信頼する人の前では誰でも、素直な、うつくしい顔になるのよ、とナミは言った。
ゼフの写真のウデ前とは、つまりそういうことなのだと言った。
写真は日焼けのようなものだとウソップは言った。
一瞬で日に焼ける板の上に、影を残したものなのだと。






ゾロは店主に頼み込んで、写真を一枚撮らせてもらった。
撮影の要領は横で見て知っていた。
撮らせてくれ、と言うとサンジは唇を尖らせて「なんだよ」とそっぽを向いた。照れくさかったのだろう。それでも撮らせてくれた。
彼の肖像が、寂しい顔ではなく、素直なうつくしい顔に写ることを願っていた。
現像は複雑な手順もある為ゼフが手伝ってくれた。
サンジを撮ったのだと告げたら変な顔をしていた。
それはそうだろう。






スプリング ナンバー ワン
第18話 春一番






昨晩、ゾロは荷物の中に出来たばかりの写真を入れた。手帳にはさまるくらいの、小さな写真だ。いつも使っている手帳に挟み込み、折れないように大事にカバンの一番上にしまった。まだゼフが封筒に入れてくれたまま、中身を見ていない。わざと見なかったわけではなく、もし上手く撮れていなかったとしてもどうせ今更撮影しなおしなど出来ないから、わざわざ確認する必要を感じなかっただけのことだ。
「見ねえの」
と、写真を手帳にすぐ挟むゾロへサンジが声をかけた。
「ああ、そのうち見る」
そう答えると、ふうん、と気の無さそうな相槌が返ってきた。
そのあと、これで最後になると思いながら唇を合わせた。
ちょっとだけ、以前自分の愛人と写真を撮りにきたオッサンの気持ちが分かると思った。もしこれで最後になるのなら、写真に残しといて、あとから見るのもいいだろう。ゾロにはそんな趣味はないが。
そのままサンジを抱いて、今朝はさすがに早めに目が覚めた。
サンジはゾロより早く起きていた。
朝食を作り、ゾロの弁当を用意してくれていた。
これで当分コイツのメシが食えねえのか、と思うと落胆した。すっかり餌付けされている。
台所に置いてある椅子に腰掛け、流しの前に立つサンジの後ろ姿を見ると、夕べもう少し泣かせてやれば良かったと思う。
夕べは普段通りゆっくり抱いてやるうちにサンジが違う意味で泣き出してしまったので、余計なことは何も出来なかった。
昨晩、床の中で
「別れたくねえよ」
とサンジは言った。
ゾロは別れのつもりはなかったので返事しなかった。
「たった2年だ」
とだけ答えた。
そうだな、とサンジも言った。
そうだな、と言って俯いたサンジの目の下のあたりにほんのりそばかすが浮いているのを見て、陽射しが強くなってきたんだな、夏になるんだな、と感じた。
ゾロは約束を違えたことなど一度も無い。
だから信頼しろ、と言いたかったが、約束を違えたことが無いということをサンジに知らせるためには、あまりにつきあいの時間が短すぎた。
2年経てば分かることだ、とゾロは思った。
2年経ち、3年経ち、10年が経てば分かるはずだと思った。
サンジは悲壮な顔をしているが、ゾロにとっては何も悲しい別れではなかった。

昨夜のことを思い出しぼんやりしていた。
茶の間から、おらメシだ、と2、3度呼ばれた。それで台所の席を立った。
茶の間へ座ってゼフとサンジとゾロと3人で朝食をとった。
最初来た頃とは違う、静かな食卓だった。
食べ終わるとサンジは食器を洗いに台所へ下がった。
ゾロは鞄をとりに書生部屋にいった。
ゾロが発ったあともこの部屋はサンジが使うので、大抵のものはゾロが使っていたままになっているが、衣類などの私物は既に片付けた。もとより持ち物の多いほうではない。それはサンジも同じだった。
ここに来た時と同じ、随分大きめの、丈夫な皮の鞄一つを持ってゾロはここを出て行く。
さて出かけるか、と持ち上げた鞄は、不自然に重かった。
一目見た時から、形状が奇異であると感じてはいたのだ。



「テメエ……何考えてやがる、ガキか」
ゾロは鞄を軽く蹴った。
「分かったか」
鞄がくぐもった声で返事する。
「分からねえはずがあるか」
「気付かなかったことにしやがれ」
「……ふざけんなッ!」
がばっとゾロは鞄のくちを開いた。
中身は船上ですぐ使うような生活用品、ではなく、人間ひとりだった。割と衝撃的な、少しありえない光景だった。
「ふざけてなんかねェ」
「いや、どう見てもふざけてるだろ」
「ふざけてねェよ、ついてくことにした」
「あ?」
「ついてくことにした。どこにでも、行く」
「……それこそ、ふざけんな」
サンジはまっすぐゾロを見ていた。負けん気の強そうに唇をぎゅっと引き締めている。
「絶対、ついて来んな」
「…………」
ますますサンジは強くゾロを睨む。だが鞄に収納されたままなの衝撃的な姿なので、真剣味に欠けていた。
「な、なんだよ、ちょっとウケ狙っただけだろ、どうせすぐ気付くと分かってたよ、なんだよ、怒んなよ、アホ、最後は笑顔だろ、アホ、大団円狙ったんだよ、アホ」
「うっせェよ!ついてくとか、言うなアホ!」
「い、イヤなのかよ」
「イヤに決まってんだろ、取り返しつかねェとこでテメエが中入ってんのに気づいたらどうしてくれるつもりだったんだ」
ちょっとこい、とゾロは鞄ごとサンジをずるずる居間まで引き摺った。
いくらサンジでも居間まで引っ張り出されると、現在の自分の姿がかっこ良さに欠けることに気付かざるを得なかった。
「おいジジイ!」
ゾロがかっこよくゼフに向かって声を張り上げた。
「このアホに何とか言え!」
「なんだと?」
突然飛び込んできた書生に、険悪な表情でゼフが振り返る。
「オレと一緒に来るとか言いやがる」
「い、言ってねえ!言ってねえぞ!アホ学生!」
「言っただろーが」
かあ、とサンジは顔を赤くした。そして鞄の中から飛び起きると逆上して怒鳴り出した。
「クソ……うっせェ、もう、行かせねえ!てめえ!」
「あ?」
「誰がテメエを外国なんかに行かせっか!アホッ、行かせねえ!鞄だって荷物だって靴だって、隠した!アホーーッ!」
ここ暫らくのしおらしさも何処吹く風。
嵐のようにサンジは暴れた。
「おお、何だテメエ、それが本心か」
鞄の中に足だけ突っ込んだまま無闇にもがくサンジに、ウデやら顔やらを殴られながらも、ゾロは漸く険しい顔をゆるめ、莞爾として得意げにゼフの方を向いた。
「可愛いこと言うなコイツ」
ははは、とゾロは笑ったが店主は肩を竦めただけだった。
「おい、ジジイ、オレぁ2年したら戻って来んぞ、この写真館に。てめえの老後なんか、静かなもんにゃならねえよ」
「ば……ッ」
呆気にとられたサンジはずぼっと鞄の中から起立した。
「…………」
苦虫を口いっぱいに頬張ったような顔をして、ゼフはまだ年若い男を見遣った。
卓袱台の上には自分で煎れたらしい茶が置いてあったが、かわいそうなことにその茶柱は立っていた。この先縁起なんて一生信じられなくなりそうな光景だった。
「テメエがしおらしくしてっから、調子狂って仕方なかった。行って欲しくないなら普通にそう言え。まあ行くけど」
「って、行くのかよ!」
「行く。そんでテメエとは一緒に行かない」
「…………」
「テメエみてえにウダウダしてる奴と一緒にいられるか」
きっぱりと言い切るゾロにサンジは口篭もった。
こんな顔を見たことあるな、とゾロは思った。
(ああ、あれだ、あの女の家からの帰り、垣根越しに手を差し伸べて見た顔だ……)
仕方が無い、と諦めた顔で、サンジはゾロを見ていた。
ゾロは心底不愉快だった。
「ジジイ、こいつの夢は船乗りになって世界中の連中にメシ食わせることなんだとよ」
と、ゾロはゼフに言った。
もう乗る船も決まってるらしいぜ、けど何年も帰れねえっつうから迷ってるらしいぜ、と。
そしてサンジの方を向き、言った。
「テメエは、テメエの船に乗れ」
卓袱台の前に座ったゼフの背後には縁側があり、光溢れる庭があり、その庭の向こうにはぽっかりと青空が広がっていた。庭の向こうが下り斜面だから、まるで空中にいるみたいに眺めが良い。ゾロはこの写真館の立地が好きだった。
また帰って来て良いと思う程には。
「前々から思ってたんだが」
ゾロは続けた。
「テメエはテメエだけが立派な人間なんだと思ってんじゃねえのか?」
「は?」
サンジは怪訝に聞き返した。
「オレだって、テメエの役に立ちてェ、テメエが周りみんなにそう思ってるように。…そんでテメエが一生ジジイのためになってやるって決めてんだとしたら、オレだって2年ぐらいで約束違えたりしねえんだよ。確かにひとの心なんて先のことは分かんねえが、オマエが思う程不安定でもない」
分かったか、と結んだ偉そうな表情の学生相手に、サンジは絶句してぽかんと口を開けていた。
ゼフはもっと開けていた。
「ジジイ、覚えとけ、オレはこいつに惚れてんだ」
それがゾロの別れの挨拶の締めくくりだった。
あとはちょっとした騒動になって、ゾロは荷物もろとも通りへ放り出される結末となった。
外は縁側から見えたのと同じ、快晴の空だった。
坂を下る。
坂の先には鳥居があって、そこを折れると神社の境内に入る。
参道を通り抜けて佃煮屋の角を曲がり、まっすぐ清水沿いに歩くと停車場に辿り着く。

何年も帰れねえんだぞ気安く乗れるかそんな船ちょくちょく帰れた今までの船とはわけがちがう、とサンジは怒鳴り、ちょくちょく出かけて小出しに留守かせぐんじゃねえ3ヶ月出かけて3ヶ月居座るのも3年出かけて3年居座るのも同じ計算じゃねえかアホが、と養父は罵倒し、テメエおぼえてろこのクソ学生が二度とテメエなんざ預からねえひとの息子に手ェつけやがって変態が、となじられた。
世界中の奴らにメシ食わせんのが夢だとしたら、ドイツにいるオレんとこにもメシ作りに来るだろ、ゾロがそう言うと「夢見過ぎだアホ」と摘み出された。
そんな具合だったので、最後はサンジの顔もまともに見てはいない。
鞄の中に奪い返した一葉の写真を大事にしようと誓った。



大通りに沿った清水の終着点は広い池になっている。
睡蓮やコウボネが水面を覆い、水鳥が暢気に浮かんでいる。
春の嵐のようだった。
全くわけが分からなかった。
サンジが世界をまわる船に乗って、世界中の奴らにメシ作ってやれたらいい、とゾロは思った。
別に今すぐでなくとも、2年経って3年経って10年経って、ゾロを信じられるようになってからでもいい。
でも出来れば今すぐがいい。
理由は明確で、ゾロが留守の間にサンジも出かけていてくれれば、人生全体で一緒にいられる時間が効率よく長く取れるというものだ。ゾロが写真館に居てもサンジが留守では、それで彼の夢が叶うなら悪くはないが、退屈だ。
ジジイも今んとこ元気いっぱいでむしろ一人にして欲しそうだし、構わねえだろ、と考えた。
ゾロの頭は割り切り型にしか設えられていなかった。
サンジとは永遠に分かりあえぬ所以である。






駅の構内で、橙色の日傘を見つけた。
つまらなそうな顔をして、ナミが振り向いた。
「餞別に、幾らか」
と言って封筒を差し出した。まさかこの女が金を包んで寄越すとは思わなかったな、とゾロは意外に思った。
くるくると日傘を回し、ナミは列車に乗るまで見送ってくれた。
今日は目立たぬすっきりとした和装だった。ただ日傘だけが目の覚めるような橙色だった。
「いいわねアンタはどこにでも行けて」
とナミが言った。
そう言われても、矢張りとりたてて自分が恵まれているようにはゾロには思えなかったが、見方を変えれば自らもひとから羨まれるような境遇なのだと不思議な気分だった。
「誰もがアンタみたいに自由には振舞えないわ」
「ああ……」
ホームは元の色彩が判別付かぬくらい埃を被った石造りだった。この上を、多くの人間が往来したのだろう。
「サンジ君は、行かないわ、きっと」
「そうかもな」
「…………」
そこで会話は途切れ、二人は目を合わせた。
行けばいい、と双方の顔の上に期待が滲んでいた。
列車が到着し、扉が開き、また扉が閉じて黒い車体は走り出した。
ナミは橙色の傘をくるくると回した。
それが遠ざかる車窓から太陽のように見えた。
または向日葵のように。
今の自分は、ナミは、手帳に挟んだ写真のサンジは、きっと素直な愛つくしい顔をしているのだろう。
見なくても、そう信じられた。






そして、ゾロは出ていった。
二人が再会するのは、2年後よりは少し早く、場所もあの写真館ではなく、あの町ではなく、遠い国だった。
ゾロのほうが、先に写真館へ帰った。
しばらく待てば、サンジもここへ戻るだろう。
写真館の店主は物凄くイヤそうな顔をしながらも、人手不足の故に未だにゾロを書生部屋へ置いてくれている。






end
05/7/15






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無駄に長くてすみませんでした…!
ヤクルトのときにうまくいかなかったなー、と思ってたあたりにリベンジしたいと思って書き出した話なのですが、やっぱりまだ上手くいきません。
似たような話ばかり増えてしまうのは恐縮ですが、またいつかこんな雰囲気の話に挑戦したい!と今は思っています。

ここまで読んで頂いて本当にありがとうございました。幸せ者です。