あなたが世界の全てではない。




「わー、すっげぇ大きいケーキ!」
和谷が目を輝かせて喜ぶ。
「伊角さん、これ、どうしたの?」
「うーん、残念クリスマス会、ってとこかな」
伊角が優しく微笑む。和谷は満面の笑みになる。
「オレ、全部だって食えちゃうぜ!」
元気良く和谷が言う。
「食えるだけ食いなよ。和谷のために用意したんだから」
伊角はそう言って、はしゃぐ和谷をますます喜ばせた。
気合をいれてがっつく和谷。
伊角は、優しく、和谷を眺める。
「……伊角さんは食わねぇの?」
じっと見られてることが照れくさくて、そんなことを言ってみた。
伊角は小さく吹き出した。
「全部食べたって良いって言っただろ?」
途端に和谷は唇を突き出してふてくされた顔をした。
伊角の分があるから、ケーキは甘いのだ。
そんなことが分からないなんて、伊角さんは馬鹿だ。
そう思った。


年の瀬も押し迫ってきた頃、ようやく長かったプロ試験が終わった。
こんな、落ち着かない季節に放り出されるのはたまらない。合格にせよ、不合格にせよ、こんな時分は決意の季節には相応しくない。
院生の研修日。今やそこに顔を出す必要はなくなったというのに、和谷は折角の休日に棋院を訪れた。伊角のことが気になったからだ。
もうずっと連絡をとっていない。
和谷がプロ試験に合格したのは本当につい先日のことで、まだ実感は湧かなかった。あんなに望んでいた合格なのに、中途半端なこの時間の流れは、なんとも言えず空虚なのだ。
春になって、実際の手合いが始まれば……
と和谷は思った。
実際にプロとしてやってゆくようになれば、こんな気分は無くなってしまうものなんだろう。
市ヶ谷の駅から棋院までは僅かの距離で、小さな坂ひとつを上る途中に見なれた建物が現れる。通い慣れたこの場所も、今は現実感が無くてふわふわと頼りない印象をうける。まだ、自分のなかの時間が流れだしていない。そんな浮遊感があった。
薄暗い建物の廊下を歩く。いつも通りのいつもの研修の大部屋を覗けば、当たり前のように皆がそこに居た。見なれた景色。だがそこには和谷の席はなく、それから、どんなにどんなに探しても、伊角の席も、存在しなかった。
師範を呼びとめて事情を聞いた。
その後、他の仲間に顔をあわせずすぐに帰った。

電車には乗ったものの、真直ぐに帰宅する気分にはなれず、新宿で降りた。年末の繁華街は人でごったがえしていて思う方向に進むだけでも一仕事だった。
南口の改札を抜ける。待ち合わせの人達が改札口に一心に視線を注ぐのを居心地悪くすり抜けて横断歩道を渡った。あたりは少しずつ、暗く成り始めていた。
たくさんのイルミネーションに灯がともり始める。
ひとつ息を吸って吐いた。
冷たくて乾燥した空気は鼻の奥をつんとさせた。

伊角は院生をやめたのだと院生師範は言っていた。だがプロを諦めたわけではないだろう、とも言っていた。今は一人になった方が彼のためにも良い、とも。
だが、伊角が一人になる、ということはつまり、和谷も一人になってしまう。
勿論和谷には伊角のほかにも親しい友人はたくさんいたし、なかには伊角よりもずっと付き合いの長い親友もいた。
それでも、伊角は特別なのだ。
一緒の目標を持って、一緒に努力して、一緒に笑って、泣いた。
それなのに今は、どうしようもなく二人の間には隔たりが出来てしまっている。
院生をやめるなんて重大なことを、自分に伊角が相談しにこないというのが納得し難かった。同時に、自分にこそ打ちあけ辛かっただろう伊角の気持ちが全く別の次元で心底理解できるのだ。

美しくタイルの貼られた小道を歩く。ビルの窓の明かりがツリーの形を作っている。明滅する小さな電球。
決意と決断の季節には、むいていない。
線路の上を通る橋を渡る。向こう岸は遊園地のように見事に飾りつけられたイルミネーションが、ちかちかと、人々の幸福を刺激しようとしている。
去年の丁度今頃、伊角と二人でここへ来た。
二人ともプロ試験に落ちて、残念会をしようと言って新宿で待ち合わせた。残念会と言ってもいつもと違うなにかがあるわけでもなく、二人で待ち合わせるといつも一局打ってたから、言い訳のように駅から近い碁会所で碁を打った。一時間くらいで切り上げて、目的もなく街をうろついた。歩き疲れたころ、伊角が家に誘ってくれたので伊角の家へあがりこんだ。楽しかった。伊角は、和谷のためにケーキを用意していてくれた。大喜びの和谷に、まだ早いけどクリスマス会な、と言ってくれた。
残念クリスマス会。
それはとてもとても楽しかったのだ。
今や、二人の境遇は別々になってしまった。

いつもいつも一緒に居たいわけではない。
和谷には和谷のやりたいことがあって、生活があって、目標がある。伊角だってそうだと思う。どんなに伊角を好きだと思ったって、道が分かれれば、別々に歩いていかなければいけないのだ。
どんなに、好きだと思ったって。

和谷の足が止まる。
線路の高架を渡り終えた。
ちかちかと、そこは明滅する明かりの渦の中だった。とても綺麗で、幸福を強要する。
去年は伊角と二人でこの灯りを見た。どうして今、彼がここに居ないのだろう。
いつも一緒に居たいわけではない。いつもいつも彼のことばかり考えてなんかいられない。もっとたくさん、やりたいこと、知りたいこと、欲しいもの、目指すものがある。彼のことを一番に考えているわけではない。なのに、どうしてか、折に触れ、最後に結局思い至るのが、伊角のことだった。

携帯電話の電子音。和谷がはっとして顔をあげると、すぐ隣を横切る人が鞄からせかせかと電話機を取り出して応答した。それにつられるように和谷もコートのポケットに手をつっこんで、すっぽりと手になじむ携帯を、握った。





2へ続く。