家の周りは森なのだ。
どこまでも木ばかり生えている。木の無い場所には草がしげっている。草すら生えていない場所は岩場である。
ここへ来たばかりの当初は、この覚えづらい地理を把握していくことだけでも楽しかったが、あっという間にその作業は済んでしまった。
イルカが歩きまわれる範囲は限られていた。
そのことについて考えることはもうやめた。
今は、そのテリトリーの中で出来る自己鍛錬を、思い出したように時折繰り返すだけがイルカが意志を持って為す「するべきこと」であった。
里へはカカシだけが行く。
カカシだけが任務に行き、生活に必要な全てのものをそろえる。大抵の場合、惣菜屋で弁当を、売店で新聞を買ってくる。
イルカは生活する以外のことを何もしないのに、同時に生活とは無関係である。
家屋から然程離れぬ場所で、見繕った適当な木の枝に印をつける。そこへ次々とクナイを投げることに熱中していた時、背後に人の気配を感じた。
感じた、と思ったときにはもう抱きすくめられていた。
「……おかえりなさい」
はいタダイマ、と間延びした声が返ってくる。
「油断しましたねえ」
剣呑に笑う背後の人は、カカシの他にあるわけがなかった。ここはそういう場所である。カカシの他の人物には出会わない。
「こんなに近づくまで気付かないなんて、危ないですよ、イルカ先生」
「わわっ」
「オレが悪い人だったらどうするの」
力任せに抱きついた腕で、カカシはイルカをずるずると引きずって木陰まで運んだ。最も追々に濃くなる夕闇に、木陰も木陰でない場所も、同じ明度になりつつあった。
「敵いませんよッ」
足をばたつかせながらイルカは叫んだ。
「敵いませんよ、あなたになんて」
はは、とカカシが笑う。
「良かったね、オレが悪いひとじゃなくて」
イルカは悔しそうに、負けました、放して、と言った。
朝も今も。
あっさりと後ろを取られてカカシの好きなように抱き込まれている。
ここでの生活は常に降参することを強いられる。
「放すわけないでしょうに」
カカシは悠々とイルカを片手で捕まえたまま、空いた手でズボンの中を弄ってくる。
「あん……」
鼻に抜けるような声が出た。簡単に勃起することは、まるで自堕落と思えた。
こんなことばかりして。
これから先、どうなってしまうんだろう。だらしがない。こんなことではいけない。真っ当に生きなければ。
こんなことは今だけで、里に帰れば、また以前のように務めを果たさなければいけないのだ。
辺りはもう暗かった。
はだけられた腹に、ひんやりとした空気が降りて来る。
今だけだ、と思うことは、現状を押しのけようとする意志にも、現状を甘受しようとする欲望にも同時に働き掛けた。
このままではいけない。
けれど、今だけしか、こんなふうには居られない。
カカシの熱い舌が襟足をなぞった。
乱雑な仕草は彼がまとった一日分の疲労を語りかけてくる。
イルカの前髪を掻きあげるように撫ぜ、地面へ押さえつけてその身体を仰向けて寝かせ、乱暴に唇を合わせながら、彼は外の世界の労働の気配を身に纏わせていた。その自信ありげな手のひらの熱は、彼がイルカから取り上げたものだった。
カカシは興奮してか息を乱していた。
イルカは中天を眺めながら、徐々に、鈍く、とろりと湧いてくる欲望を待っていた。
前戯の時間はそれほど長くはなかったが、要領の良い手順が次々と辿られた後には、情けないような声が漏れ始めた。
「あ……ああ、う……あ」
薬品でぬめる細い指が、体内の快楽の拠点を探り当てる。
「嫌ッ……」
「嫌じゃないでしょう」
その場所を、こじあけるように開かれる。外気はその中にまでくぐりこむようだった。
「嫌、じゃないでしょう?」
カカシは甘やかすように空いた手で額を撫ぜながら、繰り返しそう問うてくれた。
嫌ではなかった。
ただ、どうして良いか困るだけだ。
嫌ではない、ということに、困るだけだ。
冷えた空気が流れ込む下の入り口に、固くなったカカシの先端があてがわれた。濡れた体液が風に冷やされたものか、瞬間だけひやっとした感触があった。
「んぅ」
ぐいぐいと、中へペニスを押し込まれる。
何度か揺すって最後まで入れられる。それから、また引き抜かれ、押し戻され、揺すられる。
「ごめんね、朝出来なかったから、ずっと我慢してたんですよ、オレ」
「……嫌」
「いい、でしょ」
嫌ではない。
それでも口からは「嫌だ、嫌だ」という言葉が切れ切れに漏れる。
嫌だ、とイルカが言えば、カカシはふっと笑って腰の動きを止めたり、逆に速めたりする。
「あぁ、いや」
わななく両腕を脚と同じように左右に広げた格好で地へ押し付けられ、平らな胸を吸われた。カカシの髪が顎に触れる。一際高くイルカは「嫌だ」と叫んだ。
「嫌じゃないでしょう」
少し苛立った声でカカシが言った。
咎めるような口調は、ふと、イルカの思考に滑り落ちて、下肢を開かれて体内に外気が入ったときと同じに、ひんやりとした違和感を知らせた。
嫌ではない。
けれど、嫌だ。
嫌ではないということが、嫌だ。
イルカは大きな声をあげた。
ここには誰もいない、ここには誰もいない、カカシ以外は。
そう自分に言い聞かせながら、ただ官能の声だけをあげた。
もっと、と言い、もう止めて、とも言った。
そして「嫌だ」と。
イルカはここから外へ出られない。
ある程度の範囲以外は歩きまわれないように、カカシが細工をしたらしく、二人の暮らすあの小屋からあまりにも離れると、不思議なことにぐるりとまわって同じ場所へ戻ってきてしまう。
幻術だ。
そう気付きながら、そのことを取り立ててカカシに確認してみたことはなかった。
カカシはこの狭い囲いの中に閉じ込めることで、イルカを飼い猫のようにした。
イルカはただカカシに甘えることだけを、生活の全てとすることになった。
「飼い猫のように暮らしたい」
と言いながらイルカはそれを自堕落な罪のように思っていた。
だが今となってはそれは現実に我が身の上に振りかかっているもので、自らの力では如何とも押しのけ難い。カカシは気が済むまでイルカをこの囲いの中へ閉じ込め続けることが出来るのだ。いくらでも。
そして好きなだけ、イルカの欲しいものだけを与え続けるだろう。
こういうのを何と言うか知っている。
囲われ者、と言うのだ。
囲われて、何もしなくて良いと言われている。
嫌なことは何もしなくて良いのだと。
猫のように暮らして良いのだ、と。
「あぁ、は、あぁ、あ」
表記しづらい声が漏れる。
イルカは高くかかげられた足の間にカカシの胴体を挟んだまま、出来る限り腿を閉じようとしてもじもじと腰を捩った。
「あ、も……」
不自然な体勢では届かない腕が、カカシの肩先を掠めて空を掻いている。
相手に任せきった快楽はもどかしく、また堪えきれなく、どこを伝うのか分からない性感が、前のほうへ疼くような衝動を流し込んでゆく。
後ろの穴だけをカカシが熱心にかき回している。
なのに前で性器が突っ張って、今にもイッてしまいそうに痙攣している。
滑稽だ。
それを堪えようとして足を閉じようとするがカカシがその狭間にいるのでそうもいかない。苦し紛れに縋ろうとしても上体が遠くて手が届かない。
心許なく、イルカは両腕を胸の前に寄せて、忙しない呼吸を吐いた。
「……い……」
イルカが必死とカカシに何かを言おうとしたとき、カカシは変に真剣な顔をしてイルカの足を押さえ込もうとしているところで、その奇妙なまでの真顔にイルカは何を口にしようとしたのか、失念した。
大したことではなかった。
意味のあることでは。
ただ無理にでも何か会話のあることを当然のように感じ、望んだだけだった。
上着が段々にずりあがってゆき、土や細かい雑草の葉先が背に触れる。少しは苦痛だが、大したことではない。ただ、それをカカシは知らないだろうことが、こんな場面では不思議に思える。自分だけが自分の背の感覚を知っている。そして、それを知らぬままにカカシは自分を組み敷いて、この身体の、感覚や興奮を彼の思うように操っている。
「カカシ先生……」
もう一度、話し掛けようとした声に、返事はなかった。
繋げられた場所に、何と言ったら良いのか分からない、かくり、という手ごたえがあって、彼が射精したのが分かった。すぐにじわっと熱が広がって、体内に精液が流れ込んでいく。
ああ、あの真顔は、射精を堪える真顔だったのか。
そう思ってイルカは少し笑った。
カカシはぼんやりとした表情で、ようやくイルカの足を下ろすと体を寄せ、口付けてきた。
唇を吸い、前歯の並びを舌で確かめながら額を撫でられる。
まだ解放されないままの性器がカカシの腹にあたると、カカシは優しい動作でそれを擦り上げた。
「イルカ先生」
先刻には呼びかけに応えなかった彼が、今度は呼んでくる。
イルカは緩慢に瞬いて、仕返しのように、いらえなかった。
いらえずに、呼びかけだけ聞きながら、仰向けの視線で中天を見ていた。
真上に差し掛かる木の枝には、イルカの投げたクナイが刺さり、撓んでいた。
細い枝を折らず、同じ箇所だけを狙って整然と突き立てられたクナイの刃。当然それは技術の要る仕業であった。
「……く、う……」
カカシの手の動きだけでは足りないとばかりに腰が動く。だが直ぐにそれをいけないことのように感じて動きを封じる。そしてまた疼きに押されて体を揺らす。
「いきそうですか?」
カカシの声がした。
甘やかす口ぶりだった。
まだ大丈夫だ。
イルカは細枝に整列する切っ先を眺め、自分に言い聞かせる。
ずっとじゃない。
ずっと、こんなことはしていない。
「い……」
「イく?」
「イヤ、だ」
瞬間、カカシの手は乱暴にイルカの髪を引いた。
「…………」
お互いの視線が呆然と絡み合う。
どこかで、夜鳴く鳥が叫んでいた。
辺りはどこまでも森が続き、どこまで行っても、どこにも、住む人なんか居ないのじゃないかと思えた。里のことは、あまりに遠い場所のようであった。
少し肌寒い。
高地であるからだと思った。
植生は里のものと大差無い、地理上の位置は知っている筈だ、とも。
さっと視界は靄がかり、痺れとも震えともつかぬ衝動が訪れて、カカシの手の中にイッた。
彼が手袋をしたままであることに気付いたのは、すっかり出してしまったあとだった。
関係ない、と目を閉じようとする。
目を開けて、頭上の刃先を見る。
また閉じる。
今だけ、ここで猫のように暮らす。
アカデミーの休暇など、とうに終わっていた。
end
囲いの中
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