猫はいいなあ、とイルカは言ったのだ。
飼い猫みたいな生活がしたいなあと。
してみなよ、とカカシは言った。オレが飼ってあげる。
面白いひと、とイルカは思った。



囲いの中



目覚めると既に日は高く、明らかに今朝もカカシは遅刻であった。別にそのことにやきもきしなくなった。
もう、これはこれで良い。自分の責任では無いことだ。
そんなふうに考えて、明るいベットの中でのびのびと寝起きの身体を伸ばす。
昨夜の名残でまだ身体は重苦しく感じられたが、汚れた足の間も、鬱血の跡の残る胸元も首筋も、若く健全なイルカの寝覚めに陰を落とすことは出来なかった。と、言うよりは、全ての出来事は、このごろ彼にとって無頓着のように滑り落ちて押しやられてしまう。
まるで猫が粗相の跡に砂をかけて素知らぬふりをするかのように、イルカは湿ったシーツをまだ眠りの中に居るカカシの上へ丸めて乗せると、さっさと起き上がって寝室を出た。

家中の窓を開け、新鮮な空気を誘い込む。
なんて良い天気だろう。
出かけたい。けれどどうせ大して遠くまでは行けない。毎日決まって同じコースを散歩することが今や習慣となっていた。まるで猫のように。
ここに来てからのイルカの生活は、まるで飼い猫のようであった。

家中を吹き抜ける風にカカシは身震いし、目を覚ました。イルカが彼の上へ掻き揚げて行ったシーツの狭間から起き上がり、アクビしながら手洗いへ向かう。ちらりと時計を見て、下忍の部下らの待ち合わせ時刻に、どうやら一時間ほど遅刻するなあと考えた。

イルカが開けっ放しにした窓を一つ一つ閉めて歩く。
山小屋のような作りのこの家屋に、部屋数は大してたくさんは無い。
今二人が眠っていた寝室と、居間と、台所と、離れになっている風呂場。あとは洗面所とそのすぐ隣にあるトイレ。居間にはロフトがあったがそれは物置としてしか利用されておらず、洗面所も清潔ではあるが古ぼけていた。
木製のどっしりとした玄関の戸には鍵が無い。
どうせ、こんな場所まで訪れる人間はマレである。
里の奥に聳え立つ山の裾の森。
そこは里と里の外部を隔てる境界線でもあり、結界も罠も谷も全て、他人を拒む鉄壁の砦だった。
だが、そんな事情を見せもせず、森の中は平穏で平和だった。
ただ誰も来ないというだけのことだ。
もとよりこんな場所に、誰も用は無い。

この小さな一軒家にイルカが連れてこられたのは、アカデミーの休暇の初日のことだった。
「ほら、いいでしょ」
カカシは始終にやにやしていた。
「……ここ、カカシ先生の家なんですか?」
「そう、貰ったの。無断でだけど、ここ知ってるの今はもうオレだけだしね、多分」
「はあ……」
「変なカオしてる」
不機嫌そうにカカシが唇を尖らせる。子供みたいな仕草にイルカは思わず笑った。
「だって、こんな山奥に家があるなんて思わなかったんですよ」
その日も、今日のように晴れていた。
「見張りも兼ねて、ここにあるんだ、この家。ここって里の外れだから」
四代目の建てた小屋なんですよ、と言い添えるのを聞くと、イルカは言及することを遠慮してか黙り込んだ。それでも楽しそうな素振りをしていた。
「あんたはここで、何もしなくていい。寝て、食べて、好き勝手するの」
猫みたいでしょ?
カカシはイルカの顔を眺めて、同意を促がす。
「アンタが猫みたいに生きたいって言うからさ」
何と言うのか。
変な言い分である。
イルカは
「仕方ないですねえ」
と、この冗談にのった。どうしてだろう、と思いながらイルカはくつくつと笑った。どうしてだろう。ここで過ごすだろう休日を思うと、まるで子供ぶるような、甘えた含み笑いが湧き起こってくるのが不思議だ。
気持ちのどこかが浮ついて、違和感を訴えていた。
だがそれは受け入れがたいような類いのものではなく、これまでも影のように親しく身に添ってあったもののように思えた。



ここで、猫のように暮らす……



「イルカ先生」
突然ドアを開けて姿を現したカカシに
「わっ」
イルカは驚いて身を弾ませた。
「なんですよー、オレを一人で置いてけぼりにして」
「置いてけぼりって、もう、一緒には入れないでしょ、あんた、便所までついてこないで下さいよ」
「えー」
「えー、じゃありませんよ、ほんとに。ほら、外に出て」
ぐいぐいとカカシを外へ追い出そうとする手をすり抜けて、ひょいと、カカシが背後からイルカを抱きこんだ。
あっ、と抗議の声があがる。
僅かの間の攻防が無言のうちに繰り広げられ、ごそごそという不審な物音の他は束の間静寂な朝に帰る。分が悪いのはイルカである。そのうちにカカシにズボンを下げられ股間を掴まれてしまった。
「……は」
カカシの手の熱が、そこへ触れただけで溜め息が出る。
そのくせカカシはただ掴んだだけのそこに、何もしようとはしない。イルカが焦れて居心地悪そうに身動ぎするのを楽しむようだった。
「あ……もう、カカシ先生、放して下さいよ……」
「何で?」
「何でって……」
はあ、と、イルカがまた一つ溜め息をつく。溜め息の漏れ声が、ビブラートのように震えていた。
「手伝ってあげるよ。……しなよ」
カカシは手にしたイルカのモノをぐいっと引っ張って、促がすように男性用の小便器の白い陶器のつるつるした冷たそうな無機質の、その壁へ、押し付けた。
眩暈がする。
先端がひやっとした陶器へ触れた瞬間、ひくん、と腰が跳ねた。
「……よせッ……」
「いいじゃない。こうやってちゃんと持っててあげるから、見せてよ」
「あ……出ません、よ。これじゃ」
「なんで?」
イルカは吐息を震わせながらカカシを肘で打とうとした。
「おっと」
軽くそれをいなした背後の男は、イルカの股間を掴んだ手を器用に上下に動かし始める。とうから立ち上がったそこは、先端から最初の透明な液をこぼした。そして、つい、と流体は薄い皮膚の上を伝って降りると根元のあたりに滑り込んで消えた。
「ああ……あ、ああ……」
真上から自分のそこが他人に弄られているのを見下ろすのは不思議な気分だ。そして耐えがたく恥ずかしい。
呼吸が熱くて湿っぽい。
それは自分の中にあった熱であるし、湿気である。
誰も口をきかないのだから、辺りは静かである筈だ。衣擦れと、くちゃくちゃと粘っこいイヤな物音と、どうしても漏れてしまうイヤな呻き声以外には、鳥の鳴く音くらいしかない筈だった。
だがイルカの頭の中には甲高い一律の響きと、滅茶苦茶に乱れた心臓の音が、落ち着けぬほど煩く鳴っていた。
「煩い……」
小さくイルカは訴えた。
ああ、煩い、頭のなか。
がんがんと頭痛がした。
「煩い……」
繰り返すと「は?」とカカシが手を止めて聞き返した。
ぞく、と寒気がした。
イルカは苛立ってカカシに背を押し付けむずがって大きく身体を揺すった。
「……い、あ」
「イルカ先生?」
「煩い、あ、もう、くそッ」
ぐいぐいと背を押して、自らのペニスを握っているその手をイルカが無理に引っ張った。
「あ、くそッ、もうッ、んう」
「くそって、あなた」
カカシは乱暴に身動ぎするイルカの身体を両腕で抱え込んで、宥める。
イルカは「嫌だ」と言いながら、自分を抱え込んだ腕を相変わらず引っ張り、叩いた。
頭の中で、甲高い唸りのような音がする。
全ての思考を壊すように、せきたてる音が。
「あ、あ、早くッ!」
「早く?」
「も、嫌だ」
「……ああ」
のばされたカカシの指がくるりと先端を擦った。
漸く意思を持ったその動きに、イルカは安堵した。
ぽつ、ぽつ、ぽつと次々に滴が垂れてくる。
それを自分で見下ろして、堪らないというように、ああ、うう、と言って眉根をぎゅっと寄せる。
忙しなく呼吸した。
もう何も考えられなかった。
いや、最初から何も考えていなかった。イルカは全くの無策だった。こんなふうに始められてしまえば、どうしたって、一つの決まった結末を迎えずにはいられないのだ。
知らず知らず小刻みに腰を揺すりながら、イルカは手のひらを、閉じたり、開いたり、足の指を丸めて力をこめたりして押し寄せる欲求に耐えた。耐えながら、耐え切れなくなるのを待っていた。
じわじわと込み上げるように、或るいはとろとろと何かがこぼれ落ちるみたいに、下腹がいっぱいになってゆく。
はちきれそうだった。
「だ……、も、出る……」
カカシの手は、締め付けるようにイルカのペニスを握り込んで扱いていた。
「出ないってさっき言ったじゃない」
「ち、違う、も……ッ」
ひくひくと下腹が波打つ。
「も、放して、ぇ」
耳たぶを舐る音が、がさがさと間近で神経を刺激した。
「嫌です」
「駄目、放して、なにか、拭くもの……あ……カカシ先生……」
背後のカカシにすっかり体重を預けて、イルカは爪先立ちになる。そして顎を仰のけて、ふ、と柔らかい溜め息をついたあと、目をうっとりと閉じそうになり、次の瞬間に
「あああ」
と、大きくわめき慌てふためきながら身体をはね起こそうとした。
腕から逃れようとする身体も、慌てて我慢しようと抑える手も、間に合わなかった。
カカシは丁度耳たぶの下の柔らかいところに吸い付いているところだった。そこは少し冷たくて、口に入れると気持ちがいいのだ。
「…………ッ!」
ぴしゃり、と勢いづいて吹き出した精液が、小用器の中へ跳ね返った。
頭の中の心音は、暫く騒ぎ続けた。

大きく息をつくと、ふらつく体を立て直し、カカシに預けていた背を離す。カカシは腕の中の体重が無くなると、ゆっくり横へそれてタイルの床に気遣いもなく座り込んだ。
「ああ、結構な遅刻だなあ」
カカシがやけにのんびりと言う。
陽射しは少しの間にも真昼の力強さへ向かっていた。タイルの上は冷え冷えとしているのに、曇りガラス越しの陽光ばかりが暖色で明るい。
イルカはちらりと起き抜けの姿のままボリボリと頭を掻く男を見ると、衣服を整え、今度こそ用を足した。
旧式のタンクの紐を引くと、天井間近にある水槽から細い配管をつたって水が流れる。
さあさあと流れ下る水は、絡みつくような粘り気のある白いにごりをつくって、渦巻いて、結局は何もかも流してしまった。
「あーあ、どうしよっかな」
カカシの声に、イルカが振り向く。
「これ以上遅れたらさすがにマズイよね」
「…………」
イルカは肩を竦めた。
「仕方ない、オレったら勃ちっぱなしで出かけます〜」
ぷっ、と思わず吹き出す隙に黒髪が揺れた。



カカシが居なくなると途端に家の中ががらんとしてしまったような気がする。
一人きりの屋内でイルカは暫く腹ばいに寝そべって、暖炉の火のはぜるのを見ていた。山の中のことなので、朝晩はそれなりに冷えこむ。
以前はこのくらいの寒さなら、暖房をいれずに過ごしたものだ。
だがここに来てからは、火が灯るのを見ることが楽しさに、半ば習慣的に部屋を暖めている。たいくつなのだ。退屈するほどの時間を、今は与えられている。
今だけ。
好い加減に日も高くなってきた頃、イルカは身を起こし、風呂に入ることにした。さっきはカカシが見ていたので何となし、そこを拭って後始末することがためらわれた。それでそのまま、下着をあげてしまった。今や名残のあれもこれも、乾いて張り付いて不愉快極まりない。
面倒だなあ。
そう思ってぐずぐずしながら、ようやく重たい腰をあげ、風呂を沸かす。昨夜の残り湯そのままに、ただ、旧式のスイッチだけを入れた。
ごとん、ごとんと重たく湯沸かし機が唸る。
ぬるく、湯が沸く頃、リビングの暖炉の前に衣服を脱いで、イルカは浴室へ行った。

浴槽は狭くはないが、夕べのまま水を足さなかったので湯が浅かった。
長く身体を伸ばしてどうにか肩まで沈む。
暖かい。
深い溜め息を吐いて、足の間を擦った。乾きかけた体液が再びぬめりを帯び、イルカの手によって洗い落とされる。そしてその分浴槽の水面が汚れる。柔らかく、イルカは陰茎も洗った。そこもやはりぬめっていた。裏筋も、先端も探って洗う。そのうちにそこは刺激されて、立った。そうすると、水面からそこだけが息継ぎをするように顔を出した。イルカは一人笑い、それを上下にこする。
じわりと先端が滲んで、快楽がその瞬間の準備を整える。
少しも我慢しなかった。
浅い湯水の中で大きく足を開いて、そこだけ水から顔を出したペニスの先から、精液が飛んだ。

夕方まではさしあたってすることもなかった。
暖炉の前に毛布をひきずってくるとそこへ寝そべった。
ここへ来てからというもの、仕事らしい仕事は何もしていない。
寝て、食べて、セックスする。
あとは散歩くらい。
こんな怠惰な生活をして、自分はどうなってしまうのだろうと時々心配になる。
ここに来る前は、こんなことはしなかった。
こんな、昼間からだらしなく眠るような生活は。
里に居た時は、仕事が規則正しいせいもあって朝は毎日同じ時刻に目覚め、職場へ行き、夕方には買い物をしてから帰宅し、夕飯を作った。太陽の光を浴びて育ったものを食べなければいけないと思っていた。好き嫌いをしてはいけないと思っていた。夕飯は一人分であることもあったし、カカシが来ればカカシの分も作った。食事が終われば食器を水につけて風呂を掃除し、湯が沸くまでの間、皿洗いをし、休日には洗濯物を片付けて布団を干した。部屋の中はそれなりに整頓されていた。それが正しいことだと思っていたし、正しい生活をすることを、誰からとなく求められているような気がしていた。
だが、ここには誰も居ない。
カカシ以外は誰も居ない。
そしてカカシは、イルカが正しく生活することを、別段、望んでいるふうでもなかった。ただそこに居るだけで良いというふうに。逆に言えば、そこに居ることしか望まれていないふうに。
カカシとの関係を持ったばかりのころ、イルカはカカシが自宅のアパートへ人目も気にせず好きな時間にやってくることが気に入らなかった。
いかにも何かある、と思わせるような深夜の来宅は、特に謹んで欲しかった。来るなら来るで、忍んで来れば良いものを、わざわざそんな時にかぎってあの男は、玄関のチャイムを鳴らして普通に訪れるのだ。
「皆が変に思うでしょう!」
抗議するイルカに、カカシはいかにも白けた表情で答える。
「皆って、誰がです?」
「誰って……」
そう言われるとイルカは詰まった。
「誰って、皆です」
そう、皆、だ。
イルカは誰からでも、しっかり者と思われたかった。とりたてて不足もなくまっとうに暮らしているのだと思われたかった。
それが、正しいことだからだ。

日が暮れてきたころ、ようやく身体を起こす気になった。
寝てばかりいてはいけない、という強い倫理の尻尾が習い性のように脳裏を掠める。
出かけなければ。
少しは外の空気を吸わなければ。
こんなんじゃ、なかなか元の生活に復帰出来なくて困るだろうな。
こんなことは今だけなのだから。
サンダルを履くときの、ぎゅっと言う音がイルカは好きだ。
軽く走りながら吸い込む朝の湿気や、行き交う人に挨拶することや、大声で笑い、怒り、生徒のことを思い、模範となって生きることが好きなのだ。
ぎゅっと踏みしめるサンダルの靴底の音は、いつも誇らかな意思を呼び覚ました。
出かけよう。
そう思って玄関の扉を開ける足元で、サンダルの靴底は、ぎゅっと鳴った。
イルカはここから帰ったあとの生活のことを思い出した。



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