和谷はなかなか答えない。伊角は和谷を促して、イルミネーションのまたたく通路の方へ歩き出した。
「うわー、凄いなあ」
ぐるぐると光が動く。電球で作られた人形、お城、動物、幻想的な宿り木。その只中を歩いていると現実感が失われてゆく。
「和谷が綺麗って言ってたの、これ?」
「うん……去年も一緒に来たよね」
「ああ……」
去年と今年とで、とても長い時間が経った気がした。
去年と今と、どちらが幸福だろう。
だがいつまでも同じところに居ることは出来ないのだ。そういうわけにはいかないのだ。
「伊角さん」
零れるように、和谷が名前を呼んだ。
「伊角さん、オレ、今日棋院に行ったんだ」
「そう」
無数の、小さな灯りが明滅する。ちかちかと、伊角の白い頬の上に朱をのせ、銀をのせ、またたく。
「伊角さん」
和谷が呼ぶ。
「伊角さん、囲碁、やめたりしないよね」
伊角はゆっくりとした動作で近くの空いているベンチに腰掛けた。和谷はその前に立つ。

一年の間にたくさんのことがあった。たくさんのことが変わってしまった。和谷をまじまじと眺めると、去年の今頃はもっと頼りなく子供っぽい顔をしていたような気がする。

「伊角さん……答えろよ」
ざわざわと、人ごみに紛れて消え入りそうな詰問だった。通り過ぎる人にぶつかりそうになる和谷の手を引いて、そっと、人の通り道から少し外す。
「まだ……」
視線だけは反らさずに伊角は答えた。
「まだ、何も決められなくて」
繋いだ和谷の指先に、ぎゅっと力が入った。
「師範は、伊角さんは諦めてないって言ってた」
「……そう」
伊角の髪のひとすじひとすじにライトが滑り落ちて、さらさらと流線型を描いていた。
「伊角さん……伊角さん、そしたら」
「ん?」
「……ねえ、伊角さん」
伊角は少し含み笑いした。
「落ち着けよ、和谷」
はあ、と息をついて、和谷が言葉を続けようとする。
「伊角さん、オレと、これからも会うよね?」
電車の過る音や、雑踏のざわめきがやたら耳についた。都会の喧騒のほうに現実感があって、当の自分たちの身体からは実感が剥離していた。
「まだ……」
「伊角さん!」
「……会うよ」
和谷が大きな眼をいっぱいに見開いて伊角を見ている。
「会うよ」
もう一度、力をこめて、そう答えてやった。

今はまだ、決意と決断の季節には適さないのだけれど。


3に続く。