両腕の下を背後から回された逞しい腕が、腹の上でガッチリ組まれている。
ハイライトの混じらない匂いに戸惑いながらも、
視界の隅を霞めた紅い糸に思いきり眉を顰める。
「おい…。」
威嚇の意味で低く呟いたつもりだったが、
喉から洩れたのはひどく掠れ聞き取れない程の声。
「あ、起きた?」
頭の後ろで耳慣れた甘い低音が響いた。
重いだの暑苦しいだの怒鳴ってやりたかったが、喉を焼く痛みが邪魔をする。
「何故貴様が此処にいる?」
それだけを吐き出すのがやっとだ。
「だってサンゾ、寒そうにしてたぜ。」
だったら毛布でもナンでも持ってくりゃいいじゃねぇか!出ない声の代わりにと振り返って睨みつけると、紅い瞳とぶつかった。
鼻が触れ合う程の距離で、そのまま視線をはずせなくなる。
深い緋色に引き込まれるような眩暈を感じて慌てて顔を背けた。
心臓が跳ね、熱のせいではなく顔が熱る。
残像を振り払うように固く目を瞑るとますます鮮やかに瞼に浮かんでしまう。
苛立つ自分をヨソに、回された腕に力がこもり引き寄せられた。
「掠れ声のサンゾ、すげえセクシー♪」
金糸に鼻を埋めた悟浄が白い項にそっと口づけたので、また心臓が跳ねあがる。
強くもがくこともできないまま、背後の男の体温がじんわりと伝わるのを感じていた。
「雨・・・早く止むといいな。」
耳元で囁かれ、背中に伝わる悟浄の心音に掻き消されていた雨音に気づいた。
ずっと恋しかった匂い、体温、心音…。
手離したくなくて、眠りにつく前にすがってしまったのを思い出す。
きっとその手を解けず、ずっといてくれたのだろう。
そういう男だ。
こんな風になる前から、旅に出る前からそうだった。
長安の慶雲院にいた頃。
失った経文の行方は杳として知れず、雑務に忙殺される日々。
神経はささくれ立ち、長雨の続く夜は特に苛立ちが募って悪夢に魘された。
そんな時、特に親しいわけでもなかったこの男がひょっこり顔をみせることがあった。
皆が寝静まった深夜に執務室の窓から、紅色の頭が覗く。
「今晩は調子が良くてボロ儲け。一緒に打ち上げてよ、ウマい酒もあるぜ。」
追い出そうと怒鳴っても「まあまあ。」と軽い調子で躱されてしまう。
殴って追い返すほどの気力も湧かず、諦めて注がせる。
ヤツの持ってきた酒は殊の外美味く、乾いてひび割れた何処かが潤っていくような
そんな気がした。
賭場のある繁華街から悟浄の家とこの寺とは反対方向だ。
何を考えてこんなところまで足を運んだのか、と訝しく思いながらも
問うのも面倒で黙って杯を重ねる。
他愛もない話を小一時間程して、酒瓶を空にすると来た時と同じように飄々と帰っていく。
雨で湿った髪が月明かりに濡れて光り、不覚にもそれが綺麗だと思ってしまい
つい後姿を見送った。
ハイライトの残り香と程よく回った酔いで、何も考えず眠りにつくことが出来た。
そのあとコッソリ取り寄せた同じ銘柄の酒は、何故か味気なく感じた。
派手で軽薄な外見に似合わず、人の心の機微に敏く情の深い男だと分かるにつれ
そのさり気無い優しさが、分け隔てないのものだという事実に何処かが痛んだ。
一緒に旅をするようになって、ジープの後部座席から自分に向けられる視線に気づいた。
振り向くといつも逸らされてしまうから、だから振り向かない。
気づかぬ素振りで、その紅い瞳に、ずっと俺だけが映っていればいい
そう願ってしまった。
俺は前だけを真っ直ぐ見据えている。
いつもお前の前を歩いていく。
お前が俺を見ていてくれるように・・・。
「ンなこた、死んでも言ってやらねえが。」
苦笑しながら呟いた声はあまりにも小さく掠れ、悟浄には届かなかった。
「ン?何、サンゾ。」
「何でもねえよ。黙って寝てろ。」
雨音を打ち消すように背中から響く鼓動に安堵しながら
三蔵はもう一度眠りにつくため、ゆっくりと瞳を閉じた。
香月蒼夜 拝