三蔵さまお誕生日小説
『 霜月 』
遊亜 様
「すいませーん! 餃子10人前追加でヨロシク!!」
悟空の威勢の良い声が店内に響いた。
店に入った時はまだ大勢の客で賑わっていたが、いつの間にか三蔵達だけになっている。
「まだ食うのかよっ?! この猿、大食い選手権にでも出場させるか〜? あれならタダで食い放題だぜ」
「ええっ、そんなのあんの? 出る出るー!!」
「悟空なら優勝しちゃうかもしれませんよ。 家計も助かって一石二鳥ですね〜」
「おまえはどこぞの主婦かっ」
悟浄のツッコミを笑って流した八戒の横で、三蔵は無言のままビールに口を付けていた。
「三蔵、飲んでばかりいないで、少しはお腹に溜まる物も食べてください」
「ん」
せっかくの忠告を聞いてはいないような適当な返事だったが、八戒は気分を害した様子も無い。
お節介は勝手に焼いているだけ。
三蔵の側にいられる、ただそれだけで今は十分なのだ。
「三蔵、もう一杯飲みますか?」
「ああ」
「八戒、俺のもついでに頼んどいて」
「わかりました。 すみません〜」
八戒が手を挙げると、一人だけフロアに出ていた若い男性店員が近寄ってきたので、生ビールを3杯注文した。
「それ食わねーの? んじゃ、いっただき〜☆」
「あっ、てめー! そりゃ俺が取っといた春巻っ!!」
悟空と悟浄の攻防戦が始まったところに、頼んだビールが運ばれてきた。
「…お…お待たせしました……」
店員がジョッキをテーブルに置くが、その手が微かに震えている。
「ありがとうございます」
そう応えつつ、体調でも優れないのだろうかと八戒が気遣わしげに店員を見ると、男はそそくさと席から離れた。
「もう、あなた達が喧嘩しているから、店員さんが怖がってたじゃないですか」
「んなコト言ったってよぉ! このバカ猿が人の分まで手ぇ出しやがるのが悪ぃんだろうが!」
「俺に食べてもらえた方が、料理も幸せなんだよ〜」
「はあっ?!」
「はいはい、わかりましたから。 春巻ならまた頼めばいいでしょ?」
八戒が懸命にとりなしているのをよそに、三蔵は運ばれたばかりのよく冷えたビールを黙って呷った。
ゴクリ、ゴクリ、と喉が上下する。
半分ほど一気に飲み切り、ジョッキを置こうとした。
すると。
「?………っ!………………」
ゆっくり崩れてゆくように三蔵の体が前屈みになり、そのままテーブルに突っ伏した。
「三蔵、どうしました?」
八戒がいつもと違う三蔵の状態に気付き声を掛けるが、反応は無い。
「三蔵……?」
軽く揺すってみても起きる気配は無く、寝息も聞こえては来なかった。
「!!」
密かに手首を取り、脈打っているのを確認すると、八戒は注意深く店内の全てに意識を集中させた。
「あれ、三蔵もう潰れてンの?」
食い意地で悟空に負けた悟浄が不思議そうに三蔵を見ながら、新たな1杯に手を伸ばした、その時。
「(悟浄!)」
「(ん?……)」
咄嗟に目で動きを制した八戒に悟浄が素早く反応して、ジョッキを掴んだままの姿勢をさり気なく保つ。
その様子を見た八戒が、皿の陰になった手で、三蔵と先ほどビールを運んできた店員を交互に示した。
「……了解」
小声で返事した悟浄が、「あ〜」 と声を出しながら、ジョッキを持った手を高く突き上げる。
「食いモンの恨みは恐ろしいんだからな〜、覚えとけよ、てめー!」
「ふ〜んだ、悟浄がトロいのが悪いんじゃんかよー」
「何をっ!」
「危ないですから、悟浄、暴れないで」
それは、どこからどう見ても、愚痴を零している酔っ払いと宥めている連れ、という構図だ。
「チクショー! 飲んでやるー!!」
そう言って一旦テーブルに置き、もう一度持ち上げようとした瞬間、手が横にあった八戒のジョッキにぶつかった。
「おわっ!」
ジョッキは2杯とも横倒しになって、中のビールがテーブルに零れ出た。
「あーもう、ほら、言わんこっちゃない」
「知るかっ! 悪ぃのは猿だー! それと、この坊主だー!」
「はいはい。 あ、店員さん!」
八戒が、壁際に控えていた店員をしっかり見つめて、呼び付ける。
「ここ零してしまって。 拭いてもらえますか」
「は、はい…、ただいま」
「酔っ払いばかりですみません」
「いえ…あの……お代わりをお持ちしましょうか?」
「ええ、じゃあ、一人はもう眠ってしまったので、これと “同じ” のを2杯お願いします」
「かしこまりました…っ」
極上の笑みを向けられると、店員はまともに目を合わせられないといった風で、慌てて厨房へと引っ込んだ。
「早く飲ませろぉ」
「もうすぐ来ますから、大人しく待っていてください」
モノクルの奥の眼は緩やかな弓なりになっていたが、口調にはほんの僅かに厳しさが滲んでいる。
「ホントに、“同じ” ビールが来るんだろうな?」
悟浄が、さっきとは別人に見えるほどの鋭い目つきで厨房の方を窺い、すぐに八戒に視線を戻した。
「来るでしょう…多分」
紅い瞳と深緑の瞳が一瞬交差した時、改めてビールが運ばれてきた。
先ず、八戒の前に1杯が置かれる。
そして、残りのビールを置こうとした手を、悟浄がぐっと掴んだ。
「はっ!! な、何を……」
「いやぁ、さっきは迷惑かけちまって申し訳無かったなーと思ってよ」
「いえ、そんなことは無いですから…、どうぞお気になさらずに……」
「それじゃあ俺の気が済まねーんだよぉ。 侘びに、このビールあんたにやるわ。 ぐいっといってくれ!」
「い、いえ、それはできませんっ!」
「何でだよー、俺様の酒が飲めねーってのか? あ〜?」
「あの…いえ、そうでは無いですが…その……」
「あー、もしかして、このビールを飲んだら、途端に眠ってしまうからですか?」
「え…………」
八戒の静かな微笑みは、凍り付くような恐怖を感じさせるものとなっていた。
そして、悟浄の顔はもう酔っ払いのそれでは無く、その眼は店員を突き刺すかの如く睨んでいる。
「あ……あの……、一体何のことだかさっぱり……」
明らかに動揺している店員の額に、脂汗が滲んできた。
「何? どしたの?」
悟空がやっとこの事態に気付いて説明を求めると、八戒は穏やかに 「いえ、ちょっと」 と返した。
「こちらは問題ありませんから、悟空は気にせず残りの料理を片付けてしまってください」
「わかったー!」
自分の出番で無いならば無理に首を突っ込むことは無い。
何かあったのだとしても二人に任せておけば大丈夫だと判断して、悟空は飲み食いを再開させた。
「お待たせしました。 さて、わからないと仰るんでしたら、この方には体で証明してもらいましょうか」
「さあ、一気に飲んでもらおうぜ」
「ああっ、やめてくださいっ!!」
その悲鳴を聞き付けて、店の奥から年配の男が飛んできた。
「あの、お客様! うちの者が何かいたしましたでしょうか……?」
人の良さそうな顔には、驚きの表情だけが浮かんでいる。
真っ直ぐに八戒と悟浄を見つめ、説明を求めている眼差しは真摯なものだ。
「あなたは?」
八戒が尋ねると、男はこの店の主人だと答えた。
「実は、こちらで出されたビールを飲んだ途端、連れの一人がこんな状態になってしまったんです」
そう言って指し示した三蔵を見た店主は、何か考え込んだ顔付きをしている。
「あの…そちらのお客様は、お眠りになっていらっしゃるのでしょうか?」
「眠ってはいるんでしょうけど、あまりに突然でしたので驚きまして」
「え………」
「それで、ビールを運んできたこの店員さんに詳しくお聞きしようとしていたところなのですが」
黙ったままの店員が顔を逸らせると、店主の眉が微かに寄せられた。
「起こそうとしても駄目…という状態ですか?」
「ええ、よくおわかりですね」
八戒の声のトーンがやや低くなり、モノクルの奥の目が鈍く光った。
「実は…ここ半年の間に、お客様が眠り込んでしまうということが何度かありまして」
「……それで?」
警戒色を強めながら、八戒が続きを促す。
「皆さん、どんなに声を掛けてもお起きになられないんで、仕方なくそのまま店内で寝かせたのですが」
「……」
「朝になって目が覚めてからお勘定をお願いすると、財布が無くなっていると慌てだして」
「え?……」
「店に入る前はちゃんと持っていたと仰られても、実際にお金が無けりゃ無銭飲食には間違い無いんで」
「ええ」
「ご家族やお友達に迎えに来てもらって、代金は立て替えて支払っていただいたのです。 ただ……」
淡々と語っていた店主の口調がそこで止まった。
「ただ?」
「そのお客さんというのは、何度かこの店に来られている常連さんばかりでして」
「ほう」
「無銭飲食なんてするような悪い人達じゃないのはわかっているんです。 それと……」
少し間を置いて、店主はちらっと店員の方を見た。
「そういう出来事が起こり始めた時期が、丁度その男がここで働きだした頃と一致していまして……」
「ということは……」
全員の視線が、店員の男に集中した。
「真面目に働いていましたから疑いたくは無かったものの、もしかして、という疑念は消えなかったのです」
「なるほど、よくわかりました。 そこへ来て、今のこの状況では、この人に真実を話してもらうしかないですね」
男は、悟浄に腕を掴まれたまま項垂れている。
「おまえがやったのか? 今までもお客様を眠らせて、財布を盗ったりしていたのか?」
店主が諭すように静かに語りかけると、男はがっくりと崩れ落ちた。
「すみません!! 俺が…俺がやりました……」
「やはりそうか……」
辛そうな声がため息と共に流れてゆく。
「訳は後で聞くが、とにかく立ちなさい」
そう言って男の体を引っ張って立たせ、後頭部を掴んで頭を下げさせると、店主は自分も深く腰を折った。
「本当に申し訳ございません!! ほら、お前もお詫びするんだ」
「申し訳ありませんでしたっ!!」
謝罪の言葉を述べた後も姿勢を戻そうとしない二人を見て、悟浄と八戒は顔を見合わせた。
「どうぞ、頭を上げてください」
「はあ、しかし……」
「僕達の場合は未遂といえば未遂でしたから、こちらとしてもこれ以上コトを荒立てるつもりはありません」
「ありがとうございます!」
店主が再び頭を下げる。
「まあ、ひとり被害には遭いましたが……、あなた」
声が自分に向けられたものだと気付いた男が、恐る恐る八戒を見上げた。
「いくつか確認したいのですが、先ず、僕達のビールに入れたのは何ですか?」
「あ…あの……」
「ちゃんと答えなさい」
店主に窘められると、男は身を硬くして背筋を伸ばした。
「はいっ! ……入れたのは、強力な眠り薬です。 飲んだら朝まで絶対に目覚めません」
「眠るだけですか? 後遺症の心配などはありませんか?」
「無いと…思いますが……」
「それは信じて大丈夫でしょう」
自信無さ気な店員に代わるようにして、店主が言葉を繋ぐ。
「今までの方々は皆さん、目覚めた後はいつもよりすっきりしていたくらいだと仰って、お元気そうでしたから」
「そうですか」
ならば、三蔵も目覚めるのを待てばいいだけだ。
しかし、八戒にはまだ懸念事項があった。
「あともう一つ。 あなたは、彼が誰だか知っていましたか?」
「え……」
問われてから金糸の髪に目を遣るが、男の顔には疑問符が浮かんでいるのが見て取れた。
「いえ、存じません。 あの…そちらはお坊様ですよね……ご高名な方なのでしょうか?」
もしかして、とんでもない人物を引っ掛けようとしたのだろうか、…と、男は改めて恐怖に顔を引き攣らせた。
「いえいえ、ただの旅の僧ですが、一部の者には有名みたいですので、一応確認を、と思いまして」
どうやら、三蔵法師の経文を狙っていたわけでは無さそうだ。
もし本当に全員が眠らされたとしても、それまでの何件かの財布盗難事件の仲間入りをするだけのことだったのだろう。
「では何故、一見(いちげん)の客である僕達に狙いをつけたのですか?」
「それは…あんなにたくさん注文されたお客様は初めてで……さぞかしお金持ちなんだろうと思いまして…」
「あはははは、そういうワケでしたか」
悟空が尋常では無い数の料理を頼むのはいつものこと。
だから、八戒も悟浄もそれが普通で無いとは感じなくなっていたのだ。
自分達の行動が桁外れなのだと改めて思い知らされ、八戒は苦笑するしか無かった。
「あの……非常に厚かましいお願いなのですが……」
場の雰囲気がやや穏やかになったところで、店主がおずおずと切り出した。
「この度の件は胸の内に収めていただけると非常に有り難く……、もちろん、今回のお代は結構です!!」
「でも、僕達はそんなつもりだったのではありませんから、自分達が飲み食いした分はきちんとお支払いしますが」
八戒が善人を装って、生真面目な台詞を口にする。
「いえいえ! それではこちらの気が済みませんので、どうかお願いします!」
「あちらサンがそんなに言うンなら、遠慮しなくてもいーんじゃね?」
「何? タダになったの?」
「おう、そうらしいぜ」
「えー、そんならもっと注文すりゃ良かったー!!」
勿体無いことをしたと残念がる悟空を見て、店主も店員も、あれだけ食べたのにまだ入るのかと目を丸くした。
「もしよろしければ、残っている材料でお土産用の料理をお作りしますが……」
少しでもこの客達の機嫌を損ねないようにと、店主も必死だ。
「ホント?! やったー!! んじゃ、どんどん作って〜!!」
「おっしゃー! 部屋飲みで第2ラウンド開始だな」
「すみません、ではお言葉に甘えます」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
月が無く、星明りだけの夜道を、三人は宿に向かって歩いていた。
三蔵を背負う担当は悟浄が引き受けている。
「コイツ軽いけど、宿までとなるとずっしりキそうだな」
「酔っ払っているだけなら叩き起こして歩かせることもできますが、この状態だとそうもいきませんし」
「俺、替わろうか?」
悟空が口だけでは無く本気で交替を買って出たが、悟浄は軽く笑って 「大丈夫」 と答えた。
「おめぇはその料理だけ大事に守ってりゃいーの。 まあ、“コレ” はもし落っことしたら拾ってくれ」
「ええ? 誰が拾うんですか? 僕も悟空も、手は塞がってますよ」
店主が気を遣って持たせてくれた料理は、二人で運ぶのがやっとというくらい大量だった。
「あー、んじゃ、そのままゴミ箱ン中にでも落っことせば、すっきり片付くかー」
「あ、燃えるゴミの日じゃないと迷惑になりますね」
「いつが燃えるゴミの日か、見てこようか?」
「それなら、ゴミ袋は指定の物が必要かどうかも確認してくださいね〜」
「ただ捨てるだけでも、色々と面倒臭ぇな」
「だから、やっぱりちゃんと持って帰りましょう」
「そうだな」
(……………)
あははは、と夜道に響く朗らかな笑い声は、三蔵の耳にも届いていた。
(てめぇら………)
体内に入った薬の量が少なかったからか、身体的には効き目があったけれど、思考はできる状態だった。
昏睡状態に見えていても、実はちゃんと意識があり、今までの会話は全部聞こえていたのだ。
(………後でぜってーコロスっ!!)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
今夜は個室が4部屋取れていた。
全部シングルだが、バス・トイレが付いていて、旅の疲れを取るには十分な仕様だ。
「到着、と」
三蔵を当初割り当てていた部屋に運び、取り敢えずその体をベッドに横たわらせた。
「なあ、このままじゃ寝苦しいよな」
悟空が法衣の袖を摘んで八戒に訊ねる。
「そうですね、じゃあ、脱がせちゃいましょうか♪」
「この際、丸裸にひん剥いてやれっ!!」
「俺も手伝う〜〜〜!!」
(☆※◇▼?!)
三蔵の意識が無いと、本当に信じているのかどうなのか疑わしい部分があるような悪ノリだ。
(てめーらっ!!)
体は動かず、目も口も開かなくとも、耳はしっかり聞こえているし、感触も伝わってくる。
(触るなっ!! 離しやがれっ!!!!!)
三人の口調から、絶対滅茶苦茶にされると、三蔵は心の中で身構えていた。
しかし、乱暴な行いなどは全く始まらない。
「悟空はブーツを脱がせてください」
「了解!」
「悟浄は僕のサポートをお願いします」
「オッケー」
予想に反して、触れてくる手はどれもとても優しい。
「法衣だけ脱がせばいいですよね」
「そだな」
「では、先にこの経文を仕舞ってください」
肩から外された経文が、大事そうに扱われて八戒から悟浄の手へ渡ってゆく。
その後三蔵は、てきぱきと作業を進める八戒によって、あっさりと法衣を取り払われた。
「手甲も脱がせるぜ」
「あー、お願いします」
「猿、そっちが終わったんなら手伝え」
「猿って言うなー! でも、やるやる!!」
(……………)
心配していたようなことにはならなかった。
だが、甲斐甲斐しく世話されている感じで、逆に気味が悪い。
それに何より、されるがままという状態が耐えられないでいる。
もし、表情筋を動かせたなら、きっと思いっきり眉間に皺が寄っていただろう。
そこには、認めたくは無いが、羞恥心というものも少々混ざっていたのかもしれない。
「さて、こんなもんですかね」
「だな」
「お着替え、完了!」
「いや、脱がせただけで着替えてませんけどね」
「んじゃ、寝てる間に、着せ替えごっこでもやってみっか?」
(………着せ替え……ごっこ?!)
「やりたい!!」
「ん〜何コスがいいかな〜?」
「最早、新しいプレイですね」
(!!)
「だってよー、こんな機会は滅多にねーんだぜ!」
「はいはい、そうですね。 では、その相談はあちらの部屋へ移ってからにしましょう」
(てめーら、勝手なことすんじゃねーーーーー!!)
「ついでに、さっき貰ってきた土産で、ぱーっと二次会でも開くか!」
「おー!!」
(おいコラ、待てっ!!)
三蔵の声無き叫びも空しく、三人はあれがいいこれがいいと盛り上がりながら部屋を出て行った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
部屋飲みの会場は八戒の部屋と決まった。
店主が作ってくれたお土産の料理はテーブルに載り切らないほどだったが、悟空が片っ端から片付けていく。
「ペース速ぇなあ、おい」
もうお腹は満たされていたので飲むに徹していた悟浄が、料理を貪る悟空を呆れつつ見ていた。
「だって、美味いうちに食いたいからっ」
かき込む合間に返事するが、箸の動きは止まらない。
やがて、すべて食べ尽くすと、悟空はちらっと壁の掛け時計に視線を遣った。
「どうかしましたか?」
「え…、いや、何でも無いっ」
「………」
明らかに何でも無いことは無さそうだけれど、八戒は敢えて追求しなかった。
実は悟空は、この部屋に入った時から、いや正確に言うと、三蔵の部屋を出た途端からそわそわしていたのだ。
だから、せっかくのご馳走も喜んで食べてはいたものの、どこか集中しきれていない様子だった。
「俺、そろそろ部屋に戻ンな」
悟空は唐突に席を立つと、早足に扉へと向かった。
「ゆっくり休んでくださいね」
「うん、おやすみ!」
「おやすみなさい」
八戒の声に送り出されて、悟空が出て行く。
その後、とある部屋の前で足音が止まり、続いて扉が開く音が聞こえてきた。
「入ったな」
「そうですね」
「さっきまでずっと、心ここにあらず、って感じだったからな〜」
「ええ、まあ心配なのはわかります」
それは、自分達も同じだから。
不慮の事態に陥った三蔵の体調は、もちろん悟浄も八戒も気にしていた。
けれど、今日は何もできることが無い。
ただ、朝になって三蔵が目覚めるのを待つだけだ。
「食後のコーヒーはいかがですか? インスタントですけど」
「あ〜、もらおっかな」
「はい」
まだ夜は長い。
いつもとは違う静かな時間を味わうのも、たまにはいいものだ。
「月は出てねーんだな」
悟浄が窓の外を見上げてふと呟いた。
「昨日が新月でしたから、出ていたとしても今日はまだよく見えないでしょう」
「そっか」
「どうぞ」
八戒が差し出したカップから立ち昇ってきた香りが、悟浄の鼻腔をくすぐる。
「飲んだ後のコーヒーは落ち着くな」
「ええ」
こうして二人だけでいると、同居していた月日を思い出す。
あの頃は、こんな風に旅をすることになるなんて、思いもしなかった。
満足していたとまでは言えなくとも、それなりに暮らしていた日常に “ひび” を入れたのは三蔵だ。
あの出会いが無かったら、自分達はどうなっていたのか……。
ずっと変わらぬ生活が続いていたのだろうか?
それは、今よりもより良いものだったのだろうか?
否。
多分、今ほど刺激的では無かっただろう。
そして今ほど、“生” を実感して、充実した気分を味わえる日々では無かったはずだ。
「今日は静かですね」
「そうだな」
静かだと思えるのは、普段がそうでは無いから。
しかし、その賑やかさが今ではとても心地良い。
二人はしばしの間、珍しく訪れた静寂を楽しむように、無言でコーヒーを味わった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
部屋の前で足音が止まった気がした。
すると、突然扉が開いた。
(!)
「三蔵?………」
もしかして着せ替えプレイが始まるのか?!…と戦慄していた三蔵だったが、入ってきたのは悟空ひとりだった。
足音を立てずにそろそろと部屋の奥まで進んで行く。
そして、三蔵が寝ているベッドのそばに椅子を引き寄せると、そっと腰を下ろした。
「三蔵……大丈夫かな………」
しばらくそのまま寝顔を見つめていた悟空が、布団の中から三蔵の片手を引っ張りだした。
(何だ…?!)
「いっつも迷惑ばっかかけてゴメンな」
骨ばった手を両手で包むように握り込む。
(………!!)
「三蔵………俺、もっと強くなる」
(………)
「何があっても三蔵を守れるよう、もっともっと強くなるから!」
(チッ……バカ猿のくせに……)
その熱い想いは、手のひらを通じて三蔵の心にも届いた。
「ホントは目が覚めるまでここに居たいけど、一応部屋に戻ンな。 だから三蔵!」
(?)
繋いだ手を、更に堅く握り締める。
「何かあったら俺を呼べよな。 もし声が出なくったって、俺、三蔵が呼んだら絶対わかるから!」
(悟空………)
己が気付かない内に発していた声無き声を、ちゃんと聞き分けて見付けてくれた三蔵。
今度は、自分がその恩に報いる番だ。
「今日はこんなコトになっちゃって、予定が狂ったっつーか残念っつーか…いや、やっぱこの方が良かったのかな…」
悟空が独り言のように呟きだした。
三蔵にはもちろん、何のことだかさっぱりわからない。
「ホントはちゃんと言いたかったけど……いや、やっぱ面と向かっては言えねーかな…」
(……何をだ?)
悟空は何か言いたそうなのだが、言うのを躊躇っている様子だ。
「三蔵」
そう言った後、悟空は三蔵の耳元に唇を寄せた。
「お―――――」
(ん?)
何か喋ったはずなのだが、三蔵の耳には全部届かず、ほとんどがはっきりと聞き取れなかった。
しかし、悟空は満足したのか、その顔にはどことなくはにかんだ笑みが浮かんでいる。
そして、取っていた三蔵の手を優しく布団の中に戻すと、音を立て無いように気を付けて立ち上がった。
「怒らない三蔵もいいけど……、俺はちゃんと怒ってくれる三蔵もいいな」
(…………フンっ…………)
「だから、明日はいつもの三蔵に戻ってくれよな」
(言われなくとも、戻ってやる………)
「んじゃ、おやすみ」
その声と同時に部屋の電気が消され、再び扉が閉まった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
悟空が出て行ってしばらく経った後、悟浄が徐に腰を上げた。
「そろそろお開きにすっかー」
「そうですね、明日に備えて、今夜はもう休みましょうか」
「部屋に戻る前に、ちょっくら三蔵の様子でも見てくるわ」
「ええ、お願いします」
「おまえも早く寝ろよ」
「はい、おやすみなさい」
そう返事したと同時に、深緑の瞳がきらりと光った。
しかしそれは、悟浄が扉の向こうに消えた後のことだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「三蔵…?」
伺うように声を掛けて、悟浄が入ってきた。
明かりが点けられたのが、瞼に感じる光の加減でわかる。
さっき、悟空が動かしてそのままにしていた椅子に、悟浄も腰掛けた。
「三蔵………」
その声は、今まで聞いたことの無いような優しいものだった。
(……河童のヤツ、変なモンでも食いやがったか?)
「今日は驚いたぜ……」
そう言いつつ、悟浄は手で三蔵の髪を撫で始めた。
(!!!)
「でも、大したコト無さそうで良かった……」
(こっちは十分いい迷惑なんだよ!! つーか、触んな!!)
「ホント、良かった………」
(………)
心からの安堵が滲んでいる声を聞くと、三蔵はしばしの間だけ悪態を吐くのをやめた。
「三蔵……」
再び、声に甘さが加わった。
(?……………っ!!!!!)
髪に指が差し込まれ、何度も掬い上げる動作を繰り返している。
(何してんだ、貴様っ!!)
「体も細ぇけど、髪も細っせーなー」
(ほっとけ!)
「こんなに細ぇのに、強いんだよな、三蔵サマは」
(なっ…何だ……?)
「それが、玄奘三蔵法師ってモンなのか……」
(………?)
「ホントはよぉ、こんなことになんなきゃ、今日はもっと違った趣向を考えてなかったコトも無いんだけどよ……」
(………???)
「大事な日がナンか滅茶苦茶になっちまって……でもまあ、それもオマエらしいっつーか」
(何を言ってるんだ、コイツは……?)
「三蔵……ナンか俺、わっかんねーんだわ、自分の気持ちが」
(訳がわかんねーのは俺の方だ!!)
「オマエ見てっと……………あー、もう何でこんなヤローにっ!!」
(……はあ???)
「どうせ、起きてたって何にもできなかっただろうから、これはこれで良かったってことなのか……」
(一体、何を……?)
「三蔵、これは俺からの……………」
(?!)
不意に、頭と枕の間に手が滑り込んできた。
(……何だ?)
次は、胸の辺りが少し重苦しく感じる。
悟浄の腕が載っているのだろうか?
だとすると、この体勢はまるで、抱きかかえられているようではないか。
(何しやがるっ!!)
その時、髪に何かが触れた。
悟浄の片方の手は三蔵の頭の下にあり、もう片方の手はまだ布団の上にある。
と言うことは、………さっき髪と接触したモノは………。
(?????……………?!)
三蔵の頭がパニックを起こす前に、悟浄がそっと離れて行った。
(え………)
もっと何かされるのかと構えまくっていた三蔵は、少々拍子抜けした心地になった。
「そのまま朝まで、ゆっくり寝てろ」
足音と共に、声が遠ざかってゆく。
「んで……明日はいつものオマエに戻ってくれ」
(………フンっ……………)
「じゃあな」
そして、明りが消され、また静かに扉が閉められた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
八戒は、耳に入ってくる物音で、悟浄が三蔵の部屋から出て行ったのを確認した。
「悟空も悟浄も、なんだかんだ文句言いながら、三蔵のことが気になっているんですよね」
それは自分も同じだ。
得体の知れないものを飲まされて陥った初めての状態を、不安に思わないわけが無い。
しかし、あの店員と店主の言葉は信じてもいいと思えた。
三蔵の体に異状は無さそうだったので、取り敢えずは経過観察のみで大丈夫だろう。
ただ…今夜は本当は、もっと違う過ごし方をしたかった。
さしつさされつ、とはまではいかなくとも、三蔵とゆっくり穏やかな時を過ごしたいと思っていたのだ。
何故ならば、今日は三蔵の誕生日だから。
「三蔵……」
声に出して名前を呼ぶと、胸の奥がきゅんと引き攣ったように感じる。
「いつか、貴方に直接 “おめでとう” を言える日が来るのでしょうか……」
それは、簡単に実現するかもしれないし、一生言えないままかもしれない。
八戒はひとり、深い溜息を零して、星しか無い夜空をじっと見上げた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
人が入ってきた気配がしたが、声を発さないので誰だかわからない。
(…誰だ?)
ベッドの横に立っているのは感じ取れるものの、喋らない動かないでは、次に何が起こるのか予測できないでいる。
(何しに来たってんだ…?)
三蔵が苛立ちかけた時、ふと、空気が動いた。
と同時に、三蔵の頬に何かが触れた。
(!!!)
柔らかな感触のそれは、すぐに離れると、次は三蔵の額に移動した。
(!!………)
どうやら、手で熱を測っているらしい。
しかし、その手だけではまだ誰だか判別できない。
(多分、八戒だろうが……)
八戒の手ならば、いつも手当てを受けているので判りそうなものだが、いちいち覚えている三蔵ではない。
ましてや、手当てが必要な場合というのは、大抵切羽詰った状況ばかり。
こんな優しい触り方などでは無いから、判らないのも当然だ。
額に置かれていた手がそのまま頬をなぞり、手のひらの半分は耳の下まで移動した。
(?………)
そして、反対側の頬にも何かが触れた。
(………!)
多分、『両手で顔を包み込まれている』 といった状態なのだろう。
そのまま様子を窺うと、微かな呼吸音が近付いているような気がした。
何となくだが、圧迫感が全身を支配している。
(苦…しい……)
元より今は全く体が動かないのだけれど、精神的にも雁字搦めにされている気分だ。
三蔵は、次にどうなるのか、と想像しかけたところで、突然戦慄した。
(まさかっ…?!)
つい先ほどの悟浄の例もある。
三蔵の憶測でしか無いのものの、さっきは髪にキスされたとも取れる状況だった。
だが。
(今のこの体勢は……っ!!)
心臓の動きが速くなる。
緊張感が全身を駆け巡るが、実際には何もできない。
ただ、されるがままに身を投げ出しているだけだ。
(ん…?!)
ふっ。
……と、唇に、吐息が触れた感触がした。
(!!!!!)
もしかして、八戒の顔が間近に迫っているのか?
(何かしやがったらぶっ殺す!!!!!)
心の中でだけそう威嚇すると、気力の限り全神経を集中させた。
…が。
一瞬の間の後、三蔵に触れていた手がそろりと離れると同時に、「良かった」 という呟き声が聞こえた。
「熱は無いですし、脈拍も問題無さそうですね」
その声を発したのは、三蔵の予想通り八戒だった。
「三蔵、聞こえているかどうかわかりませんが…」
そう言いつつ、掛け布団を首まで引き上げる。
「心配は無いと思いますので、このまま朝までゆっくり眠ってください」
(……言われなくとも……)
「そして、明日はいつもの三蔵に戻ってくださいね」
(……………)
三人全員から同じ台詞を言われるとは思わなかった。
“いつもの三蔵” とは、一体どんなヤツのことだ?
(………フンっ………)
腹部に軽く重みを感じるのは、布団の上に手が置かれているからだろう。
「おやすみなさい。 それと、お―――――」
その後の言葉は小さ過ぎて聞こえなかった。
やがて、布団からも手が離れ、八戒はほとんど物音を立てずにその場を去って行った。
(………ただ、俺の具合を調べていただけなのか…?)
勝手に鼓動が高鳴ってしまった自分を忌々しく思ったものの、見えていないのだから仕方が無い。
(チッ……紛らわしいコトすんじゃねー!!)
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「三蔵」
いつもならば、食欲が満たされれば次に睡魔が襲ってくる。
しかし今夜は、どれだけお腹がいっぱいになっても、少しも眠くならなかった。
「お誕生日、おめでとう! そんで…」
悟空の脳裏には、目映いばかりの金糸の髪と、鋭い紫暗の瞳を持つ男の姿が映し出されている。
「明日は、三蔵がいつも通りの元気な姿を見せてくれますように」
そう願いながら、悟空は瞬く星空を見上げていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
同じ頃…。
「三蔵………」
今日は、あの細い体を背負った。
そして、絹糸のような金色の髪に触れた。
いつもより、多く三蔵と接触した。
それは、滅多に無い貴重なひととき。
「この感触はしばらく消えねーだろうな」
手のひらを見つめ、先ほどの三蔵の姿を思い出す。
「たまにはこーいうのもアリだよな」
誰に言うとも無く、悟浄が呟く。
今日は結果的には特別な日になった。
「三蔵、おめでとさん♪」
祝いの言葉が本人に届かなくとも、今はそれで構わない。
「また明日……な」
それからしばらくの間、暗闇の中で、紫煙だけがゆらゆらと立ち昇っていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
そして、その少し後……。
「今日の収穫♪♪♪」
そう言いながら八戒がポケットから取り出したのは、小さな銀色の缶に入った幾つかの薬包だ。
「あのままあの男に持たせていても、本来の目的で使うことは無いでしょうし」
男を見逃す代わりに飲食代をタダにしてもらっただけで無く、八戒は更にその男とこっそり取引をしていた。
悟浄が三蔵を背負い、悟空がお土産の料理を山ほど抱えて先に店を出た後に八戒が挨拶したのだが、その時、
「念の為、薬効を調べますので、残っている薬は全部出してください。 ……後で訴えられたくありませんよね?」
…などと、半ば脅しに近いやり取りを交わして、店員の男から薬包を受け取っていたのだ。
「これは、いざという時の為に……」
それがどんな状況の時を差すのか、知るのは神……と八戒のみ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
三者三様の方法で三蔵に触れてきた下僕共。
確信は持てず、全て “疑わしい” という状況でしか無いのだが、全員がいつもとは違った雰囲気で接してきた。
そしてそれぞれが、三蔵に何か言い残して行ったものの、どれも聞き取れず仕舞いだった。
(言いてぇことがあンなら、面と向かって言いやがれっ!)
しかし、その三回とも、とても優しい時間が流れていたのは事実だ。
こんな風になってしまった姿をもっと罵倒されるかと思っていた三蔵にとって、その出来事は意外でもあった。
そして、決して不快な感じでも無かった。
…と、そう思えてしまう自分が、また意外でもあったのだが。
(クソッ…)
心の中で吐いた悪態は自分自身に対するものだった。
…が、それは、あまり経験したことの無い感情を持て余した結果なのだろう。
(アイツら…覚えとけよ……)
今夜は月が見えないので、灯りの点いていない三蔵の部屋は真っ暗だ。
けれど、それで良かった、…と、もしも見えていたら三蔵はそう思うだろう。
何故なら、その頬はまるで恥らっているかのように、ほんのりと紅潮していたから………。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
霜月も終わりのとある夜。
新月を過ぎて間も無い、まだ昏い夜が、ひっそりと更けてゆく。
暗闇の中で静かに紡がれる、それぞれの想い。
それは、月さえも看ることが叶わなかった物語。