■第6話 「芝右衛門狸」

初めてそれを為す時、というのは必ずあるもので御座いやす
先生が初めて自ら手を下したのは、あの時
その相手は、一匹の狸

『それはほんとうに惨たらしい 私にとって切なく 忘れられぬ事件だった』

そんな風に書き出して、先生は筆を進めておいででした

『だが私は忘れずにいよう いや忘れてはならないのだ その為にこれを書き綴る 一匹の狸に寄せて』



ある時、おぎんが芝右衛門一座という馴染みの人形一座を手伝うことになったと聞いた先生
その一座にまた奴(やつがれ)共の次の目的があるのかと思って付いてきなすったんでさ
最初はただの好奇心だったようでしたが、段々とそれだけではいられなくなり……

その一座では、檻と言うには豪奢な座敷牢の中で、鎖に繋いで “狸” を飼っていやしてね
姿は人間の若侍なのに、「私は狸なのです」 と初めて会った時にそう呟かれ、先生は戸惑った様子
芝居が好きで人に化け、観に来て犬に食い殺された、という芝右衛門狸のことを思い出されたようで

一座に同行するようになったある夜、先生は辻斬りの現場を目撃してしまいやした
普段は大人しい狸だが、叫び声を上げることもあると聞き
それから何か気になったのか、狸から身の上話を聞いた先生
奴(やつがれ)の宿まで足を運び、そのことを話して聞かせてくれやした

先生がわざわざ訪ねて来てくださるとは、もう随分と心を許してくれていると思ってもいいものか
だが、今は仕掛けの最中
しくじっちまっちゃァいけやせんから、嬉しさは隠しておくことにして、いつものように構いもせずにおりやした
先生は煙草はお呑みにはならないようでやしたので、自分勝手にキセルをふかしながら話を聞いたんでさ

一通り聞いてから、人に化けた狸の話も、さる方のご落胤という話もよくあるのではと言うと
「確かにそうですけど、それはそれぞれひとつずつの場合で、両方一緒の話なんて…」
と、やけに気に掛けている様子
狸の境遇に同情し、思いのたけをそのまま受け入れてしまうのはお優しい証拠
とことん純粋なお人なんでやすね…
けれどそれは、物事を自分の目線からしか見ない単純さだとも言えやす
そんなことをぽろっと口にしたところ、「もういいです!」 と怒って帰ろうとなさって
そのまま帰してしまうと、また一直線に突っ走っていってしまう、と危惧しやしたので
泊まっていくことを勧めやしたが聞き入れてはくれやせんでした

後で先生は、それが奴(やつがれ)からの警告だったと気付かれたようでやすが
そこまで思い至ったのは、すべてが終わった後
痛い思いをして、ようやくわかることもあるんで御座いやすね

さて、一人で帰ろうとした先生、霧の中で立ち往生していると、再び辻斬りの場面に出くわしちまいました
チラと見えた顔が若侍だったので、まさかと思いながらも朝になってから確かめに行かれたようでやす
檻を覗くと、狸だという若侍は鎖に縛られたままだが、着物には血が
それで、座長にそれとなく言ってみたところ、逆に脅しのような言葉を返されたようで

誰もが口を噤み、真実から目を背けていた人形一座
だから先生は、霧の夜の真実を自分の手で探るしかないと思われたンで御座いやしょう

煌煌と月の光が辺りを照らし出していた夜、木に登って檻を見張っている先生を見付けやした
あまりに真剣な様子にちょいと悪戯心なんてものが湧き起こったので、そっと近寄って肩に飛び移ったんでさ
そうしたら、「もしもし、又市さん?」 と、驚くでもなく振り払うでもなく、そのままじっとしていた先生
その声や言い方に険は無く、どちらかというとちょっかいを出されたのをどこか面白がっているような
すると、何故かじゃれあっているような気にもなり、柄にも無く気恥ずかしさまで感じてしまいやした
そんなことは、これぽっちも表には出しませんでしたがね
噂の狸とやらを見たくなったと説明すると、おぎんから何か聞いてからかいに来たのだろうと疑う先生
少し拗ねた様子が可愛らしいと思ってしまう辺り、奴(やつがれ)もすっかり毒されていやすね……
そのままそこで化け狸のことを話していると、誰かが檻に近付く気配がしやした
月光に浮かんだのは座長である芝右衛門の顔
素早く檻の鍵を開けたのを見て、思わず声を上げようとした先生
ったく、考え無しもいいとこだ
咄嗟に奴(やつがれ)がその口を手で塞いだんでやす
けれど、若侍が走り出て行くのを見ると、この手を振り切って追って行っちまいやした
とことん深みにはまらないとわからないお人のようで御座いやすね
哀しむのは先生ご自身だというのに……

その時も、先生が追って行った目の前で、座長の孫である、ていという童が斬られちまったんでやす
「お侍さま、落ち付いて!」
そう叫んだ先生をも侍が切り捨てようとしやしたが、寸でのところで防いだのは飛び出してきた小さな人形
自分の刀で二つに切り離された人形を見て、突然うろたえる侍
頭を抱えてその場に崩れ落ちると、先生が駆け寄ろうとなさったんでさ
どこまでも優しいお人なんで御座いやすね……
だが、この時はまだ身の危険が無くなったわけではなく、そのまま行かせる訳にはいきやせん
当人はそんなことは露ほども考えていなかったようでやすが、長耳が先生を気絶させ足を止めさせやした

それから先生は長耳に運ばれ、暫くの間、大木の上で枝に寝かされていやした
目を覚ました時、眼前に黒い影を見付けると、驚いて木から落ちそうになっちまって
長耳が足を掴んで助けやしたが、「どっこい、危ねーやい」 などとほざきやがって
先生をそんな目に遭わせたのは誰なんだ、って話でやす
先生は、ただ助けてもらったことだけを感謝していたようでやしたが

その後、木の下で苦しむ侍を見下ろしながら、長耳は言いたくは無いがと言いつつ、先生に事実を告げやした
芝右衛門老人も一座の人達も、すべて知っていたということを
若侍が度重なる辻斬りの下手人であり、それを知っていて鎖を解き、放していたことを
そして、今となっちゃただの厄介者となった若侍を、先生が様子を探りに来ていると知った上で放したことを
丁度いい餌食ってところだと言われ、呆然としていた先生
しかし、若侍が泣き崩れていると、その姿を痛ましそうに見てらっしゃいやした

次の日、ていが殺されたことをどうやって芝右衛門に告げようかと悩んでいた先生
その背があまりにも悲痛だったもんで、ちぃとばかしからくりを見せてやりました
先生の目の前で死んだのは、山猫廻しによる人形だった、と

その時、先生は得心なすったようで
奴(やつがれ)達が最初から、狸を退治するためにここにきていたのだ、と

意を決して芝右衛門を問い質した先生
こんなことになってしまった経緯を聞いても、一座の道理には納得できずにいたようで
生きることを呪い、怒りにかられていく若侍をどうすればよかったのだと言う座長に
「だから、放ったと……?」
と、見開いた目を半ば潤ませ、震える声で問うた先生
人の心を失ってしまった彼はやはり獣なのかもしれないと思わねば、と決心されたようで御座いやした

檻に置かれてあったつづらの中に、骨となったていがいたのを見た先生
こうなってしまったのは奴(やつがれ)達がここへ来てすぐのことで、間に合わず助けられなかったと伝え
「徒に人を殺める狸は、始末されなきゃならねぇんでやすよ」
そう耳元で囁くと
「私に……私にやらせてください」
と、正座した膝の上に作った握り拳を震わせながら、振り絞るように声を出した先生
おぎんから、あんたにはできないと言われても
「人じゃない…狸なんでしょ?」
そう、自分に思い込ませていたようで御座いやした

そして、いよいよ一座の公演の日
ていに連れられて檻から出てきた若侍が、芝居を観に来ていた奥方に自分の母親の姿を重ね
殺さなければ殺された、と母親を毒殺したことや辻斬りをした時のことなどを思い出し
客席で刀を振り回していやした
それをじっと見ていた先生、とうとう我慢できずに、
「正体を現せ! 狸め〜!!」
と叫ぶと、握っていた犬の手綱を放したんでさ
一斉に侍に襲いかかる何頭もの犬
その犬を追い払いながら言い訳しようとする若侍に、「狸と言ったじゃないかー!!」 と取り乱す先生
おぎんの、「正体を現したらどう?」 という言葉にも、「私は狸じゃない…」 と返す若侍
「罪を犯した狸は、狸のまま退治されなくちゃいけないんです!」
そう叫んだ先生は、もうそろそろ心が限界のようで御座いやした
後を引き受けるのは奴(やつがれ)の仕事でやす

生の身は生きていても心が死んでしまった一人の男
死にたきゃ自ら命を絶てばいいものを、人の命を絶つ前にてめぇの命を断てなかった、その罪は罪
御行の仕上げは、男の最後を狸の死骸として見せること
それは、先生の為でもあったかもしれやせん
先生がこれ以上苦しむことの無いように、……と

すべてが終わり、若侍の墓にお参りしていた先生
「人ならぬものに身をやつし生きようすることはいけないことでしょうか……」
そう呟くと、もういいって、とおぎんに頭をこづかれてやした
本当に…それがわかれば苦労はしやせん


先生はきっと、忘れはしやせんでしょう
己が殺した、一匹の狸のことを
忘れぬ為に、まだ苦く切ないものでしかない思いを真摯に書き綴ってらっしゃる
けれど、そんなことをしなくとも、心の中にはずっと残っていくはず
生きていくのは辛いこと
先生は、それを良くわかってらっしゃるお方で御座いやすから……






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百介の「人じゃない…狸なんでしょ?」には
もう涙しました…
愛し過ぎです(T◇T)…

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