その喫茶店は駅から歩いて5分くらいのところにあった。まっすぐにのびる駅前の通りの先に深緑の看板がぽつんと見える。
「ほら、あそこだよ」
と芦原さんがその看板を指差した。かわいらしく、白いペンキで店名が書かれている。何て書いてあるのかはボクには分からない。アルファベットだけど英語じゃないと思う。カントリー調の、お洒落な可愛いお店。女の子が見たら喜びそうな。
芦原さんは時々ボクを女の子のように扱うことがある。それは芦原さんなりの、大事にする、ということのせいいっぱいの表現手段なのだろうと思う。可愛らしいお店。優しいエスコート。
そんな風にしてくれなくても良いのに、と時々思う。
そんな風にしてくれなくても良いのに、そんな風にボクを大切に扱ってくれる芦原さんを、ボクはますます好ましく思う。そして同時に、芦原さんはボクが女の子だった方が良かったのかな、と不安にもなる。もちろん、そんなつまらないことを言い出して芦原さんを困らせたいとは思わない。ボクは芦原さんの優しいあしらいに愛着を持っている。
けれど、本当はボクも育ち盛りの男子だから、お洒落な喫茶店でお茶を飲むよりも、お腹にたまるお好み焼きとかの方が良いんだ、と言ったら、芦原さんはどんな顔をするだろう。そう考えてちょっと笑った。
「なんだよ?」
一人で笑顔になっているボクの肩を、軽く小突いて芦原さんも笑った。
「嬉しくて」
と、ボクは素直に感動を伝えようとした。芦原さんが、ボクを大切にしようとしてくれているのが嬉しい。ボクは芦原さんがとても好きだ。
「綺麗なお店なんだよ、ここからじゃ中までは見えないけど」
芦原さんの返答は、やや的外れだった。そうじゃないのにな、とボクは唇をとがらした。
往来は平日の午後にしては人通りが多かった。やたら天気が良くて、立秋も過ぎたというのに歩いていると汗が流れてくる。それでも若干は陽射しがやわらいできていた。夏休みの残りの日数を思うと、照りつける陽射しが名残惜しくもある。学校が始まってしまえば、プロ棋士としての仕事と学業との両立は結構大変で、ボクには自分の自由になる時間があまり無い。
今のうちに、と気が急く。
今のうちに、たくさん芦原さんと過ごしたい。ボクは芦原さんがとても好きなのだ。
「芦原くん」
急に、通りの向こうから素っ頓狂な声があがって、大きく手を振っている女のひとが目に入った。大きな声で唐突に芦原さんの名前が呼ばれたから、ボクはとても驚いた。
「あ!」
と叫んで、芦原さんがその人に大きく手を振り返した。女のひとがこっちに駆けて来る。息を弾ませながら、芦原くん、芦原くんじゃない、ああ、びっくりした、どうしたのこんな所で、とはしゃぐように話す。
「びっくりしたのはこっちだよ。仙台の大学に行ったんじゃなかったの」
「夏休みだもん、里帰り。芦原くんの家はこのへんじゃなかったよね」
「この近くに引っ越したんだよ、つい最近。なつかしいな、今、どうしてるの」
女のひとは芦原さんと同じ位の年齢で、殆どお化粧して無いようなのに綺麗で、元気のよさそうな人だった。弾む会話のリズムから、二人が古い友人同士なのだとボクは察する。
ボクは二人を邪魔しないように、
「芦原さん、ボク、先にあのお店に行って待ってるから」
と耳打ちして、女のひとに会釈し、急ぎの用事は無いんだからゆっくり後から来てくださいね、と芦原さんに念を押して喫茶店に向かった。そう言い添えて置かないと、芦原さんが気にしそうだったから。
芦原さんはいつもボクに優しい。
店内に入ると、木で出来た調度類や、ごくシンプルなグラスに生けられた小さな花が可憐に調和していて、なるほど女性向のお店らしく、冷えすぎない程度に空調が調整されていた。
外がとても暑かったので、ボクは窓際の席に腰掛けながらアイスティーを注文した。
芦原さんの部屋に行く。そう思うと浮き足立ってしまう。これからは遠慮無く芦原さんに会えるのだ。今までだって、それは会ってはいたけれど、いつも周り、特にお父さんの目が気になってこそこそしなくてはいけなかったから。
芦原さんと最初にそういうことになったのは、家に誰もいない日だった。それ以来ずっと家に誰も居ない時しか、秘密のことは出来なかった。
でもこれからはいつでも芦原さんの部屋に行けば良いのだから……と、考える。なんだかそういうことを考えるのはいけないことのような気がする。不道徳のような。
あやしい想像を吹き払うように、ボクは手帳をとりだして数日後までのスケジュールを確認したり携帯電話の着信が無かったかチェックしたりした。、
程なくしてお店の扉が開いて、その扉の上に品良く括り付けられた小さな鈴が鳴った。入って来たのは芦原さんだった。芦原さんはきょろきょろと辺りを見渡して、窓際の席のボクを見つけると
「ごめん、アキラ君、待たせて」
と謝りながら歩いてきた。ボクは手帳を閉じながら、いいえ平気ですよ、と言った。芦原さんはせかせかと席に腰掛けながら、彼女は高校の頃の友人なんだ、とか、本当にただの友人で、とか聞いてもいないのに説明してくれた。ボクは芦原さんが熱心に言い訳してくれるのが嬉しくて、少し、笑った。本当に、ボクは幸福を実感していた。ボクがにこにこと何も言わずにいると、芦原さんはそのうち口をつぐんで悲しいみたいな顔をした。ウェイトレスの人がアイスティーを運んできてくれたので、芦原さんがコーヒーを頼んだ。暑いのに、あったかいもの飲んじゃうんだ。
ボクは芦原さんをじっと見る。
コーヒーはすぐに届いた。芦原さんはうつむき加減にお砂糖を2つも入れた。芦原さんがカップをかちゃりとおろす。また持ち上げる。まだ吹いてる。ネコ舌なんだ。
「ごめんね」
と、芦原さんが突然言った。何で謝るのかボクには分からなかった。
「退屈かな」
芦原さんが言葉を続ける。
ボクは今、芦原さんのことで頭がいっぱいで、退屈しているヒマなんかないって、どうして芦原さんに伝わらないのだろう。
こんなにも優しい、見過ごすはずのないほど鮮明な感情が、その共有者でありたいとお互いに最も願い合うはずの二人の間ですら、伝達のすべが無いのだとしたら、これ以上、ボクはどうしたら良いのか分からない。
ぼんやりと、ボクが黙り込むうちに、芦原さんはコーヒーを飲み終わってしまった。
「行こうか」
心細く微笑んで、芦原さんがボクの手をそっとひく。そんなに大事にしてくれなくても良いのに。
何が、そんなに不安なのだろう。
会計をすませて外に出る。先刻より幾分か街路樹の影が長くなったようだった。細い路地を見つけてボクは強引に芦原さんを引き込む。蝉が鳴いている。どこかのマンションの階段の陰に隠れてキスをした。ボクの口の中はアイスティーで冷えていて、芦原さんの口内はコーヒーで熱くなっていた。その温度差がたまらなく愛しかった。芦原さんの唇の、舌の、たしかな存在感がはっきりと感じ取れて。

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