大講堂の座席に腰掛けて、オレは見るとも無しに黒板を見ていた。
講義が終わったばかりの教室はざわめいている。あれはゼミ生なんだろうか、真面目そうな学生が一人、教授と少し会話してから使い終わった黒板を消し始めた。
今時大学からの連絡も、履修登録も、レポートの提出も、全部ネットで行うようになっているのに、講義中に使うのは黒板とチョーク、というスタイルが変わらないのって面白いよな、というようなことを漠然と考え、ぼんやりする。
半円形の講義室は、後ろの席へ行くほど段々畑のように席の位置が高くなっているので、まるですり鉢の底に黒板があるように見える。黒板の両脇にある出口に、吸い込まれるように学生が三々五々、適当な列になって向かう。
ふと、そのすり鉢の底の方、つまり、前方の座席からオレンジの頭が立ち上がると、こちらへ向かって通路の階段を上り始めた。ナミだ。腕に抱いたトナカイ型パソコンがまるでぬいぐるみのようで愛らしいが、彼女自身はぬいぐるみを抱いて喜んでいるような可愛らしい性格の女ではない。むしろ若干手ごわい。
「ウソップ!」
ナミは片手をあげてオレを呼ぶ。
何か用事だろうか。
うーん、と肩をまわしてから伸びをする。
木製の座席は見た目は洒落ているが、尻が痛くなって敵わない。隣のカヤ二号をちらりと見る。まだデータの整理中でカリカリ、カリカリ、と小さくハードディスクに記録を書き込む音がしている。
丁度ナミがオレの座る席まで来て、
「ねえ、今日もゾロは休みなの、昨日も休んでたじゃない」
と怪訝な顔をするのと、
「記録終了しました」
とカヤが言うのが同時くらいだった。オレは「よし」と言ってすぐに席を立つ。これで今日の講義は終わりだ。
ようナミ、とオレは応えた。
「ゾロは……、今日も休み」
歯切れ悪いオレの返事に、ナミはますます怪訝そうにする。
オレからナミに説明した方がいいのかも知れない。
「ここじゃなんだし、じゃあオレんちで話すか。そういやおまえが観たいって言ってたDVDも、こないだ見つけたから、貸してやるよ」
オレはなるべく軽い口調でそう言って誘った。
「え、何よ、そんなの明日アンタが学校まで持って来てくれたらいいじゃないの」
「おまえな……ひとに物を借りるのにその言い草は驚くぜ」
あら、私は毎日忙しいのよ、と憎まれ口を叩いておきながらもナミはオレについて来た。
ゾロのことが気になるらしい。
オレの家で話す、と自分で言ったくせに結局、歩いてる途中でオレはぽつぽつ事情を話しだしてしまった。
黙っていると辛い。
それに歩きながらのほうが気がまぎれる。
アパートの部屋に着いた時点で、いざ改めてこれから全てを話そう、なんて逃げ場の無い場面になったら言葉が出てこなくなりそうだ。オレはそれほど精神がタフな方ではないのだ。
実は自分も昨日、様子を見ようとゾロの部屋を訪ねたこと、そこでゾロに銀色の箱を見せられたことをオレはナミに話した。
ひしゃげて傷だらけになったその箱を見れば、それが二度と修復不可能であることはすぐに分かった。ゾロは、それをサンジだと言った。
「嘘……、サンジ君が」
ナミが息を飲む。
「事故だったんだとよ、子供をかばって、電車にはねられて」
「いやよ、そんなの、だって」
相当ショックだったようだ。ぴったりとナミの足は止まった。オレは数歩先で立ち止まり、ナミが追いついてくるのを待つ。ナミはそれに気付いて、ニ、三歩こちらへ向かって歩くが、またすぐ足が止まる。
気持ちは分かる。オレだって凄くショックだった。
ゾロの部屋には、その銀色の箱の入った紙袋と、謝礼だという金の入った封筒が、取り残されたように投げ出されたままになっていた。日曜日に親子連れが来てそれらを置いていったとゾロは説明してくれた。
「ねえ、サンジ君と同じ子、もう居ないの?」
恐る恐る、伺うような目でナミが呟いた。夕方の陽射しが、彼女の長い睫毛の下に幾らかの影を落としていた。住宅街なので、あちらこちらの家から晩飯の支度をする、うまそうな匂いが漂ってきた。風がやたらとぬるい。
「それがな、サンジの製造元のメーカーは、もうパソコン製造からは撤退してるんだ。それに元々、あのシリーズは同じ顔のものが二つとないのが売りだったから」
オレとナミは、またゆっくり歩き出した。カヤとチョッパーも勿論一緒についてくる。尤もチョッパーは自力で歩いているのではなく、ナミに抱かれているのだが。
毎日こんなにも長い時間を一緒に過ごす家電なんて、パソコンくらいなものだ。なんだか凄く考えさせられる。
「じゃあ、特注はできないの?受け取った謝礼金があるなら、特注して殆ど変わらない子が……」
「オレだって同じこと考えたさ。けどゾロはな、それは嫌だって言うんだ」
「なんで!私には分かるわ、文句ばっかり言ってたけど、あいつ、サンジ君のこと気に入っていたわ。こう見えてもあいつとはつきあい長いのよ、私」
くってかかるナミに、オレは少し歩調をゆるめながら、「だからさ」と答えた。
木造のおんぼろアパートが見えてくる。一部鉄筋で建て増しした、お世辞にも今時風には見えないアパートだ。ゾロの部屋の窓は柵が壊れている。まだ来たばかりの頃のサンジが無用心に寄りかかって壊したのだと聞いたことがある。
「ゾロは確かにサンジを気にいってたよ。だから、物のように、同じものを買ってそれで良しとは思えないんだろ。新しいほかのパソコンも買う気にならねえみたいだ」
「そんな、だってサンジ君はもう」
「サンジは一人きりなんだってさ」
オレの答えに、ナミはぎゅっと唇を引き結び、顔をそらした。
「……そんなの、馬鹿みたい」
ナミの腕の中で、小さなチョッパーが、
「ナミ、苦しいよ」
と、困ったように言った。青い鼻をひくひくさせている。
「苦しいの?」
ナミは妙に子供じみた声でチョッパーに尋ねた。
「そりゃね」
チョッパーは頷く。
ナミはチョッパーのまんまるな後頭部に顔を埋めて、「ふうん」と返事のような溜め息のような、微妙な声を出した。
アパートの薄暗い玄関ホールを潜り、階段を上る。ギシギシ床板が軋む。
2階の踊り場に出ると、ゾロの部屋の前にルフィがしゃがみこんでいるのに出くわした。
「ゾロが出てこねえんだ」
ルフィはオレ達の顔を見るとすぐにぴょこんと立ち上がり、訴えた。
「はらへった」
彼のぴんと伸びたまっすぐな眉は、まっすぐな目の光を一層強くし、血色の良い頬も、小さなかさぶたのある額も、だだっ子のようでいながら、この世の全てでも見てきたように落ち着いて見えた。
オレはルフィには何も話していない。ルフィから尋ねてきもしない。
恐らくゾロからもまだ何も聞いていないのだろう。
それなのにルフィは、「サンジの飯が食いたい」とは言わなかった。
不思議な奴だ。
空気の匂いでもかぎとることが出来るのか。
優しい子ね、とナミは言い、ルフィの手を繋いで階段を上がった。オレの部屋は3階にある。ルフィの暮らす部屋はオレんちの向かい側だ。
ここに越してきて以来、ルフィはしょっちゅうゾロの部屋に遊びに行き、煩いと怒鳴られていた。サンジはガキが嫌いではないらしく、案外ルフィと仲良くやっていた。
オレはこの階段を下りてゾロの部屋を訪ね、何度かとんでもない場面に遭遇して、驚愕したっけ。
まさかあいつがパソコンを買うとは思わなかったが、その上パソコンを、あんなふうに、気に入るとは思わなかった。
オレ達三人はなぐさめあうように肩を寄せ合い、もとより空室の多いこのアパートに出来てしまった、とても大きな空洞について胸を痛めた。
09/3/16
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