きっかけは、苛立ちだった。
無性に憎たらしかった。
でも・・・それとも、だから?分からねえが。
ある日、俺は言った。
その言葉の意味を、奴は裏切りとかそういう類のものと捉えるのだろうと、頭の隅で理解しつつ。
けれど、奴の反応は違った。
「分かった」
目一杯の驚きを顔に出してしまっていたのだろう。奴は嘲るようにして軽く笑った。
「てめえが言い出したことに、てめえ自身が目ぇひん剥いてどーすんだよ」
しなやかな動きで首に手を回された。
さも愉快そうに笑う声が耳元で鳴る。
無意識に右手を奴の髪に差し入れた。柔らかな感触が指に絡みついた。
見上げてくる目と視線がかち合った、その時に、背中をかけ抜けた得も知れぬ感覚が不気味で。
俺は思わず身体を少し後ろに引いてしまう。
「怖いのか?」
奴の声は掠れるほど小さいのに、はっきりと俺の耳に届いた。
そして、その平時の声とのあまりの違いに、この瞬間の異常さを確認する。
「捨ててしまえよ」
もう一言、奴がそう口にして。
その言葉の曖昧な響きに、俺は惑わされているような感覚を覚え、脳の辺りが次第に痺れていった。
ただ思うがままに腕を伸ばし。
そして。
捨てる、という言葉の意味を、いづれ俺は知ることになる。
それから。
俺は、幾度と無く繰り返す。
無意識にかまけて、俺はバカみたいに繰り返したんだ。
繰り返しながら。
己の立ち位置の不安定さがどうにも落ち着かなくて。
そして、俺はある日、この状況に態のいい名前をつけた。空々しいこと極まりない名前だ。
だがその名前の威力は絶大だった。
案の定それに酔いきった俺は、都合の悪いことには全て布をかぶせた。
嘲笑われていたことさえ、気付かないまま。
ただ求め、それに奴が応えること。それが全てで、答えなのだと、思っていた。
そんなあやふやな答えに安心しきっていた。バカみたいに。
・・・俺はこの時もしかしたら過信していたのではないか。
救うだとか守るだとか、・・・・・・愛する、だとか。
そんな表現。そういう思いやりの類。本当は己の充足感の足しにしていただけなのに。
俺はお為ごかしの言葉だけ愛でたんだ。
決められた枠にあてはめることで、何かに、なりきろうとしたのか。
どうにかなりそうに欲しくなる気持ちだって、うまい言葉で隠して逃げていたことさえ。
どうして気付けなかったのだろう。
「触るなよ」
突然の拒絶の言葉は小気味いいほどよく響いた。
笑みを湛えたその表情が、一層酷薄に映った。
「てめえでなくてもいいんだよ。縋るんじゃねえよ。気持ち悪い」
その言葉に、突き落とされた。
俺はどれだけ不確かなものに今まで溺れていたのか、それを思い知ったんだ。
何がどう繋がっていたのか。
言葉に出来ないくらい・・・言葉にしたって、実体の無いあまりに曖昧なものに。
認めたくないが、俺は気付かぬうちに縋っていたのか。
全てが音をたてて崩れていくような、本当にそんな、気がした。
開ききった瞳孔、僅かに奴の姿を捉えて、俺は震える声でもって言う。
「お前は・・・」
回る視界の中。
「お前は・・・俺のモンだろうが!」
全ての殻を取り外したら、こんなエゴしか残らなかったなんて、自分の事ながら笑えてくる。
ただもうこれだけが俺に残った事実だった。
これしか、なかった。
奴はしばらく目を丸くした後で、盛大に笑った。全てを打ち砕くような笑い声だった。
こんなにも馬鹿げたことを本気で口にした。
誰のものとか、そういうものではないと今まで言ってきたのと同じ口で、お前は俺のものだと。
離れていくのは許せなかった。
そこに思いやりを総動員したって、それだけは許すことはできなかった。
俺から去るのか。そんなこと許されない。もしそんなことをするなら。
・・・するなら?
今まで、一番愚かしいと思っていた行為さえ、ほら、こんなにも容易く思いつく。
それは俺がどこかおかしくなってしまったからではなく、
抑圧されていたものが解放されただけだということも、分かった。
上っ面の言葉だけ並べて膨らませたエゴが、範疇外の出来事に遭遇して弾けとんだだけだ。
―――俺から去るなら、殺してやる。
「捨てられたか?」
腐りきったモラルを、捨てられたか、と。
お前はきっと満足そうに笑ったんだ。最期に。