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芦原さん……芦原さん……
ボクはうわごとのように芦原さんの名前を呼ぶ。どうしてそういう時に相手の名前を呼んでしまうものなのか分からないけれど、芦原さんもそういう時にはボクの名前を繰り返す。
なんで、こんな、甘えた声がでてしまうんだろう、と思うようなボクの声。まるでバカみたいに子供っぽく身じろぎをする。
恥ずかしい、とも思うのだけれど、芦原さんが、ボクがそういう時に甘えた仕草をするのを憎からず思ってくれてることを知っているから、それでいいのだとも思う。
だけど夢中で芦原さんの名前を呼ぶ時こそ、実はボクの頭は真っ白で、芦原さんのことも何もかも無我夢中の彼方へ飛んでいってしまっている。ボクは、ボク自身の快楽が高まると、だんだんに自分のその感覚だけでいっぱいになってしまって、芦原さんのことを考えてなんてなくなってしまうのだ。
芦原さんがボクの髪に触るのも芦原さんがボクの身体に触れるのも、どちらもとても心地良く、ボクを幸福にする。ボクは芦原さんがとても好きなのだ。そんな実感が湧いてきて、ボクは満ち足りる。
けれど、その心地よさは快楽と呼べるほどに高められるとボクの思考から芦原さんを奪いあげる。
芦原さんを忘れまいとボクは必死で芦原さんの背中に手をまわすのに、流されまいとしがみつくボクの身体をますます抱き寄せて、芦原さんはボクの快楽を追いつめる。
芦原さん……芦原さん……
甘い声をだして身をよじって、そのうちにボクはボク自身の感覚でいっぱいになる。しっかりと抱きしめたはずの芦原さんが、ボクの手からすり抜けて消えてしまったみたいに。
その瞬間には、何も考えていない。ただ、自分の快楽が頂点に達するのを感じるだけだ。
ボクは芦原さんをとても好きだから、こうするのに。


「引越ししたんだよ。」
と芦原さんはさも楽しそうに言った。午後。日本棋院からの帰り道。ボクと芦原さんは時々こうして二人で帰る。
「一人暮し、しようと思ってさ。もう部屋も片付け終わった」
ふうん、とボクはどうでも良さそうに答えるけれど胸中は穏やかでない。
ボクの知らない間に引越し。
転居なんて、そんな重大なことを、芦原さんはわざとボクに内緒にしていたに違いないのだ。ボクを驚かせようとして。でもそれは憎たらしい悪戯だ。ボクは芦原さんのことをいつでも一番良く知っていたい。
あんまり憎たらしかったので、ボクはまるで関心の無いふりで応じた。
「それで?どこに引っ越したの」
平静なそぶりでたずねると、芦原さんは
「あれ、驚かない?」
と、あからさまにがっかりした顔をして、
「何だよ、アキラ君を驚かせようと思ってこっそり全部すませといたのに」
と言った。芦原さんの、そういう正直なところがとても好きだ。
「別に。引越しくらい、何ですか」
すまし顔でそう言ってやると、芦原さんは腑に落ちない、といった様子で唇を「へ」の字に曲げて不服そうにした。
「そう……そうかなあ」
こんな時の芦原さんは、とても年上とは思えない。ボクの胸のなかの愛情の水位が、くすぐったく上がってゆく。
「嘘」
「え?」
「凄く驚きました。だって全然気がつかなかったもの」
ボクがそう言うと、芦原さんは単純にも、すぐ嬉しそうになった。
「そうでしょ。名人にも内緒にしてたんだから。アキラ君を驚かせようと思って」
「え、そんなことのために?お父さんにも言わなかったの?」
「うん」
芦原さんは得意満面だ。仕方ないなあ、と思った。
「ねえ、どこに引っ越したの」
「ええと……」
芦原さんが伝えてきた新住所は、棋院からそう遠くなかった。
「あのへんの高校に通ってたから馴染みもあるし、棋院からも今までよりは近いしね」
遊びに来る?と芦原さんがボクに言う。もちろんそのつもりだったので、すぐに頷いた。
まだ若年の棋士である芦原さんは、当然のように実家にご両親と住んでいて、今までボクは芦原さんの部屋に行ったことがなかった。ボクの部屋に芦原さんが来ることは度々だったけれど。
芦原さんの部屋。一人暮しの。
引っ越したばかりだと言うのだから、もしかしたらまだ誰もその部屋には入れてないのかも知れない。
「狭いんだけどさ」
と芦原さんが言う。
「アキラ君ちは広いからなあ。窮屈かもね」
「アパート?」
「うん。1LDK」
芦原さんの部屋。他に誰もいない部屋。
それは、ボクの家とは比べ物にならない。比べようの無いほど狭くて、それから二人きりになれる空間。早く行きたい。芦原さんの部屋。芦原さんの持ち物と、芦原さんの匂いと、芦原さんと、ボク。それだけしか無い部屋。思わずボクは早足になりかける。
「それとね、アパートの側に出来たばかりらしい喫茶店があるんだ。今朝通りがかったら開店祝いの花がかざってあったから。そこに寄ってこうよ」
芦原さんが優しい声でボクを誘う。本音を言えば喫茶店なんかよりよっぽど、早く芦原さんの部屋に行きたかったけれど、芦原さんはボクを喜ばそうと気を回してくれてるのだろうから、ボクは、本当?楽しみだな、と答えた。だけど芦原さんの新居のことのほうが気になってしまっていて、ほんの少し、上の空だった。そんなボクの僅かの変調も見逃さずに芦原さんが
「どうしたの」
とボクの顔をのぞいた。
「具合でも悪い?」
「ううん。ごめん、ちょっと考えごとしてた」
ボクは、芦原さんがボクのことを絶えず気遣ってくれてるのが分かって、嬉しく思いながら正直に返事した。
「そう?あ、もしかして今日ってこの後用事とかあったのかな」
申し訳なさそうな芦原さん。でもボクは他の予定のことなんかじゃなく、芦原さんのことを考えてたのに。
「無いよ、大丈夫」
ボクがそう言うと、芦原さんはまだそれでも心配そうにしばらくボクの顔を見ていた。顔なんか見なくても、ボクはきちんと本当のことを教えたのに。
「用事があったら行かないよ」
ボクは少しだけ不機嫌になって、けれど心配して欲しくなかったので、そう言った。無理なんかしてない。ボクはもっともっと芦原さんと一緒に居たいのだ。
「そう、だね」
芦原さんが答えた。


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