部屋にあがるように言ってやることすら忘れていた。
女が手に持った紙袋から目が離せない。ガキの方は心配そうに母親を見上げていた。
「これを……、いいえ、この子を、あなたに会わせたくて参りました」
と、女が消え入りそうな声を出した。この子、とは自分の息子のことを言ったわけではなかった。女は紙袋をやけにゆっくりした仕草で持ち上げ、胸に抱いた。大事そうに、その中身をオレに見せようとする。
目をそらした。
この女の話を聞きたくない。
咄嗟にそう感じた。
何か冷たくて肌触りの悪いものが、ざわざわと首の後ろんとこを撫でるような、不快な寒気がしていた。
「先日の、雨の日のことでした」
女がオレの顔を見る。オレはどう切り返していいか分からなかった。黙って突っ立っているほか出来ない。
「……この子が、ホームで足を滑らせて、線路に落ちてしまったんです。サイズの合わない長靴なんか履かせていたものですから、私が悪かったのです」
ガキはぎゅっと口を閉じて、オレを見上げている。女とその息子の二人に見られて、息苦しい。
「丁度、急行電車が入って来るタイミングでした。私は、私は、この子が電車にひかれてしいまうと思い、もう、声も出ませんでした」
その時のことを思い出したのか、女の声は涙ぐんで震えていた。ハンドバックからハンカチを取り出し、口許を押さえる。そしてまた話しだそうとする。
少しでも、その続きを聞く瞬間を遅らせたくて、オレはガキに向かって
「坊主」
と声をかけた。
ガキが顔を上げる。
だが、何を話したらいいか分からない。何も話すことなどないのだ。仕方なく、いくつだ、と年齢を尋ねた。
「6つになります。一人っ子なものですから、あまやかして育てて、お行儀も悪くすみません」
急にオレに話しかけられて驚いたのか、返事もしないガキの代わりに、母親が困ったように答えた。
きちんと両足をそろえて立っている子供は、行儀が悪いようには見えなかった。
「咄嗟に私は目を瞑ってしまったのです」
「え?」
オレはやけにのろのろと疑問の声を挟んだ。
「その、この子が、ホームから落ちた時に」
「ああ」
またのろのろ返事する。辛いことを二度も言わせてしまったが、頭のなかが麻痺したように、悪いともなんとも感じない。
「……すぐに電車が急ブレーキをかけて、大きな音がしました。何か重たいものが私にぶつかりました。私はその衝撃で転んでしまって……、ゆっくり目を開くと、この子が、私の胸の上に乗っていました。誰かが、この子を線路から救い、投げてくれたのです。私の居る場所めがけて」
では、その人はどうなったのかしら、と私はすぐに思いました、と言って女は握り締めたハンカチで何度も口許を拭った。気分を落ち着かせようとしているようだった。
「その人が、かわりにはねられてしまったのではないかと思い、気を失いそうでした。私たちは下りホームに居たのですが、反対側の、上りホームの方から、どなたかが叫ぶのが聞こえました。パソコンだ、と」
「パソコン」
「ええ、そうです。電車に轢かれたのは、人間ではなくパソコンだったと」
耳の中に綿か水でも詰まってるみたいな感じがして、何だか良く聞こえなかった。
「え?」と、オレはまた聞き返してしまった。
母親は、構わず話を続けた。
「最近のパソコンは、人間の窮地を自己判断して救出するように出来ていますからね、本当に、心の優しい……」
女はそこまで話して耐え切れなくなったか、少しだけ涙をこぼした。
オレはただ、ぼうっとしていた。
「お顔や体の方は、もう、その、修理出来るような状態ではなくて」
女は青ざめて震えていた。思い出したのだろう。
「それでも、この子を助けてくれたパソコンちゃんのものだと思うと捨てては置けなくて、パソコンの本体部分のこの箱だけ」
女が手にした銀色の箱は、ひどく傷だらけでへこみや穴があり、中身も砕けていた。
「これだけ、引き取って保管していたのです」
雨も降っていたというし、実際酷い状態だったのだろう。それが今これだけ綺麗に光っているのは、女が丁寧に汚れを拭ってくれたからだ。その場に居なかったオレにもすぐにそれが分かった。
「ところが、昨日駅で張り紙を見つけて、それで丁度今日は日曜日ですし、この子を連れてこちらへ伺いました。本来なら主人も一緒に来るべきところでしたが、生憎今、長期出張のため海外に居ますので」
女はここへ来たときと同じように、また深々と頭を下げた。
「それと、これはその時このパソコンちゃんが持っていた荷物みたいです。一緒に線路に落ちていたので、これも私が引き取って保管していました」
女が差し出したのは、電化製品の量販店の名前が入ったビニール袋だった。これも少しだけ破れて汚れていたが、中身は無事だった。受け取って見ると、パソコン用のシャンプーとリンスだ。オレが一番最初にあいつのために買ってやったものと同じ銘柄だ。これは値段が高いから、あいつはそれを気にしてか、あれっきり使っていなかったのに。
でもそうだ。
オレは嫌なことを思い出した。
この間、あいつを抱いた時に、最初に買ってやったシャンプーの匂いが気に入ってたからあれに戻したらいい、というようなことを言ったような気がする。
オレは単に、またあれを買ってやりたかったのだ。あいつがあの時みたいに喜ぶかと思って。
その口実にするために、言っただけだ。
あいつが突然居なくなったりしなかったら、休日にでも一緒に買いにいったはずなのだ。
充電のためにもたまには外歩けよって言い出すつもりだった。ろくに一緒に出かけたことなんか無かったから。
家事ばっかりさせて、楽しませるようなことを、何もしてやらなかった。
ビニール袋のなかには、レシートも入っていた。
あいつが居なくなった日の日付と10時41分という時刻がレシートに載っていた。
電気屋が開いてすぐの時間に行ったのか。
あの日のことは、よく覚えている。
午前中は女の言った通り、まだ雨が降っていた。
あいつはすぐに戻るつもりで、オレの黒傘を持ち出した。雨だから、電車を使ったんだろう。歩けば結構な距離だし、それにパソコンの電車賃は人間の半額なのだ。ナミの奴はそれさえもケチって、チョッパーを「ぬいぐるみです」と言い張って無料で乗車させているが。
レシートをもう一度良く見る。
シャンプーとリンスだけを購入している。
たったこれだけのために行ったのだと分かる。
値段は、オレが買ってやったときの半額以下だった。やけに安い。安売りをしていたのかも知れない。それで近所のスーパーでもコンビニでもなく、街なかの量販店まで足を運んだのか。
オレは重たい手をどうにか持ち上げて、女から、銀色の箱の入った紙袋も受け取った。
何も考えられなかったし、考えないようにしていた。
自分のものではないような足を引き摺って、押入れからあいつを買ったときについてきた説明書とかの入った箱を引っ張り出す。
中に、保証書も入っていたはずだ。
そこに刻まれた製造番号を確認する。パソコン一体ごとに付けられた個別の番号だ。
銀色の箱の上部に刻印された数字と一致した。
もう疑いようもなかった。
あの日、あいつがどうして居なくなったのか、良く分かった。
箱は、どう見ても修復不可能なほどにひしゃげていた。
パソコンのメモリの完全な消去は、物理的な破壊……
ウソップの台詞が蘇る。
もうあいつはオレを思い出さないのだ。
どこにもあのほんのりと温かい体は無い。
女は控えめな動作で分厚い封筒を取り出した。
「今回のことは御礼の申しようもありません。この子の命をあなたのパソコンに救われたのです。どうぞ、これは新しいパソコンをご購入なさるときの足しにして頂けたらと思います。失礼かもしれませんが、どうか」
母親と一緒に、ガキの方もぺこりと頭を下げた。
ありがとう、と小さな声で言っている。こんな小さいガキにゃ、それだけでも精一杯だろ。まだ意味なんか分かっていないんだから。
「助かって良かったな、坊主。怪我も無かったんだな」
オレはガキの頭を撫でた。
小さくて丸かった。まるであいつの頭みたいに。
オレは手を軽く上げて、母親の差し出した封筒を断ろうとした。
結構な厚みがある。あいつを買ったときの何倍もの金額が入っていることは簡単に予想出来た。
その金で、新しいパソコンを買えってのか。
冗談じゃない。
だが、オレの気持ちが女に分かるはずがない。
謝礼を断ったことを遠慮と受け取ったのだろう、どうか受け取ってくれと押し付けてくる。
本当に感謝していると重ねて言い募る。
これ以上、この場にこの親子に居て欲しくなかった。
オレは、封筒を受け取った。
すぐにでもドアを閉めたかったのだ。
そして、一人きりになりたかった。
09/3/08
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