ここのあたりは駅前からずっと延びる通りの左右が見事な桜の並木道になっていて、いわゆる名所らしい。
桜を見に行きたいけど、どこが良いか、と母親に聞いたらここの駅の名前を教えてくれた。
通りに沿って雑貨店やらケーキ屋やら、それから食事するような店もたくさんあって、散歩するには丁度良いと思う。我ながら良い選択をしたものだと思って得意だった。
伊角さんはどうだろう。
伊角さんは楽しいだろうか。
人通りがわりとあって、家族連れ、学生、小さな子供、カップルも多い。
伊角さんと目が合った。前髪がまた、さらりと流れる。
「髪、伸びたよな」
伊角さんの綺麗な髪が嬉しくて、思わず言った。伊角さんは
「ああ、切りに行ってないや」
といかにも今気付いたふうに答える。
切らなくても良いのに、と少し思った。いや、でも延び過ぎたらやっぱ嫌だ。
もし今オレが、長めの前髪を好きだと言ったら、伊角さんは幾らかはそれを考慮に入れてくれるのだろうか。
そんなことを考えた。
「和谷?」
ふと足を止めて伊角さんが振り返る。
オレは落ちつかない時の癖で忙しなく首の後ろを掻いた。
どこまでもずっと続くみたいな桜並木の消失点を伊角さんが視界の中央で遮っている。その一点へ桜の色が調和する。
日当たりの良い歩道の、誰も彼もがのんびりしている。
そっと伊角さんのシャツの袖に手を伸ばして、握った。笑ってみせたのは少し打算のようだった。でも伊角さんも笑顔で返してくれた。困ってたのかも知れないけど、好きにさせてくれる。
道の中央から外れて土の上を歩こうとした。すれ違ったカップルにぶつかりかける。華やいだ声音で「すみません」と謝られた。オレの方がもっと笑顔で「いいえ」と応えた。
伊角さんの方が、ずっと綺麗だと思った。
その、彼女より。
「ねえ、伊角さん」
甘えた声をだして、身体を寄せてみた。
「何?」
伊角さんも優しく応えてくれた。好きにさせてくれてる。得たりとばかりにオレは伊角さんの袖を引いて、少し早く歩かせる。殆ど理由も無いのに。
「和谷、元気だなあ」
伊角さんは早足になる。
「伊角さんは年寄りくせえよ」
「お前がおかしいんだよ、体力ありあまってんだなあ」
なんだよ、これでも毎日忙しいのに、と言いそうになった。
いかにも幸せそうに。
なんでそうなんだろう。
伊角さんを、自分のものみたいに扱いたい。手を引けば合わせて歩いて欲しい。
だけどそのくせ、オレはいつもいつも伊角さんのことばかり考えてるわけでもない。急な衝動のような所有欲が働くのは、何でなんだろう。
毎日、いつでも、伊角さんのことばかりじゃないのに。普段は自分のことで精一杯なのに。
なんで伊角さんが綺麗だと嬉しいんだろう。なんで、伊角さんが綺麗だと思うと、他人にもそれを見せびらかしたいと思うんだろう。
そんなことのためじゃないのに。
桜の植わった芝生の方へ伊角さんの足が向く。そこを横切って人通りの無い自転車用のレーンを歩こうと言う。そっちは本当は歩行者は入ったらいけないんだろうけど、滅多に自転車も来ないし、花見シーズンくらいは許されるだろう。
伊角さんの歩幅は広い。逆に少し引っ張られた。植え込みの角を曲がったところで伊角さんの歩調が緩められる。顔を見上げたら笑ってた。首を屈めてくれた。キスのタイミングは逃したくない。素早く掠めるように唇を合わせた。それからまた何食わぬ顔で歩き出す。
大丈夫。きっと誰にも見られてない。でも、見られてても構わない。
伊角さんをどんなに好きか、誰かに言いたい。
そんなことは必要のないことなのに。
伊角さんがあやすようにオレの頭に手を置く。
「腹減った」
とオレは言った。
伊角さんは楽しそうだった。
伊角さんはどうなんだろう。
伊角さんが、オレの全く預かり知らぬ場所に大事なものを持っていたとして、そのことで伊角さんが一生懸命で、オレのことを殆ど思い出さなくなったりしたら、どうだろう。いや、今でも結構そうなのかも知れない。
そうだとしても、別に良い。
全然良い。
本当のことを言うと、いつも心ここにあらずで平気。遠くからあなたの活躍を聞くのもそれはそれで幸せだろうと思ってしまう。あなたのことを好きだと思うのに、平気なんだ。
それなのに、どうして、特別にあなたへ影響力を持ちたいと思うのか。
おろしたての靴で踵を擦るみたいな、もどかしく痛む幸福を、今はまだ持て余してる。
end ヒカ碁topへ