緒方さん……緒方さん……
ボクは、なるたけ猫なで声で緒方さんを起こす。緒方さんは煩そうに顔を歪めて、それからぼんやりと目を開く。そういう時だけは、憎まれ口も出てこない。
可愛らしい緒方さん。
眠りが彼をなだめている時だけは。
がらんどうの部屋の鍵を開ける。3日も無人であった室内は生気が無く、生活するということが生命を偽称していたに過ぎぬのだという本音を露呈している。
耳鳴りのようなエアポンプの音。
立春を過ぎたとは言え、春は名のみとばかりに外は霙まじりの雨がしとしとと降り続くのに、ここでは雨の音もしない。
冷えきった空気は湿っぽいようで、ボクは空調の電源をいれる。
耳鳴りのような、エアポンプの等間隔の響き。
薄暗い室内で、水槽の中だけがライトで煌煌と照らされている。3日もがらんどうの空間で生きていた魚。それはまっとうな生物などではない。
ボクの呼吸のために起動し始めた空調の音が、水槽のポンプの音を掻き消してゆく。
今まではこの室内で、水槽の中だけが快適な環境に保たれる権利を有していたのだ。
主を待つ空間、というのは、なんだか馬鹿げている。
この部屋の主が戻ってきた時に、すぐさま元通りの生活が再開されることを保証するためだけに、この空間は存続を強要されていたのだ。つまらない魚まで生かしたままにして。
テーブルの上に学生鞄を置かせてもらってコートは椅子に掛けて、勝手知ったるとばかりにボクは冷蔵庫を開ける。もともとそこには生鮮食品は保存されていない。ペットボトルのウーロン茶を見つけて封をきった。
室内には空調の音だけが膨らんでゆく。そのくせ中々温まらない。
ボクは逃れるように寝室のドアをくぐる。きちんと整えられたシーツが救いようもなく間延びしていた。
誰も居ないはずの空間にボクが紛れ込んでしまっている。
制服の襟元を弛めながら、自分の首許に触れて不可思議な錯覚のような肌触りを楽しむ。
くすぐったい。
行儀悪く、ボクはそのまま他人のものであるベットに潜りこんだ。
「緒方さん」
と、ボクはそこには居ない人を呼ぶ。目を閉じる。じわりと身体が熱くなる。
緒方さん……緒方さん……
ボクは不在の人間を猫撫で声で呼ぶ。ボクの横で眠る彼を起こす時を真似て。
ボクが、優しく名前を呼ぶと、緒方さんはぼんやり目を覚ます。眠りと覚醒の狭間にある時の彼が一番好きだ。ほんのちょっとだけ肩をすくめる、甘えた仕草をする。だけどそれはボクに見せるための仕草ではない。寝ぼけているのだ。さまよわせた視線の先に、緒方さんはボクとは別の人物を想定している。寝覚めにいつもその人を探すほど、その人は緒方さんの日常に寄り添っているのだ。その人の前で、緒方さんは、甘えた仕草を見せるのだろう。相手の愛情を少しでも多く引き出すために。
馬鹿げている。
だけど、ボクは、緒方さんのそういう仕草が好きだ。
はっきりと目を覚ましてしまえば、緒方さんは早速憎まれ口を叩く。彼はまるでボクの思い通りになんか、ならないのだ。
「その方が良いだろう?」
と緒方さんは言う。
そう、その方が良いのかも知れない。その方が、緒方さんらしいから。
緒方さん、ボクは……
ボクは囁く。
小さな声を、彼は聞き漏らしたに違いない。
必要以上に清潔なシーツの中で、ボクはズボンのベルトを弛める。そのままホックも外してしまうと、カッターシャツの裾をズボンから引き出す。すっかり安楽な姿勢になって、ボクは寝返りをうつ。うつ伏せになると、緒方さんの匂いが少しした。自分の身体とベットとの隙間に手をすべりこませる。
もう、夕暮れに近い時刻になっていた。そろそろ緒方さんが帰ってくる時分だ。ボクは、なんだか待ちきれないような浮ついた気分になる。
そっと、身体を撫で上げる。自分の手で。
「緒方さん……」
本人も居ないのに、ボクは猫撫で声で彼を呼ぶ。
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