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桜が咲いた。
仕事帰りに駅から降りたら、駅前のロータリーの端っこの桜の木が、こぼれるように白い花をつけていた。
なぜか焦ってケータイを取り出して、伊角さんに電話した。
明後日オフなんだ、一緒に花見に行かないかって聞いた。
別にそんなに慌てる必要もなさそうなものなのに、瞬間が逃げて行くような気がしたんだ。
よく考えたらおかしなもので、5分や10分あとだって、伊角さんの状況がそんなに変わるはずがない。なのに、1秒を先に延ばすと手遅れみたいに焦って、本当に焦って、オレは伊角さんに電話した。
でも、その電話をかけようと思いつくほんの1時間前には伊角さんに電話することなんて考えてもいない。
おかしなものかも知れない。
唐突な思いつきに意味もなく焦ってるのだから。


「いいよ」
と直ぐに伊角さんは了解してくれた。
「明後日ね」
落ちつきのある、いつもの伊角さんの声。焦ってかけた電話は焦って切らなくてはいけないような気がする。でも、切りたくない。切る必要も無いはずなのに、やっぱり何だか焦っていて、慌てたオレの様子を感じ取ったのか伊角さんの方から早めに話を切り上げて電話を切るタイミングを作ってくれる。
仕方なく、じゃあねと言って電話を切る。矢庭に早足になった。だからと言って明後日が少しでも早く訪れるわけではないのに。


約束の日は、まだ少し満開には早かった。こぼれたツボミの間には、はっきりと枝が線を引いているのが見える。
でも、うっかりタイミングを逃して花が散ってしまったら嫌だったんだ。次に確実にオフになる日は少し遠かった。それまでの天候如何で、桜なんて、どうなってしまうか分からないじゃないか。かと言ってオフになるかならないか不確定な日に伊角さんと約束するのは嫌だったし、何かのついでの日に伊角さんと会うのも嫌だった。
このところ、目が回るみたいに忙しい。
なんやかやと雑用が重なって、それに慣れないことも多いものだから、夜家に帰ってどうにか風呂にだけ入り布団に潜りこむと、落下するような眠りがくる。
本当のことを言うと、それは充実感であって、煩わしいことではない。
だから近頃自分の生活のことばかり考えている。
疲れてるとうっかり伊角さんに「忙しくて」とか言ってしまいそうだった。
そんなこと、言いたくない。


伊角さんとは、いつの間にか恋人同士のような関係になっていた。
ような、と言うのは、何だかあやふやなままなし崩しに、特別な身体の接触を持ってしまったからで、そういうことをするなら恋人と呼んでよいものなのか、正直、判断できない。
それに、そういうことも、一回きりしかしていない。
恋人じゃないのかも知れない。
良く分からない。
でも、呼べば会ってくれるし、時々キスをする。


オレは伊角さんを好きだと思う。
伊角さんも多分、そうだ、と言ってくれたのだろうと思う。


伊角さんは待ち合わせ時刻より5分も早く来た。
でもオレは15分も早く来たから、全然オレの方が勝ち。
通い慣れない駅前の風景は物珍しくて待ってる間もあんまり退屈しなかった。
「早かったね。良い天気で良かった」
指定の待ち合わせ場所を伊角さんは、行ったことないから分からないかも、と心配していたけれど、ちゃんと分かったみたいだった。
「春だって気がするよな。伊角さん、もう昼喰った?」
「ううん、まだ。一緒に食べるかと思って」
伊角さんは青いデニムのシャツを着ていた。今時ちょっと珍しいような型なんだけど、でもそんなところも伊角さんらしくて落ちつく。
「オレはこのへん、あんまり来たことないんだけど、和谷は?」
伊角さんが少し首を傾げてオレの顔を覗いた。長めの前髪がさらさらと、綺麗な額を滑る。
相変わらず肌とかも綺麗で、輪郭とか、伊角さんの顔の造作の中には不出来な部分が無いと思う。伊角さんが綺麗だと、なんだか嬉しい。
「オレも初めて。少し歩きながら店探そうぜ、花見だし」
そう提案して駅前から続く桜並木を歩きだした。

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