神様。
今はその名前を呼ぶことすら躊躇われるけれど。
いつからか私は気付いてしまった。
受け入れられない悲嘆に叫んだあの時間も全部モノクロに変わる、そんな衝撃。
死と生とを繋ぐパイプが砕けた。
ふたつが別の場所で、でも確かに、在り続けるこのジレンマ。
私は絶えず二つの意識に代わる代わる捕らわれ、それらは少しずつ混濁していった。
苦悩とはほど遠い一種の陶酔感に浸ったまま、瓦解する何かに私は気付かないふりをして。
ねぇ。
一体どこにあるのだろうね。
私は自分の手足すらもがれた所で叫びもしない。
転がっている頭は石ころみたいで蹴飛ばすのも面倒なんだ。
心なんてどこにあるのだろうね。
勘違いが生んだ幻想、仕組まれた思想、刷り込まれた意識。
放棄するのは簡単だと、逃げるのは簡単だと言うけれど、
それら全てをさも自分が感じたことのように鵜呑みにするのだって同じくらい簡単なんだ。
愚かさに立派な看板や態のいい解釈を乗っけても、何にもなりはしない。
いつからかそれに気付いたんだ。
私の中に理想はない。深く根付くような愛もない。想いがない。
誰もが当たり前に持つ、もしくは持っていると思い込んでいるそれらがない。
時間が流動的でない。千切れ千切れの場面の切り貼りでしかない。過去も今も未来もない。
ただ目の前に広がる景色に目がくらんで嘔吐感を抑えることができない。
消えてしまえと願う。消えてしまいたいと、願う。
私を勝手にこの場所に排出したやつごと消してしまいたい。
ふりをするのは簡単だった。そのままでもきっといられた。ずっといられた。
少しの違和感を日常で誤魔化すことは、多分できたんだと思う。
でも、私はそれを選ばなかった。
選ばないことに理由はない。
選ぶという方に、特に理由がなかった。それだけのことだった。
*
四角く切り取られたような奇妙な空間に。
いつものように、私は、ただ在った。
言葉通り、在るのだ。それだけ。それ以外何の意味も持たない時間だった。
「どうした?」
近くの人影がそう言った。けれどそれには顔がない。首から上がぶれて見えない。
嫌悪を通り越すと、人間は自分に都合よく「消去」するのか。
「いえ、何でもありません」
いつものように微笑みながら言葉を返すと、奴は満足そうに頷いた。
(哀れな男だ)
・・・いや、哀れささえも感じられない。ただの肉の塊が動いてしゃべっているだけなのだ。
価値はない。お前にも私にも、価値なんてない。
なのにお前は何を誇っているのだろう。
たまたま持ち合わせた力を振りかざして神にでもなったつもりか。
「クルーゼ」
名を呼ぶな。
そう言った後で奴はいつも通りこちらに手を伸ばしてくる。
触るな。
声には出さず、毒づく。
奴の肩越しに見る部屋はいつもに増して現実感がなかった。
冴え冴えと白く、寒い、壁。清潔が非現実感を深めて。
外では戦火が上がり、死体は腐臭を漂わせて、憎悪と闘争の末路を如実に表している。
それこそ真だ。綺麗なものなんてこの世界のどこにもない。
生きていくことへの絶望を、生きることで日に日に深めていくだけ。
行く道に在るだろう多くの犠牲、その屍と、そこから生み出される悲哀を無残に踏み散らす者だけ生きていける。
救いがたい世界だ。
だが、ここは、綺麗に整頓された部屋。それらの世界とはまるで無縁であるかのような。
そこで奴はひとときの癒しを求めているというわけだ。
この私に。
笑わせてくれる。
このままナイフで目の前の首筋を掻っ切ってやろうか。
キスの最中に舌を噛み切ってやろうか。
喉の奥を僅かに震わせ笑う。
そして、虚ろな視界の中に天井が広がった。背中に感じるスプリングの弾み。
私は小さく息をつく。
覆い被さる人影に呪いの微笑を向けた。
いつかお前も私も終わる。それもそう遠くない未来に。
終わる瞬間、お前はどんな顔をするんだろうな。
私はそれを見ることができない。私にとってのお前は顔を持たない。
だが、それには、少し、興味があるな。
首筋の辺りに手を回して、予告の様に爪を立てた。
ショータイムはもう少し先だ。
今はまだ、爛れた時間にでも身を任せてみようか。
もうすぐ終わる。あと少しで。
無残に、無理矢理に、奪い取られる、この生命。
心地よい剥奪が待ってる。
(そうだろう?ムウ・ラ・フラガ)
お前の憎しみが欲しくて、そろそろ身体が疼き出しているよ。
お前もそうなのだろう?
結局互いの血が欲しいだけだ。
だが、それでいい。
その憎しみの滾るままに、この心臓を何回も撃ち貫けばいい。
何度殺しても殺し足りないような、まるで底のない殺意でもって私を殺せ。
私も最高の憎しみでお前を殺そう。
もはやそれだけが形在る望みのようだ。
その望みが叶った瞬間、初めて、私はこの世界を愛しく思えるかもしれない。
私は僅かに天を仰いだ。
*
神様。
遥か昔にいたはずの。この世界を等しく愛するという。
私はそんなもの信じない。信じることに意味はないと知ったから。
でも。
私は貴方の名前は好きだった。
曖昧すぎる響きに残る、痛みが好きだった。
空想だと言い切ってしまうにはあまりに圧倒的すぎる存在感に、私は本当は救われたかったのかもしれない。
それは、浅はかな願いだった。
もう二度と貴方の名前を呼ぶことはない。
私はこの黒く醜く、だが愛しい炎だけ信じよう。
その炎が己をも食い尽くすまで、決して消そうとはしない。
消しは、しない。
素敵な小説ありがとうございました///
見せ掛けのモノでは自らを癒せなくて
自分に与えられる残されたモノの中で、憎しみだけが真実の感情だと知って
それを受け入れる事で、救いを求めるクルーゼ(∋_∈)
本当は世界の何処かに、愛情というものが残されていることを望んでいて
その名前を呼んでみたかったのかも知れないです(T◇T)
現実の世界で、世界や社会や民族や国家を愛する事のできる理由は、どのくらいあるかと考えると
隊長の絶望が身に沁みます(T◇T)///世界が美しく優しくありますように。あ、あと萌も!(殴)